パワースポットから巡る日帰り異界探訪記【奈良県奈良市編】

いずも

猿沢池にて意馬心猿放生会(ワルプルギス・イヴ)


 ――今日もまた、異世界には行かなかった。



 まだ初夏と呼べる季節にも関わらず、額を拭う。

 それは汗だったか水溜まりから跳ねた雨水だったか、今となってはわからない。

 目まぐるしく変わる天候のご機嫌を伺うように空を見上げる。


 うん、今はよく晴れている。


 JR京都駅から電車に揺られ1時間弱、奈良駅に到着。

 わざわざ市外どころか府外にまで出掛けるのには理由がある。



 その前に自己紹介を一つ。


 高校卒業後は進学もせず女子高生という最強の肩書きを失ってしまい、己の生き方すら定まらぬままに日々を怠惰に貪り、あてもなく彷徨っている。


「書を捨てよ、町に出よう?」

 書を小脇に抱えたまま町に出たって良いじゃない。

 ――芳紀まさに十八の若者には古老のどんな金言も響かない。



 彷徨いついでにフリーのライターとして様々な場所――主にパワースポットに赴いては現地取材を行い、それをまとめてネット記事にしている。

 旅日記として現地で起きたことをありのまま書ければ楽なのだけど、そうもいかない事情がある。

 それはボクのを引き寄せる体質によって……ああ駄目だ、これ以上は思い出したくもない。


 それがかそけし自称ルポライター、阿納桧あのひの都月つづき。これが表向きのプロフィールである。



 改めて本題に入ると、奈良にはとあるパワースポット目当てでやってきた。

 東大寺や正倉院、春日大社に国立博物館と、どれをとってもパワースポットになりうる施設ばかりの奈良公園内でも、ひときわ気になる場所があったのだ。


 その名も『氷室神社』である。

 読んで字のごとく氷を祀る神社で、今でも毎年氷柱を奉納しているのだとか。

 昔は冷蔵庫なんてなかったわけだから、氷は貴重なものだったんだろうな。


 いやまあ、今でも貴重だけど。

 何なら今すぐ欲しいけど。


 きっと境内には巨大な氷柱がどーんと鎮座していて、そこだけ別世界みたいに涼しいんだろうな。

 そこだけ永久凍土で今なお奈良に残る異界の地って感じなんだろう、いやそうに違いない、そうであってほしい。


 今日は暑いし涼みに行こう。

 そんなノリで異界の地へ乗り込んできたのだ。



 奈良駅前の大通りを北上してすぐ東に曲がると、奈良公園に向かう三条通に入る。

 幾何学模様のタイルが並ぶメインストリート、夜は飲み屋街だろうという印象。

 京都の三条通に似てなくもない。

 いや、どちらかというと屋根のない蛸薬師から新京極にぶつかるまでの、あの賑やかしが長く続いているようなものだ。

 細い路地に入るのは裏寺町通に向かう感じだし。


 土地にはその土地ならではの匂いとか空気感がある。

 ずっと住み続けていないとわからないし、他所に出かけた時に「匂いが違う」と感じ取れない。

 偉そうなことを言える立場じゃないけど、つまりここ奈良も「いつもと違う」くらいは嗅ぎ分けられるのだ。


 ただ、無味無臭。

 味はしないけど。

 不思議なことに特定の匂いがしないのだ。

 特徴的な植物とか、焼き物の煙とか、化学工場の排気ガスとか、なんにもない。

 不思議なくらい、空気が凪いでいるのだ。

 世界中を飛び回っている姉だったら、もっと明確に言語化してくれるかもしれないけど、ボクは目隠しでここに連れてこられたら「京都じゃないどこか」くらいにしか判別できない。


