現代ファンタジーへとつながる昔話 (「オイオイ石」のあとがきに代えて)
「オイ」と「負い」はかかっています。
おぶさってくるものへの恐怖。
見えないからこそ。
「後ろから襲い掛かってくる」
これは古来より、怪異の定番でもあります。
それは昔話でも変わりません。
「夜中(あるいは暗い山中)、歩いているといきなり何かがおぶさってくる」
ウブメの妖怪譚にもあるように、
「幼い子供を負ぶってくれと頼まれる」
それがだんだんと重くなり、耐えられなくなって、潰される。
しかし、負けじとがんばって約束を果たす、あるいは正体を見てやるぞと家まで持って帰る。
さあ、たぬきか? キツネか?
と、どさりとおろしたそれを見てみれば、なんと宝の山。
宝ではなく剛力を得るという話もあります。
これが正直爺さん、欲張り爺さんの話となると、
「欲張り爺さんが挑戦するも、それは馬糞の山だった」
と、一種の教訓譚にも化けます。
このような話、源流をたどれば神話にも行きつきます。
スサノオノミコトは北欧神話におけるロキにも通じるトリックスターの一面ありますが、
西洋の神話なら、ヘラクレス。
大神ゼウスの子と出自は正しい。赤ん坊のころから怪力で蛇も握りつぶす。チートもいいところですが、ゼウスの正妻ヘラの嫉妬を受けて十二業を課せられることに。それを越えて初めて、神の末席に加えられたのです。
「出自ではない。試練を越えてこそ栄光や宝を得るにふさわしい」
これは洋の東西、古今を問わず、一つの真理として人の心の中にあるのでしょう。
神話学的に言うと、ゼウスの浮気性は「自分たち一族の血統をたどれば神に行きつく」と言いたいがため。そこはトーテミズムにも通じるところありますが、しかし所詮浮気での血統では後ろめたさはぬぐえない。そこでヘラの登場です。女性の味方であるヘラの試練を越えてこそ、初めてその血統は世間に、歴史に認められるという。
昔話に下れば、降って湧いたような試練でもそれを超えることで幸せや宝を得ることが出来るはずと、素朴な庶民の願いになります。
この心理は
岩に刺さっていた剣を抜いたことで勇者と呼ばれるようになる。
しかし、それだけで面白い物語になるはずもない。
なぜ剣を抜けるのか。
いや、それに重点を置くよりも、大事なことは「理由」より「過程」。それを描いてこそ、読者の心を捉えられる。
桃太郎だって、鬼退治をして初めて、英雄と認められたじゃないか。
結局、その筋立ては神話や昔話と同じなのです。
物語づくりに頭を悩ませているとき、ふと昔話に立ち返る。
すると現代にも連綿と続く、人間心理をよく捉えていることに気付く。
昔話と馬鹿にするなかれ。
出来れば読者も昔話に立ち返ってほしいなと、昔話が好きな人間は願ってやみません。
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