第182話 闇との邂逅

 気が付けば一面闇色の世界に立っていた。周囲に光源はなく、何故か俺の足元だけ僅かに照らされている。


 上下左右どこを見ても闇しかない。踏み出した先に地面があるのかも分からず、俺はその場に立ち尽くしてしまう。


 即座に自我を消失しなかったのは幸いだが、さて、これからどうすればいいのだろう?

 ゲーム中には、邪神に取り込まれた者視点の描写は存在しなかった。頼りのゲーム知識は役に立たない。


 動くか? 待つか?


 というより、何でまだ俺は自我を保ってるんだ? 邪神に触れればその瞬間に呑み込まれるはずだろう?

 こうしている間にも数秒が経っているが、俺はまだ冷静そのものだ。


 いや、違うか。


 この世界が通常通りの時間軸にあるかすら不明なのだ。もしかしたら現実ではコンマ1秒も経ってないかもしれない。


「ほんと、分からないことばっかだよな……」


 取り敢えず魔術を発動してみると、普通に槍が手元に生成された。どうやら戦う術はあるらしいがーー


『……』


「ッ、は?」


 突然、俺の視線の先で、なんの前触れもなくソレは現れた。


 黒い人影。見た目は眷属より弱そうだが、それが纏う闇の純度が違う。より深く、暗く、どこまでも落ちていくような奈落を感じる。というよりそいつが奈落そのものみたいだ。


 アイザック型の個体を前にした時以上の絶望が全身を突き抜ける。


 抵抗しようにも身体が動かなかった。俺の一挙手一投足で敵の気を僅かでも引いたが最後、瞬殺されるほどの力量差を感じるのだ。


 息苦しさを覚えて咄嗟に喘ぐ。それで、あまりの緊張感に呼吸を忘れていたことに気が付いた。


 まずい。まずい。これは本当にまずいーー


「……ぁ、がッ、は」


 鈍痛。痛みを中心にじんわりと温かさが広がっていく。目の前にはいつの間に黒い人影がいて、その手が俺の胸に突き立っていた。


「あ、れ?」


 その瞬間、一気に思考が混濁した。貫かれたからではない。痛みに混乱したわけでもない。


 差し込まれた手、そこからじわりと広がるナニカが、身体をゆっくりと侵食し始めたのだろう。


 視界が端の方から徐々に黒く染まっていく。あれほど回っていた思考が消え、意識も闇に堕ちていく。


 ああ、そうか。これが眷属化か。眷属化、ケンゾクカ、けんぞく、か……けんぞく、あれ、そうだ、てきだ。


 こいつ、てき、くれせんしあ。まもらなきゃ。


「し、ねよ」


 最早口から出た言葉を認識する知能すら残っていなかった。思考はほとんど傀儡に、されど僅かに残った本能が現状を否定する。


 俺は胸を貫く腕を掴んで、一体何をどうすればそうなるのか、逆に闇を吸収し始めていた。


『■■■ッ!?!?』


 闇が激しく動揺する。慌てて腕を引き抜こうとする様が面白くて、俺はより吸収の勢いを強める。


 てか、強め方とかわかるんだな。初めから腕の動かし方を知っているように、当たり前にそれが出来るのが不思議だ。


 ーーあ、思考も元に戻ってくる。


 なんでこんな事ができるんだろう。そう言えば以前、ノルウィンの父であるニコラスが、このエンデンバーグ家には口外できない秘密があると言っていたが、まさかそれか?


 この状況は偶然か必然か、腹黒たぬきの笑う顔が脳裏に浮かんだ気がした。


 まあなんでもいいや。対抗できるなら殺す。殺して殺して殺し切る。だってこいつら、クレセンシアの敵だろ?