 額の汗を拭う。

 コンビニで何か買おうかと立ち止まるのだけど、次でいいかとスルーしたら地獄を見た。


 なにここ、緩やかな上り坂なんですけど。

 途中から汗が出る時点でおかしいって気付けよな。

 斜めっているタイルを真っ直ぐ踏んでいるのか、視界が揺らいでいるのか見分けがつかない。

 いや、さすがに意識が飛ぶにはちょっと早いって。

 照り返す太陽熱を恨みながらひたすら東に進んでいく。


 道中には珍しい……のかわからないけど、托鉢僧。

 京都の三条大橋にはよく居るけど、奈良の三条通にも出没するのか。

 今はこっちが助けてほしいよ。


「飲み物、飲み物……あれ、何だろう。池……?」

 左右の店がなくなり少し開けた場所に出る。

 目の前には全景が見渡せるほどの大きな池が広がっていた。


 猿沢池。

 興福寺が行う「放生会ほうじょうえ」の放生池として、天平21年(749年)に造られた人工池。

 五重塔が周囲の柳と一緒に水面に映る風景はとても美しく、奈良八景のひとつと数えられる……らしい。

 放生会とは生き物を野に返す――ここでは魚を池に放流して、無闇矢鱈と殺生しないで生き物をいただくことに感謝する宗教行事、でいいのかな。


 猿沢池には七不思議がある。

「澄まず、濁らず、入らず、出ず、蛙わかず、藻生えず、魚七分に水三分」

 七不思議というワードは魅力的だが、話すと長くなるので今はあれこれ言わない。


 それよりも、もっと直接的に、即物的に、異世界へ迷い込むための不思議な扉が待ち構えていた。


 スターバックスっていうんですけどね。

 あそこにいるのは異世界の住人だ。

 みんなわけのわからない長い詠唱で魔法を唱えている。


 ボクにそんな力は無いので、受付の女神様によってチートスキル(おすすめ)を授けられた。

 なんと、桐の銀貨と交換で何とかフラペチーノとかいう魔法の液体が手に入るのだ。

 ひえひえー。

 どうにも居心地が悪いので、商品を受け取ったら異世界とはオサラバしよう。

 カランカランと忙しなく氷のぶつかる音は、魔法が解ける合図となる。



 ……

 …………

 ………………



 池の周りを散策していると、不思議な光景に出会った。

 池の南側に市街地へ抜ける石の橋が架かっているのだけど、橋の下に何かいる。


 その空間は階段を降りて移動できる用水路になっている。

 向かいとの間、中洲のような場所にコンクリートで象られた小舟が浮かんでいた。

 その舟には何体もの地蔵が並べられていて、修験者の格好をした男――だと思うが、その重そうな地蔵を一体ずつ舟から降ろしていた。

 赤い前掛けが外れようが気にも留めず、ただ、ひたすらに。


 橋の上から目が合い、その眼光の鋭さにぎょっとする。


「何をしてるんだって顔だな。もうすぐ雨が降る。こいつら重いからな。出さないと舟が沈んじまう」

 その声はしわがれ、金切り声に近い。

 なんだか助けを求める難民を切り捨てているようにも見えた。

 聖者――と呼べるかわからないが、修験者として正しい行動には思えなかった。

 思い出したように呼吸をすると無臭の都に獣臭い、淀んだ異臭が立ち込める。


「お前、どこに行く」

「ひ、氷室神社に……」

「そうか。そこにあるのは違うんか」

「え? ……道中にあった鳥居のところ?」

 まさか、すでに通り過ぎた――なんて思っていると。


 ぽたり、ぽたりと。

 大粒の雨がコンクリートを染めていく。

 認識するやいなや急激に強まり、世界は灰色に変わる。

 雨の音、雨の匂い、雨の色。

 すべて雨が支配する。


 踵を返し、先程見た鳥居を目指す。

 でも、残念ながら氷室神社ではなかった。

 仕方ないので雨宿り、と決めた途端に雨は上がった。


 まだ僅かに小雨は降っているが、すっかり空は晴れている。

 まるで狐の嫁入りだ。



 あまり近づきたくはなかったのだが、あの舟がどうなったのか少し気になる。

 だが、歩く度に違和感が増していく。


 ペトリコール、つまり雨上がり独特のあの匂いが感じられないのだ。

 いくら奈良が無臭だと言っても、あのムワッとした感じすら嗅ぎ取れないのはどうにも不自然だ。


「沈んだかどうかわざわざ確認に来るなんて、お前は悪趣味だな」

 石橋に差し掛かろうかといったところで、橋の下から声が聞こえる。

 良い気分はしないが、否定も出来ない。


 恐る恐る下を覗くと、さらに奇妙な行為が行われていた。


 雨が降るまでとは真逆、つまり降ろしていた地蔵を舟に再び乗せ直しているのだ。

 嫌がる地蔵を逃すまいと引き寄せているように見えるのは穿った見方だろうか。


「こうやっておかないと風で舟が流されちまう」

 なんて自分勝手な――って。

 まただ。

 こちらの心を読むように「なんで」の問いに答える。

 鋭い眼光、ニヤついて歪んだ口元。

 痩けた頬から乾いた笑い。

 修行のし過ぎでおかしくなってしまったのだろうか。


「いよっ、と」

 男は2メートルはあろうかという高さを軽々飛び上がり、石橋の上に降り立った。

 見下ろしていると気付かなかったが、かなり体躯が良い。

 そして雨降り前に感じた獣臭が再び強くなる。


「ひっ」

 ただそこに立っているだけで威圧感が凄い。

 加えてこちらを見透かしているようなぐるぐる巻きの目だ。


「……んあ、なんだぁ。お前、男だとばかり思っていたが、ひょっとして女か。もしや𧳜しゅうか。ま、どっちでもいいか」

 あれ。

 なんだ。

 鼻息が荒くなってるぞ。


 なんだかこちらを見る目が変わっているような。

 思わず後ずさる。

 一歩下がると一歩近づかれる。

 さらに下がるとまた詰め寄られる。

 一向に距離は開かない。



 猿沢池のほとりまで後退して、いよいよ後がない。

 ええっと、なんでしょう。

 これ、ピンチなのでは?


