第2話 立花宗茂
時空移転のような、誰も認知出来ない世界を語るのは危うい事である。
その昔、水平線の果ては滝のように海水が落ち込んでいると皆が信じていた。ところがある時とんでもない話をする者が現れた。
「水平線の先をどんどん船で進んで行くと、この大地の裏側に出るんじゃ。我々とは全てが反対の世界でな、そこでは誰もが逆さまに暮らしているのだぞ」
空想好きな子供でも笑い出してしまう話である。
我々の世界で殆どの物理法則は、時間が過去から未来へ進んでいようと、逆であろうと成立するという。
しかし例えばローソクが灯ると次第に短くなる。これを元に戻す事は出来ない。我々の認識している世界は、その変化を感じる事で時間というものを知る。
この時間は現在の宇宙が誕生した直後から膨張を続けて、その変化が時間となっているのだ。だがこの時間は本当に一次元だけなのだろうか?
多次元の世界はまだ肯定も否定もされてはいない。
秀家を探し求めていた歳三とその配下がやっと出会った時の兵力は2000を切っている。
秀家の軍は東軍の前面に布陣した結果、正に大きな標的となってしまう。戦が始まると福島正則7,000を筆頭に、京極高知3,000、田中吉政3,000らの軍に三方からの集中攻撃を受けた。
しかも西軍の右翼を守っていた筈の大谷吉継軍が、小早川の裏切りにより壊滅してしまうではないか。
たった一日で17000が激減していたのだ。秀家の軍には明石全登の他に勇士もおらず、内紛の続く宇喜多家の弱さが露呈した面もある。
此処は佐和山城内である。
「秀家殿」
「これは、秀頼様では御座いませんか!」
秀家の驚きはもっともだ。さらにたった一日で西軍が東軍を押し返して、家康殿が逃げだしたと言う話には言葉も無かった。
だが「秀家様は秀頼様と共に再起をはかっている」と言いながら探し回った明石全登やその家臣達の働きが大きい。散り散りになっていた者達が集まって来ると、秀家の軍は4,000にまで回復した。
「歳三、佐和山城下の戦闘で西軍が勝ち、逆転負けした家康軍は逃げているとの情報を日本各地に流せ。トキは歳三の配下を空間移転させてやってくれ」
「分かったわ」
佐助が長宗我部盛親の軍と出会ったのは、甲賀から伊賀に向かう途中であった。西軍有利との情報と、秀頼様自ら御出陣されたという話には半信半疑ながら、それでも軍の進行を一時止め、乱破を放って真相を確かめる事になる。
史実では関ヶ原から14年後、大坂方と徳川方との間が険悪になると、板倉勝重から大坂入城の是非を聞かれた長宗我部盛親は「此度は関東方に味方して戦功をたてたい」と答えて勝重を油断させ、僅か6人の従者と共に京都を脱出、大坂入城を果たした生粋の西軍贔屓である。これに応じて中内総右衛門を初めとする旧臣たちも入城し、集結した牢人衆の中では最大の手勢1,000人を持つに至った。
また立花宗茂は9月15日の関ヶ原本戦には、琵琶湖の南端にある大津城を攻めていた為に参加できず、関ヶ原での西軍敗北を知って大坂城に引き返した。
大坂城に退いた後、城に籠もって徹底抗戦しようと総大将の毛利輝元に進言したが、輝元はその進言を容れず家康に恭順しようとする。
そして佐和山城では関ヶ原から二日後、17日の早朝だった。大垣城の東軍を背後から攻撃する予定であるが、大阪に向かって朝成に同行していた者が秀頼の居室に慌ただしく駆け込んで来た。
「申し上げます」
「どうした」
「はっ、此方に進軍を決められた立花宗茂殿と島津義弘殿の軍が、たった今しがた4000から5000の東軍と遭遇して交戦状態となっております」
「なに!」
二人は西軍に無くてはならない方々である。
