Ⅸ‐7
シャワー付きの水洗い場は幸いなことに夜でも蛇口をひねると水が出てくれて、体と服にまとわりついた砂を洗い流せた。
「ほら、見ないから服脱いで、砂とか全部落としなよ」
「絶対のぞいちゃダメだからね」
「分かってるよ」
「ほら、のぞいてるじゃん」
「のぞいてないだろ。かまかけんなや」
「ほほう」
「いいから洗って」
「分かった」
「こういう時は、割りと紳士でしょ、俺。そんなバカじゃないから」
「分かったって言ってるじゃん」
じゃあ、かまかけんなやって思ったけど、それ言うといつまでたっても洗わなさそうだから黙って自分の服を脱いで砂を洗い流してた。自分が裸で、すぐ隣に自分の好きな女の子が裸かそれに近い格好でいて、その状況で何にもしないでいる俺に賛否あるだろうけども、せめて俺は自分で自分を褒めてやりたい。
水洗い場で砂を落とした後、近くにあったベンチに2人で座った。2人の間で交わされた言葉達が、ふわりとそよいで、さざ波に融けていく。海って親とか大人に連れていってもらうものだって思い込んでたから、自分達で来れたっていうのが非日常的で、テレビとか映画の世界っていうか、ちっちゃい頃、寝る前に読み聞かされたお伽話の世界に入り込んだみたいな気持ちになった。
静かな夏の夜、2人の会話がやむと、波の音だけが聞こえる。お互いがお互いのことを意識し合ってるのだけが痛いくらいに伝わった。
「櫻井、さっきから無口じゃない?」
「ん? 何か波の音が心地よくて、ぼ~っとしてた」
「もう帰る?」
「えっ? もう帰るの?」
「だって、やることなくない? もう泳いだりもしないんでしょ?」
「そうだけど、じゃあ、花火やる? 買ってくるけど」
「う~ん」
西島の帰るっていう予想外の一言に俺の脳みそはてんてこ舞い。えっ? マジで? もう帰るの? まだチューしてなくない? 俺、チューしたいし、そのために頭をフル回転させてたんですけどみたいな。
マジか、俺だけだったんだ。夏休みの夜の海に2人っきりで来て、チューしないとかあるの? 知らなかったわ、教えといてくんないと困る。いや、あり得ん。チューもしないでこのまま帰るとかあり得ないでしょ。このチャンス逃したらいつするんだって話だし。西島はしたくないの?
っていうか、キスの正しい仕方みたいなのどこにも誰にも教えてもらったことないわ。どこでどうやってすんの? マンガとか映画とかドラマとかさ、勝手にキスし始めてるよね? 何をどうするとキスすることになるの? 分かんないから誰か教えてよ。
「いや、あのさ、チューしたいんだけど」
「はっ? 今、花火やるか帰るかの話をしてたよね?」
「花火はそこまでしたくないし、このまま帰りたくもなくて、今はチューがしたい」
「キモッ」
「うわっ、キモいって言った! 毛虫とかゲジゲジとかゴキブリに言うセリフを俺に向けて使った!」
「分かった分かった。じゃあ、花火しよう。花火ならしてもいいよ」
「え~、花火? 花火でいいの? ホント? 無理してない?」
「じゃあ帰る?」
「花火しようか」
諦めてコンビニに花火を買いに行こうと2人で歩いた。この時、西島は何を考えてたんだろう? 何を思ったんだろう? たぶん一生俺はそれを分からないまま死んでいく。しょんぼりしながら歩く俺に西島が言った。
「キスしてもいいけど、私からはしないからね」
「えっ? 俺からするのはいいの?」
「どうぞ」
「えっ? ホントに?」
しつこく確認するダサい俺にムカついたのか「別にしたくないならいいよ」って言われて慌てた俺は「わっ、ちょっ、たんま! キスしよう。キスしようじゃないか!」って大声が出ちゃって、暗がりの中でも西島の顔が赤くなるのが分かった。
「やっぱりしない!」
「ごめんごめんごめん! 悪かったって。何でもする、何でもするから」
「うるさい、しないって言ってんじゃん!」
「待ってよ、大丈夫だから大丈夫だから」
「何が?」
「いや大丈夫だから。お願いお願いお願い」
ファミレスで海に誘った時と一緒。理由も話の流れも全部無視して自分の本心を何のフィルターにもかけずにぶつけると西島は笑う。俺はその時の西島の笑った顔が好きで、でもどうしたらいいのか分からなくなる。
並んで歩いていた西島と向き合うと、西島はそっと目を閉じた。心もとない街灯の明かりに照らされて、怖いくらいに綺麗な西島がそこにいて、網膜から伝えられたそれらを、脳みそと心が焼き付ける。
目を閉じて静かに待つ唇に、俺は自分の唇を重ねた。それは神聖な儀式で、洗礼で、互いの魂の形を確認する世界で一番プリミティブな挨拶のようでもあって、それが嬉しくなって「フフッ」って笑い声が漏れた。
「何? 何?」
「何でもない」
西島が今まで一度も見せたことのない顔をしていて、すごくかわいくもあり、とても綺麗で艶めかしくもあり、それはキスをした瞬間に伝わったやわらかさとぬらりとした感触と似ていた。
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