 黒い人影から闇を吸収することによる変化はすぐに現れた。


「ッ、ぁ、……が!?」


 全身に激痛が襲い掛かる。想像を絶する激痛、その場で立っていることも出来ずに膝から崩れると、人影の腕を掴む手が離れずそれにぶら下がるような体勢となった。


 みちみちと音をあげ、接触部が徐々に癒着していく。慌てて引き剥がそうにも完全に同化しているのか、手は全く離れそうにない。


『■■■■■!!』


 人影もまたうめき声のようなモノをあげてのたうち回る。その間も吸収は続き、徐々に人影が纏う闇は色を薄めていた。


 そしてーー


『……』


 闇の下に隠されていた相貌が現れる。


「は?」


 伸ばし放題の黒髪、痩せ衰えた身体、落ち窪んだ眼。夢も希望も生きる気力も、全てを奪われたと一目で分かる男がそこにいた。それと同時、何故か痛みが消え失せる。


『あ? なんだ、どこだここ』


 男は狼狽えて周囲を見渡す。そして俺を、俺の中にある闇を見通して、全てを悟った顔をした。 


『そうか、そうだよな。もう全部終わってんだ。もう一回は、ねえよな』


「あの、あなたは……」


『さあな。名前はありすぎてどれが本物か忘れた』


「そうじゃなくて」


『俺が何者で、どういう過程を経てここに来て、なんで魔王に呑まれてたかを知りたいって?』


「魔王? 邪神ではなくて?」


『その時代によって呼び方が違うんかね。どーでもいい』


「いやどうでもよくは……」


『どうでもいいんだよ。全部。全部、な』


 真っ直ぐにこちらを見つめる視線は、どうしょうもないほどに歪み切っていた。


 彼の事情を知らずとも、その身から溢れる絶望を見れば分かる。恐らく彼は何かを失敗したのだ。そして全てを失い、喪失の果てにここに来た。


 だから、もう何もかもがどうでもいいのだろう。


 そういう目をしていた。


『お前は諦めたくないって面だな』


「はい」


『なんのため?』


 聞きたいことは沢山ある。けれど彼の機嫌を損ねて彼が自発的に話すことすら聞けなくなる方がまずい。だから会話の主導権を譲ることにした。


 なんのためだろうか。


 はじめはクレセンシアのためだった。そこからこの人生が始まり、シュナイゼルやサラスヴァティ、ルーシーとの出会いがあって、オブライエンの遺志を継ぎ、今がある。


 今の俺は何を軸に立っているのだろう。根底にあるものはクレセンシアへの思いだけど、その上に乗っかるものが多すぎて、最早自分でも把握しきれない。


『あー、むりだ。むりむり』


「……それは、なぜ?」


『悩んでるようじゃ話になんねえ。迷いは弱さだ。自分を持てない奴の槍が真を貫くことはねえ。まして敵は、ああ、今思い出しても勝てる気がしねえなぁ』


「そんなに、強いんですか」


『そうだな』


「じゃあどうすればいいんですか? せめてなにか……」


『教えてやってもいいけどなあ……いや、やめた』


「はい?」


『そっか。あん時のハゲ親父、こういう気持ちだったんだなあ』


「……」


『なんだろうな。終わった俺にとって、この世界はもうどうでもいいもんなんだよ。たまたま最期に正気を取り戻したけど、はっきり言って未来あるお前はうざいんだ』


 それだけの理由で邪神について何も話さないつもりか!?


 そんな驚愕が顔に出たのだろう。男はケラケラと乾いた笑いを浮かべた。


『同じとこまで堕ちてくりゃ分かる。上の奴らを引きずり下ろす気力はねえけど、堕ちようとしてるやつを見るのは案外楽しいもんだぜ』


「俺はまだ堕ちてません」


『じきに堕ちるだろうよ。こんなあまちゃんじゃあな。けどまあ、うん、そうだな。腐り果てた俺はともかく、イルシアの分は繋いでもいいか。』


 そう言うと男は自らの胸をその手で貫いた。


『が、は』


 血を吐いて膝から崩れ落ちる男。


「なにを、して」


『俺は、いい……負けた。ああ、どうしようもなく負けた、負け犬だ』


「……」


 きっとこの男は会話は求めていない。俺に答えを言うつもりもない。ただ自らの終わり方に拘っているだけなのだろう。


『けどよ、ああ、だよな。それでも一矢、報いてえ』


 胸元に突き立てた腕が何かを掴むように力む。


『なあ、ほん……と、来んのがッ、遅、いんだよ』


「あの」


 男は急速に色褪せていく瞳で虚空を見つめた。ここではないどこか遠くを見るような目で、ほんの一瞬何かを懐かしみ、それから俺の方を振り向く。


『もう、いちど、おまえのやりに、なれ、たら……。けど、たくすのも、わるく、ねぇ』


 ずりゅ、と。


 男は胸元から腕を引き抜いた。血濡れた手には血のように紅い結晶が握られていてーー


「……!!」


 それはメキメキと形を変えると、やがて一振りの槍となった。


『ほら、よ』


「うおっ」


 紅き槍を投げ渡される。慌てて受け止めると、触れた瞬間全身に衝撃が走った。


 触れた槍によって自らの思考が拡張されていく感覚。知らないはずの技が、経験が、勝手に植え付けられていく。それと同時に『ナニカ』に対する怒りと絶望の記憶がーー


『は、は……わるくねえ、つらだ』


「え?」


 男の瞳に映る自分の顔に思わず目を見開く。


 真っ黒だったはずの頭髪に混ざる一房の赤髪。そして黒かった瞳もまた燃えるような紅に変貌していた。


『かってに、おし、つけて、わる、い、な』


「…………」


『ああ、これで、やりの……こし、た、ことは、ねえ。これで、おまえのところに』


 膝をついていた男がその場に倒れ伏す。それを中心に血溜まりが広がっていく。最早助かる見込みはなさそうだった。


『つぎは、いっしょ、に、まつり、を……』


 そこで言葉が途切れた。わざわざ確認するまでもなく、死んだのだと分かる。


「なんなんだよ」


 知らぬ世界に放り込まれ、知らない男から一方的に知らないモノを託された。


 それによって何が得られるのか、あるいは何を失うのか。俺は何も知らないけど、何故か男を責める気にはなれない。


「あんたも、戦ってたのかな」


 この世界が普通じゃないことには流石にもう気付いている。きっと男は歪な運命に翻弄され、そして最後まで足掻いたのだろう。


 俺にとっては訳のわからない現状が、男の人生をかけた勝負の終着点だった。ただそれだけの話。そりゃ俺は何もわからなくて当然だ。


「これもあいつらの思惑通りなのかね」


 ニコラスやアルジャーノを思い出してそう呟く。彼らの存在がどれだけこの世界に関わっているのか、未だに想像がつかない。


 とにかくもっと、もっと、できるだけ早く強くならなければ。そう誓って俺は紅き槍を強く握り締めた。


 そしてこの世界が溶けて消えていくーーーー



 現実世界に戻ってきたノルウィンの手に握られた紅槍を見て、アルジャーノはその残虐な性質からは考えられぬほど穏やかな表情を浮かべた。


「そうか。『紅槍』、君は託す選択をしたんだね」


 紅槍。男がそうしていたように、アルジャーノもまた昔を懐かしむような顔をする。


「お疲れ様。あとはこっちに任せて、君はお休み。またいつか、槍でも合わせようか」


 今に語られぬ物語。誰も知らない所でかつての英雄が死に、そしてその力の一端を受け継いだ少年が戻ってきた。


 少年が過去に触れるのはもっと先のこと。今はまだ何も語られない。


 大事に作られた器が、英雄の力を受け入れた瞬間であった。


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