「幸村、勝家、直ぐ援軍に向かってくれ。トキ、頼む」
「いいわよ」
おれはバルク隊長の騎馬軍団と共に移転した。バルクには旗指物とか敵味方の区別がつき難いだろうからな。
なんとしても今日中には福原長堯らの救出に向かう。大垣城を守る本丸の福原長堯、熊谷直盛、二の丸の垣見一直、木村由信、木村豊統、相良頼房らとの約束を果たさねばならないのだ。
この時点で幸村2000、勝家2500、バルクは300の兵力となっている。
総兵力4800で立花殿と島津殿を救援に向かう。カヤンの領主ダニエル・ヤングの軍団である重装騎馬兵4000には佐和山城を守ってもらう予定であったが、急遽大垣城に向かってもらう事にした。
佐和山の城兵は2800が2000になっていた。秀家の兵はまだ集まっている最中である。
東軍について言えば、織田有楽隊と本多忠勝隊は共に寡兵ながら奮戦して、本多忠勝などは多くの首級をあげる活躍をしたのだが、隊はどちらも佐和山城下で壊滅。金森長近、寺沢広高、有馬豊氏らの隊も壊滅している。
その他の隊も佐和山城下の戦いでは戦力を大きく消耗している筈。関ヶ原周辺の東軍は30000から40000程度になっていると推定できるが、まだ西軍の二倍はあるだろう。家康殿が一時的に逃げているとはいえ、まだまだ侮れない。
大垣城では関ヶ原で東軍が勝利したとの情報が届くと一部の囲みを解こうとした東軍だが、その直後に家康軍が撤退していると連絡があり、混乱し再び包囲して様子を見る事になる。
この頃、伊勢・志摩・伊賀・東紀州方面では一時は西軍が負けたとの報に接したのだが、その後逆に東軍が負けたと知らせが来る。多くの城主が降伏・開城寸前で止まっている。
9月16日深夜には伊勢亀山城主岡本良勝にも秀頼の「平常心を保てば必ず機会が訪れる」との言葉がもたらされた。歳三配下の者の知らせで、籠城した桑名城での自刃を思い止まっていたのだ。
井上道勝は秀頼麾下の黄母衣衆1000を率いていた。
黄母衣衆は秀吉が馬廻から選抜した精鋭の武者達で編成されている。関ヶ原では三成の指示を受けていたと思われるが、西軍の敗退で行き場を失っていたところを歳三に見出され佐和山城に入った。
「道勝殿」
「はい」
「桑名城に向かってくれ。家康殿との決戦で重要な地点となる」
「分かりました」
この時点で家康は那古野城辺りから東に向けて撤退していると、歳三配下の者からの情報を得ていた。どうやら岡崎城を目指しているようである。
「トキ、頼む」
海賊ハックに命じて家康軍を東方への進路、岡崎城との中間地点で待ち伏せ、火縄機関銃での攻撃で退路を断たせた。しかしその攻撃の後、機関銃の弾薬があと一度か二度の一斉射撃で尽きるだろうとの報告を受ける。
那古野城の南東40キロ程のところに岡崎城がある。歳三の調べでは、どうやら東軍の食糧支援基地となっているらしい。東海道沿いの諸大名が提供した食糧弾薬が保存してあるという。
その那古野城だが、今川氏親の築いた城が名古屋城の起源になったとされる。その後、織田信秀が今川氏豊から奪取し那古野城と改名。次は信長の居城となるもやがて廃城となった。
史実では関ヶ原から9年後、家康が名古屋城の築城に着手する直前には、鷹狩に使われるような荒れ野になっていたと伝えられている。
佐和山城下での手痛い敗北をきした家康は、体制を立て直すべく一時岡崎城まで撤退しようとしたのだが、その東方への退路を凄まじい銃撃で断たれ、まるで落武者のようにこの荒れ果てた那古野城にたどり着いたのだった。
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