ことば、言語って、生きものだと思います。時代に合わせていろいろ変化してきたものだと思います。口語体で小説が書かれるようになった頃、文語体で書き続けている人は苦々しく思ったろうな。かな文字を使う人が増えてきた時代、漢文で書類を書いていた人たちは「この国の言葉が滅びる」と思ったんじゃないでしょうか。
でも確かに、同時代の人間からすると、はらはらしてしまうのは当然だと思います。「思う」「やばい」が、後世から見た日本語のターニングポイントとなるかどうかは、まだわかりません(ちょっと大げさか…)。
ただ、日本語は「察しろ!」という意味合いの表現が多いな、とは確かにうなずける話です。
…私も「思う」↑いっぱい使ってるなあ…これは反省だ。
作者からの返信
三奈木真沙緒さま
おはようございます
私は最近「思うはダメ」に縛られ過ぎて変になってしまっています
「存じます」なんて、硬いものを使ってもう訳分かりません
意識しすぎるのもダメだなあと苦笑いしております
これを書いた当時、一番にあったのは冒頭のことで、政治家の「思う」は逃げ口上にしか聞こえなかったんです
さらに街頭インタビューなんかでも「思う」の連発で、日本は良くも悪くも上からの影響受けやすいなと思うところありまして
結局、程度の問題かと
「思うがダメ」とがんじがらめも自由度が低くなるのでしょう
話し言葉でも「思う」「やばい」は言葉の墓場となるのかもしれませんが
書き手として考えた時には、読み手にとって優しくが第一ですよね
「……」の多用はいけないのと同じく、「思う」も「やばい」も使いすぎると何が言いたいのか分からなくなります
それこそ「察せ!」と読者に強要しているようになりますから
手紙のやり取りのようなものにまでそれを考えすぎるとまたがんじがらめですから、そこは気楽にやりましょう
それでいいですよね
簡単な話にまた付け足し長々と申し訳ありません
昨日は阪神ファンの嘆きにも付き合っていただいてありがとうございました
歩 先生 こんにちは。
「〜と思う」についてのコメントです。
単純な事実確認での質問に答えて「〜と思う」と表現されると、「断言ではないからあくまでも意見にすぎないな」「これはただの根拠が曖昧な予測だな」と情報の重みが伝わります。コレがありがたいのです。
なぜなら今住んでいる国で同様な質問をすると、全くそれについて知らない人が「〜だ」と根拠もなく思いつきの意見で断言するので不便です。信じるとエラい目に合わされます。「〜と思う」という表現もあるのですがまず使ってくれません。
他の国でも同じようです。道を尋ねたら知らない道でも断言して教えてくれるようです。他民族による侵略を経験した民族は「知らない」というと非協力的だと殺されるので、知らなくても「アッチ!」と適当に教えるようになっていると。敵が「アッチ」へ向かっている間に逃げられるから、とりあえずの意見で断言すると。
ひるがえって比較的平和な日本人の「〜と思う」の使い方、事実確認とそのまま情報の精度が予想できるのでいう点ではありがたいです。
作者からの返信
土岐三郎頼芸さま
個人的な「思う」に付き合っていただきありがとうございます
そうですね、あいまいさを残す、それは日本人の美徳でもあります
土岐さんの「思う」の捉え方も正しいです
普段の会話から、あるいは土岐さんがおっしゃるような場面でも、何でもかんでもカチカチになって「思う」を使わない、断言ばかりもしんどいですね
TPOですよね、なんでも
貴重なご意見もありがとうございました