時空破壊の関ヶ原 始末
@erawan
第1話 宇喜多秀家
関ヶ原の戦いでは、時空を超えて来た者達の活躍により西軍は惨敗を免れた。家康殿は一旦逃げたようだが、石田三成殿は東軍に捕らえられ斬首された。
東西両陣営は降り出しに戻ったのか。こうなったらもうとことんやってやる。
史実で宇喜多秀家は副大将として、石田三成、大谷吉継らとともに西軍の主力となる。関ヶ原において西軍の中では最大の勢力17,000で戦っている。東軍の福島正則隊と激闘を繰り広げたのだが、小早川の裏切りで西軍は総崩れとなり、宇喜多隊は壊滅した経緯がある。
秀家はその後、関ヶ原から西に抜ける街道の北側、伊吹山に逃げ込んだ。
標高が低い石灰岩層の山であり、山麓は針葉樹と広葉樹地帯だが高木が少なく、三合目から上部は草地となっている。
おれは佐和山城下の戦闘の直後、今は撤退しているだろう秀家隊を歳三に探させ連絡をとる事にした。
「歳三、まだ間に合う。直ぐに探しだして佐和山城まで来てもらうように言え。配下の者達全てを動員しろ」
「はっ」
「それから、佐助」
「はい」
「長宗我部盛親殿の隊だ。多分今は伊賀方面に下っているはずだから、探し出して状況を話し佐和山城に来るよう伝えろ」
「分かりました」
長宗我部盛親隊は6,600と大きな勢力であったが、関ヶ原で毛利秀元・吉川広家・安国寺恵瓊・長束正家らと共に家康本陣背後の南宮山に布陣していた。
しかし、合戦においては家康に内応する吉川広家によって毛利隊は動けず、戦闘に参加しないまま敗退。池田輝政軍や浅野幸長軍の追撃を受けて多羅尾山に逃れ、伊賀から和泉に行き、土佐に帰っている。
「トキ」
「なあに」
トキは時空の支配者であるが、今は男装の女子に転生している。
「毛利秀元殿を誘拐してきてくれ」
「誘拐!」
「そうだ」
毛利秀元自身は15,000の軍勢を率いて西軍として戦う気でいたのだが、東軍有利と見た家臣に言いくるめられている。
「朝成殿」
「はっ」
「大阪に向かい立花宗茂殿と島津義弘殿に佐和山の現状を話し、此方に進軍してほしいと説得して下さらぬか」
「分かりました。直ちに向かいます」
佐和山城下の戦いで活躍した石田朝成は、共の者数人を連れて大阪に馬を走らせると、立花宗茂の陣営を訪れ、事情を話して軍を動かして下されと懇願する事になる。
史実では西軍壊滅の報が大坂に届くと、大坂城内の諸将の間では主戦論と講和論が衝突した。大坂城に籠城して戦うという選択肢も残されていた。また、大阪城下には無傷で帰還した毛利軍や、本戦に参加しなかった軍勢も多数存在する。
しかし毛利輝元は秀元、立花宗茂、島津義弘の主戦論を押し切り、自ら大坂城西の丸から退去し、四国・九州の毛利勢も順次撤退させている。
後で分かった事であるが、大阪城では秀頼様が突然消えて、神隠しにでも遭われたのではないかと、大騒ぎしていたところに佐和山からの知らせが届いた。
なんと秀頼様は佐和山城で陣頭指揮を取り家康軍を撃退させたというではないか。
もちろん立花宗茂と島津義弘は直ちに軍を佐和山城に向かわせる事となる。時を同じくして今度は秀元殿が陣営から消えたと毛利軍の中では大騒ぎとなっていた。
なお立花宗茂と島津義弘は佐和山城に向かい共に出発したのだが、宗茂は6,000の兵員数であった。一方島津義弘は関ヶ原で兵のほとんどを失っていた。この島津義弘に対し「今こそ父君の仇を討つ好機」と言う家臣の進言を宗茂は退けている。
「幸村」
「はい」
「上杉景勝殿と伊達政宗殿宛に書状を書け。こちらの現状を知らせるのだ」
「分かりました」
「それからトキ」
「なあに」
「……あの、……」
おれはトキのゆるいいつもの返事に調子が狂ってしまう。
「……えっと、秀元殿を誘拐した後で良いから、幸村の書いた書状を上杉景勝殿と伊達政宗殿に届けてくれないか。
「良いわよ」
西軍側として上杉景勝殿に北陸を牽制してもらい、伊達政宗殿にもこちらの現状を理解して頂くことにする。
名古屋城となる前は廃城であった那古野城の南西に桑名城があり、そこに入った岡本良勝は、関ヶ原の戦いで西軍に属し、居城の亀山城を嫡男の重義と甥・三休に託していた。本戦で西軍が破れると、翌日に東軍山岡景友の説得に応じ、降伏して城を明け渡したが、赦されず切腹を命じられて自刃した。重義も亀山城を出たが、近江水口で自刃する。享年は12歳であった。三休は敗戦後に逃亡した。
「歳三」
「はい」
「桑名城に入っている岡本良勝殿に連絡して西軍は勝っていると話し、必ず援軍を送るからそれまで待てと伝えろ」
「分かり――」
「それから大垣城に潜入してもらいたい」
「…………」
大垣城の福原長堯殿にこれから起こるであろう裏切り情報を知らせ、救援に行くまでの間頑張って城を守り抜けと伝令した。17日には東軍を背後から攻撃するからと。
史実で関ヶ原本戦直前まで、西軍の前線司令部であった大垣城には、福原長堯を始め木村父子など7,500が守備の任に就いていた。これに対し東軍は松平康長ら11,000が包囲し対陣している。関ヶ原が西軍の敗北に終わると、逸早く行動に出たのは三の丸を守備していた相良頼房であった。井伊直政を通じ家康に内応、家康は直ちに大垣城開城を頼房らに命じるが、長堯ら本丸・二の丸に陣取る大名の戦意は高かった。このため頼房らの三将は、17日軍議と偽って籠城中の諸将を呼び出し、現れた垣見・熊谷・木村父子を暗殺し二の丸を制圧した。これを知った長堯は本丸で頼房らを迎撃し奮闘したが、包囲軍に属していた西尾光教の説得によって、9月23日城を明け渡して伊勢朝熊山へ蟄居した。家康は長堯を許さず切腹を命じ、長堯は9月28日同地で自刃した。内応した三将は領地を安堵されている。
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