Ⅸ‐6

 利根川沿いを1時間半近く走り続けると、磯の香りと共に波の音が聞こえてきた。目の前に広がった水平線は、どこまでもどこまでも続いてて、その果てにぶつかると穏やかな曲線を描く。銚子の海は、地球が本当に丸いんだってことを実感させてくれて、そんな海を目の前にした俺達は、我慢できなくなって浜辺に着くなり駆けだした。


「本当に着いちゃったね、すごい!」


 俺は笑うと目がなくなっちゃうタイプだけど、西島の目は笑ってもなくならないでカワイイまま、見開かれた瞳がキラキラしてる。


「あっ、そういえば、花火買わなかったね」

「そうだった、買う?」

「いいよもう、海に入っちゃおうよ。携帯と財布と鍵しまっといて」


 西島は俺に貴重品を放り投げて、靴を脱ぎ捨てて黒のジーンズをまくり上げようとしたけど「めんどくさいからいいや」ってなったっぽくて、そのまま海に飛び込んだ。


「お盆の後は、クラゲが多いから、あんまり中まで入っちゃうと危ないって」

「うわっ、すごい。上は温かいけど下は結構冷たいよ!」


 西島には俺の声が届いていないらしい。もう腰の辺りまで海に浸かってる。俺はバイクシートの下に貴重品を入れて、急いで合流する。離岸流とかあるって知らないっぽいから危ないわ。ライフセーバーもいない夜の海で溺れたら笑えない。


 九十九里浜くじゅうくりはまの海ってね、泳ぐなら海開きからお盆前の方がいいし、基本的に夜の海って危ないんだよね。しかも夜だと分かりにくいけど浅瀬の方だと海藻がいっぱい浮いてるからなぁって思ってたら西島がもう海藻まみれになってた。


「がっつり海に入ったね。もっと波打ち際とかでキャッキャするのかと思った」

「だって、せっかく海に来たのにもったいないじゃん」

「いったんあがろう。海藻と砂でジャリジャリでしょ?」

「もうあがるの?」

「うん」

「はっ?」

「いいから。裸足だとガラスとか貝殻危ないから気を付けてね」


 暗がりであんまりよく顔が見えなかったけど、西島が不満そうにしてるのだけは分かった。ただ九十九里浜を沖縄の海か何かと一緒にしてもらっちゃ困る。西島は「ホントに言ってる?」とか「何で?」みたいなことを俺に聞いてきてて「マジで危ないんだって」って言ってたら不意に腕をぐいって引っ張られて俺もがっつり頭から海に突っ込んだ。


「何なん?」

「私だけバカっぽいじゃん」


 言いながらわざと俺の顔面にかかるように水をバシャバシャしてきた。


「上等だな」

「うん」


 辺りは真っ暗で、月明かりに照らされて影絵のように浮かび上がる西島が綺麗だった。これから先、何年も何十年経っても、振り返った時に必ず思い出すことになるんだろうなって、そういう予感じみた気持ちにさせるには十分だったよ。それくらい、夜と夏と海に溶け込んだ西島はになってた。


「っていうかマジでクラゲとかに刺されたり、離岸流にさらわれたりしたら危ないから。あがろう。そろそろ足が届かなくなってくるし、笑えてるうちにあがろう。ねっ」

「ホントに? 何しに海に来たの?」

「海を見に来たの。泳ぐとか小学生までだって。気付いてないかもしれないけど、Tシャツもズボンも砂と海藻まみれだよ。友達の家に泊まったって親に言っといてこの状態で帰れないでしょ? ほら、あそこにシャワーの付いてる水洗い場あるから。ちゃんと洗っておかないと海水だし後でベタベタするよ」


 西島も一応は言うことを聞いてくれたんだけど、俺に諭された感じになったのも、せっかく海に来たのに大して泳げないことも面白くないっぽくて拗ねてた。


「ほら、そんな顔してないで行くよ」

「っていうか、歩くたびにグニグニするのは何?」

「クラゲ」

「えっ? これ全部?」

「そう、そんで打ち上ってるクラゲはほんの一部。海の中には、もっと、うようよしてるの」

「危なっ!」

「だから言ってんじゃん」

「言うの遅くない?」

「千葉の人間だったら、みんな知ってると思ってた」

「いや、知らんし」

「俺も西島が知らないのを知らなかったよ。俺、靴取ってくるから、西島は先に水洗い場に行って体と服に付いた砂、洗い流してて」


 俺がそう言うと西島が「1人は怖いから一緒に行く」って言ったから、2人で手を繋ぎながら一緒に歩いた。


 突然のラブコメ展開にドキドキして、西島は今どんな顔をしてるのかなとチラリと盗み見る。月夜の灯りに照らされた西島の横顔は、理不尽なくらいにかわいかった。西島に「どうしたの?」って聞かれたけど、正直に言うのが恥ずかしくて、「ほら」って海を指さした。


「あっ、月が海に映ってて綺麗だね」

「西島って夏目なつめ漱石そうせき知ってる?」

「何? ニヤニヤしだして」

「月が綺麗ですね」


 俺がそう言うと西島は「ああ、それが言いたかったのね」みたいな顔して呆れてるっぽかったけど口角が少しだけ上がってるのを俺は見逃さなかった。繋いでいた手をほんの少しだけ強く握り締める。西島は「はいはい」って。「分かった分かった」みたいなぞんざいな感じで言ってきて、俺が「何が『はいはい』なの?」って。


「別に」「嘘だ」「ホント」とか何とかふにゃふにゃした会話しながら、スプーンですくえそうな夜空の月と、その月を映す海のみなもを2人でずっと眺めた。

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