第35話
「田舎の平民は、そういうものなのかしらね」
眉を寄せつつ、トリーシアは息をつく。
「今は緊急事態だからうるさくは言わないわ。けれど、気を付けなさい。貴方たち平民は国に――貴族に護られているの。だから平民は貴族に従う義務があり、敬うべきなのよ」
考え方は魔物の群れと同じか。だが、決定的に違う部分もある。
「己の利の程度による」
護られている実感が強ければ、言われずとも従うだろう。敬うに足る行動を取れば、自然と気持ちが生まれるだろう。
「お前たちは敬わない平民に憤るのではなく、敬われない己を恥じるべきだ」
「っ」
言った瞬間、トリーシアはまるで予想外のことを聞いたとばかりに目を見開く。
「だから今、俺は本の選定をしてくれたお前に感謝しよう。しかし、もう遅い。休んだ方がいいと思うが」
「貴方はどうなの?」
「洗い物しかしない俺は問題ない」
というか、一日二日寝なくとも不調をきたすほど脆くはない。魔物なので。
「それでも体には良くないでしょうに。……適当に切り上げなさい。王都に来れば、それより余程詳しい資料を図書館で自由に読めるわよ」
トリーシアはそんな提案をしてくるが、それができるならやっている。
「それじゃあ、お休みなさい」
そして結局、俺は一晩かけて本を読み続けた。
起きてきたリージェとトリーシアには叱られたが、問題ない。人間だって徹夜する時はするのだと聞いた。一晩ぐらいなら怪しまれないだろう。
朝食を済ませたら、台座の結合だ。トリーシアの表情に、時折緊張が浮かぶようになってきた。
ちなみに、出された朝食はトリーシア、リージェ、俺の順で差があった。徹底している。それでも俺が普段食べている物より上等な素材だったが。しかし味が濃かったのであまり進まなかった。多少残念な気持ちはある。
トリーシアが結合している間、リージェは予備の材料を準備。俺はそれに使われた器具の洗浄。
どうやらトリーシアは、自分が結合を成功させるとはあまり思っていないようだ。
だが、今回は大丈夫なはず。そのために手を加えたのだし。
……最短で成功してくれなくては、困る。
「え……。あ、ら?」
「トリーシア様? どうかしましたか?」
思いがけないことが起こった、とばかりに不思議そうな声を上げるトリーシア。それにリージェが作業の手を止めて振り向く。
「……成功したわ」
「そうなんですか!? さすがです!」
個人への苦手意識と実力への称賛は別らしい。リージェの素直なはしゃいだ声を受けつつも、トリーシアの眉間にはしわが寄っている。
「そんな、まさか……。こんな簡単にいくわけがない。この錬成のし易さは一体……?」
訝しんだ声で独り言ち、ふと言葉を切ったトリーシアの視線がこちらに投げかけられた。
「な、なら早速領主様にご報告した方がいいですね! わたしも結晶を持ってきます。行こう、ニア」
「あ、ああ」
リージェが口にした内容は実に理にかなっている。やや強引感はあるが。
「それじゃあトリーシア様、失礼します」
「え、ええ。ご苦労様」
もう決定したこととしてリージェが挨拶をすると、トリーシアは驚きつつも流される形でうなずいた。
そしてリージェに腕を掴まれた俺は、何をする間もなく廊下へと引っ張り出される。
本……もう少し読んでいたかったんだが……。
「ニア。もう少し本を読みたかったなー、とか考えてない?」
「考えている」
俺の物惜しげな視線が何を追っているか、同類たるリージェには分かっているらしい。
「そんなことしてる場合じゃないでしょ、もー。町が丸ごとなくなるかもしれないっていうのに」
「そうだった」
町が残っていたら読む機会が……ないな。……やはり惜しい。
だがイルミナやリージェの命より惜しいか? と問えば否だ。本にかまけて手遅れになったら、おそらく後悔するだろう。
「すまない」
「いいけど。ニアが錬金術大好きなのは知ってるし」
「お前もだろう?」
「もちろんよ」
断言して、リージェは悪戯っぽく笑う。
「わたしが読んだことのある本ばかりでよかったわ。知らない本だったら、ニアと二人して正気に戻れなかったかもしれないもの」
「成程。幸いだ」
腹の底から込み上げてきた何かが、喉を震わせる。出そうと意図したものではない。
不快なわけではないが、何だ? これは。
「どうしたの?」
「どうした、とは?」
こちらが訊きたい。
「笑ってるのに悩んでるような、奇妙な顔してるから。そういえば、ニアが笑ってるとこ見るのはじめてかも」
「……笑って、いる?」
俺が?
――ああ。そうか。そうなのか。
意識してではなく。感情が体に現れたもの。俺は今、楽しかったのか。
「どうしてそんなに不思議そうなの」
「『笑う』という反応を覚えたのが、何分初めてだったものでな。興味深い」
「え」
しみじみと呟いた俺に、リージェは引きつった声を上げる。
「初めてって、まさか。いやでも、そっか。ニアって……」
リージェの視線が気遣わしげに側頭部――翼のある辺りをなぞった。疑問の表情を納得のそれへと変え、大きくうなずく。
「だ、大丈夫だよ、ニア! これからもっと沢山、楽しいことしよう! わたしも協力するから!」
「別にいらないが」
どちらかと言うと、近くに人間がいること自体が俺の平穏を脅かす。
さくりと断った俺に、リージェは顔を赤くして頬を膨らませる。
「そこは受け止めてよ、もう!」
拗ねた声で抗議をしてくるリージェに不思議と和んで、再度、自然と唇が歪む。
「真剣に言ってるのに断られて笑われるってどうなの? って思うのに、苦笑一つでまあいいかなとか許しちゃう自分が悔しい……!」
よく分からない葛藤を口にして、リージェは両拳を壁に叩きつける。それは物理的な行動で解消されるものなのだろうか。
リージェの行動はほぼ意味不明だが。
なぜか俺も悪くない気分だった。
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