「ちんちくりんで全く色気もねぇが、子さえ産めるんなら何でも構わねぇよ」

 今すごーく失礼なこと言われた気がした。

 いや普段なら女の子扱いされたら悪い気はしないけどさ。

 この状況下でときめくやつはいないでしょ。


「いたっ!」

 思い切り腕を掴まれる。

 袈裟からのぞく腕は妙に毛深く、握力も腕が引きちぎられるのではないと思うほどに強い。

 そこでようやく、これは人間と気付いた。

 けど、もう何も考えられなくなっていた。

 痛みと恐怖で涙が頬を伝う。


「……っ」

「さぁ、孕め。俺の子を、さぁ、さぁ!」

 しわがれた声で喚き散らすのはまるで猿の威嚇のようだ。

 牙をむき出しに、己の欲望の赴くままに暴れ回る。


 ついに腕の力が抜け、飲み物が手から離れゆっくりと落下する。



 ――カランッ



「ガアァァ!!」

 突如、男は頭を抱えて苦しみ出す。

 掴まれていた腕は自由になる――が、まるで力が入らない。


 でも、今がチャンスだ。

 ここでやるしかない。

 相手の背後に回り込み、池に向かって思いっきり突き飛ばす。


「お前なんかお断りだ、バーーーーカッ!!」


 血飛沫……ではなく池の水飛沫を全身に思いっきり浴びながら、力なくその場に倒れ込む。



 ………………

 …………

 ……



 カラン。

 氷の溶ける音。

 落としたカップを拾い上げる。


 カランッ。

 似たような音だけど、どこか違う。

 さっき聞こえた不思議な音。

 あれは氷のぶつかる音ではない。


 背後に気配を感じ、しゃがんだまま振り向くと――また修験僧!?


「あ、托鉢の人……」

 彼は無言で錫杖を軽く振り上げ、下ろす。


 シャランッ。


 先程よりも強く音が鳴る。


「あれはの類。決してあちらに取り込まれぬよう精進なされ」

 そう言って彼は行ってしまった。



 玃猿かくえんとは中国の伝説上の動物で、さとりという心を読む妖怪のモデルになったとも言われている。

 他にも呼び方があり、かく猳国かこく、そして――馬化ばかともいう。

 猿のような見た目でオスしかおらず、人間の女性をさらって子を産ませる、とのこと。


 ちなみにボクが間違えられた𧳜シュウは逆にメスしかいない。


 また、玃猿に孕まされた女性やその子は仮の姓として「楊」と名乗る。

 楊とはつまりだ。

 猿沢池に植えられている柳の木があちらで何を意味するかなど、考えたくもない。

 風に揺られる柳たちは嘆いていたのだろうか。

 それとも、手招きしていたのだろうか。

 今はただ何も言わずに佇んでいる。


 人間に化けていたが川の石にぶつけられて正体を暴かれるというエピソードもあるが、なるほど猿沢池にもご立派な大岩があった。

 気持ちよさそうに亀が日向ぼっこしている。



 ……やれやれ、まだ心臓がバクバクと脈打っている。

 気を落ち着かせるためにベンチに腰掛け、色々と調べてみたものの。

 これじゃ明鏡止水なんて心持ちになれるのはまだまだ先の話だ。


 何があっても動じないように在りたいものだけど、うまくはいかないものだ。



 飲み干したカップから氷を一粒取り出し、そっと唇に当てる。

 溶け出した水が指を伝い、腕まで滴っていく。

 まだ、少し痺れている。


「一片氷心、ね」


 その一欠片を口に放り込み、思いっきり噛み砕く。

 こめかみから脳髄まで響く咀嚼音。


 ふーんだ。

 あんなお上品な音よりもっと爆音で今度は追い返してやろう。



 ――だから今日も異世界には行かなかった。



 ちなみに氷室神社はさらに歩いて15分くらい先にある。

 ……今日はもういいかなぁ。

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パワースポットから巡る日帰り異界探訪記【奈良県奈良市編】 いずも @tizumo

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