桃子

梅緒連寸

桃子

あの子の事なんか大した事は知らない。同じクラスで同じ授業を聞いていただけの子だ。それはもう何年も前の事だし、部活も委員会もつるむ友達もみんな違ったから、物理的な距離近くで過ごした時間が同じだけの話。

それでも印象はある。風化した記憶によって私の頭の中で浮き彫りになっている印象。

なんとなく気に触る女の子だった。


あの子はあんまり頭がよくなかった。でもお調子者。授業で当てられた時に大真面目でとんちんかんな返事をしていて、その度に級友たちはみんな大笑いしていた。それであの子も嬉しそうな顔をするのになんだか神経がささくれ立ち、さっさと時間が過ぎてほしいと思っていた。

あと、やたら大食いだった。どんなものを食べていたのかは忘れたがとにかくあの子の持ってくる昼食は規格外で、しかも1種類のものをひたすら大量にかきこむタイプだったような記憶がある。同級生たちはその様子をいつも面白がり、囃し立て、その時流行っていた大食いタレントが活躍するテレビへの出演を勧めていた。

私たちの時は女子校だった母校は今は共学になっているらしい。あの頃の女の子たちはみんな何の気兼ねも無くきゃあきゃあ声をあげて、涙が出るまで笑っていた。


私とあの子の間に思い出なんかないはずだった。

高校であった出来事はお互いにそれぞれ他の友達と共有していた。何にもないはずと思っていたのに、この間ふとした出来事で何故か蘇ってしまった。

仕事帰りに立ち寄ったスーパーで、夕食分と次の日の朝食用の買い物をした。帰り道に元々小さな裂け目があったらしいビニール袋が破れ、林檎がころりと飛び出しアスファルトの上を転がった。

他の荷物がこぼれないように庇いながら追いかけて屈みそれを拾ったとき、不意に既視感を覚える。

あの時もこんな風に手を伸ばしていた。


夏休みが明けて体育祭も終わり、季節も忙しさも少し落ち着いてきたような頃だったと思う。

行事があった。学生らしくみんなでジャージを着てバスに乗り、地元の山の果樹園での桃狩り。地味で退屈でかっこ悪くて面白くない、たかだか数時間の思い出作り。

桃は嫌いじゃなかったけど、ちょっと食べればもう十分だった。贅沢な糖度の高さに現代人は簡単に飽きる。あと、皮を剥くのが手間なので次第に面倒にもなってくる。

ほかの皆も最初にもぎ取ったひとつかふたつで大体満足して、残された時間は山の斜面のどこか適当な場所で座り込んで喋りあったり、木陰で昼寝をしたりしていた。

私はあの時桃の甘さでのどが渇き、果樹園の管理事務所の横にある水のみ場で口を漱ぐために、友達のグループからひとり離れて歩いていた。

山の斜面に植えられた桃の木からひとつ、歪な回転でコロコロ転がり落ちてきたものが私の足元近くで止まった。


「ごめん、フミカさん。ぶつかった?」

転ぶのを恐れているのか、そろそろとした足取りで斜面を下りながらあの子が私に声をかけた。

「大丈夫だよ、その前に止まったから」

彼女の獲物の桃を拾い上げてやろうとすると、異様な触感を感じた。こちら側にみえている上半分はまともな形を残しているのだが、地面に面している方はぐずぐずに熟れていたのか、落下の際にどこかに引っ掛けたのか、ベッタリと潰れていた。一瞬触れただけの手に甘ったるい芳香を放つねっとりとした汁がへばりついている。

「あーあ、これダメになっちゃってるよ。他のにしなよ」

「うん、でも捨てるのはもったいないじゃん。ちょっとそれ、取ってくれる?」

私が足元の桃を拾い上げてあの子に手渡した時、妙にぬるくて、やわらかくて、掴んだ桃とよく似た手の感触だったのを覚えている。口にすることのできない不快感が表情に出るのを抑えられていただろうか。

「他の樹にもいっぱい生えてるのに。なんでわざわざ?」

「あたしさ、色々探してみたんだけど、その中でもこれがいちばん美味しそうに見えたんだよね。もうこれが食べられたら他はいいやってぐらい。でも触った瞬間に落ちてって。ねえ、これ食べられないこともないと思わない?」

「まあ食べたところで死にはしないと思うけど。でも土とか付いてるよ」

「そんなのこうやってね、したら」

大雑把な動作で表面を払ったあの子はいきなり桃にかぶりついた。潰れた側から食い付かれた桃は水をぼたぼたと零し、それが局地的な雨のように地面に降り注ぐ。

あらかじめ貸し出されていた、小さくて切れ味の悪い果物ナイフは最初から使う気がないようだ。そのまま桃を半回転させ、皮を摘んで、反対側の果肉が次々消えていく。

顎がよだれで濡れているのか果汁で濡れているのか判別つかない。ぽたぽたと雫を垂らし落とし、桃を掴む手をぬらぬらと濡らして、肘のほうまでつたい、やがてまた雫になって地面に落ちていく。

じゅるりと音が響いた。笑っているような顔で噛みついている。

豪快な食べっぷりにどう反応していいのか分からず、ただその場に突っ立ってその様子を眺めていた。意地汚らしさとか、果汁と唾液が混じったものが流れ落ちる事への嫌悪感とか、今でこそ感情は浮かぶものの、当時の私はひたすらに困惑し、固まっていた。ただ桃を食べているという動作が、皆も同じようにしている事が、あの子がやるとそれはまるで別物になった。まるで言語の違う人間が行う得体の知れない儀式のように捉えられた。

その後私がどうしたのかは覚えていない。適当に話を合わせたのか、何も言わず立ち去ったのか。

それまで殆ど話をしなかったのに、あの子が私の名前を知っていた事に今ようやく気が付いた。


そんなことを思い出してから数ヶ月経った頃、同窓会の知らせが届いた。地元のレストランを貸し切って行われた会は、卒業してすぐにあったクラス会よりも規模は大きかったけれど、まだ子供が小さいだとか、県外に住んでるとか、かつて女の子だった女たちは全員揃うことはなかった。

あの子もいなかった。同席した何人かにそれとなく尋ねてみたけれど、高校を卒業してからのあの子の消息を知る人は誰もいなかった。その場にいた一同も驚いたのだが、あれだけ目立つ子だったにも関わらず進学したのか、就職したのかも誰も知らなかった。みんな不思議がりながら、あの子の奇行や武勇伝の思い出の数々を語り大いに盛り上がった。

あの子世界中の美味いもの探しに旅に出たんだよ。

と誰かが口走った。


同窓会から帰った夜、夢を見た。

おかしな内容だった。

私は仰向けに横たわっている。

私の頭蓋骨は砕け、中の脳みそは潰れ、何やら透明な液体や血やらを飛び散らかしている。

現実なら到底生きてはいない状況なのだが私の意識はしっかりとあり、しかも自分の目ではなく第三者目線で頭が半壊した自分を眺めている。横たわった自分と、それを覗き込むあの子の後頭部を俯瞰している。私の散らかった頭の中を拾い上げているようだ。

みちみち、ぴちゃぴちゃと品のない水音が聞こえ、こいつ大人になってもまだこんな食い方してんのか、と思わず呟いた。1番美味しいのを食べられたら。他はいらないんじゃなかったのかよ。


『だってまだお腹には入るし、まだ食べてないものはいっぱいあるし』


呆れてもぞもぞと動いた私の唇に、瑞々しい果肉がぽとりと落下する。

あの子は、私に、覆いかぶさってくる。

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桃子 梅緒連寸 @violence_

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