第162話 絶体絶命
敵陣を切り抜けたオブライエン等と合流し、それからも圧倒的劣勢を捌いて逃げ続ける。
オブライエンの指示は完璧と言えただろう。
広大な戦場、その中で濁流のように動く数千以上の人々を掌握し、無数の選択肢から常に最善手を選び続ける。
完璧を越えた完璧。一体どれ程の経験を積めばここまで正確に戦場を見渡すことが出来るのだろう。
少なくとも俺には真似できない。
だからこそ―――
「フハァ、ようやく捉えたぞオブライエンンンッ!!」
その全てを圧倒的な戦闘能力で正面突破して間合いを詰め切ったアイザックの強さが際立つ。
僅か十数馬身後方を追走するアイザックは、大剣を肩に担いで巨大な戦意を滾らせていた。
同じ人間であるはずなのに、強烈な存在感を纏い持つ男が巨人に見えてしまう。
心が縮む。息が出来ない。手が震えて戦意が砕けて、
「落ち着け。まだ希望はある」
オブライエンの冷徹な声が俺たちを包み込むが、それすら最早意味を為さなかった。
冷たさを灼熱の殺意が熱し、溶かし、再び俺を恐怖のどん底に叩き落とす。
ああ、駄目だ。これ以上はもう勝てない。抗う意思が砕けたあとに残るのは惨めな生存本能だけだ。俺は気づけば退路を求めて視線を彷徨わせていた。
そうして揺れ動く視線がオブライエンとその忠臣たちの姿を捉える。
「閣下、これ以上の接近は危険です」
「分かっている。全ては作戦通りだ。メイザー、頼むぞ」
「ハッ!!」
既に諦めた俺とは異なり、オブライエンたちは誰一人として戦意喪失していなかった。それどころかさらに零度が深まり、限界まで研ぎ澄まされていく。
ああ、そうか。まだ策が残っているのか。
俺も僅かな安堵と共に手を強く握り―――
「小僧、ここまでだ」
俺を馬に乗せて一緒に戦っていたメイザーが、急に俺を掴んで横の騎馬に放り投げた。
「ちょ、何するんですか!?」
「これ以上は行かせられんよ。感謝するぞ小僧。最期に次代の英雄に触れ、アルカディアの未来を安心することが出来た」
「な、にを言って」
「さらばだ。閣下も、ご武運を」
老いた容貌に笑みを浮かべたメイザーが馬を回頭させた。その先に待っているのはアイザックだ。死だ。なのになんで、いや、だって、でも作戦って、まさか。
ようやく理解に至る。
オブライエンは忠臣を捨て石にするつもりなのだ。
確かに時間稼ぎをするならこれ以外にない。けど、でも、そんな。
恐る恐るオブライエンの顔色を盗み見する。そこにあったのは微動だにしない指揮官としての貌であった。
個人の情を捨て去り、大局のために全てを利用する人間。アルカディア王国大将軍のガルディアスも持つ側面。
メイザーが騎馬を走らせる。俺たちは彼を置いてさらに逃げる。
全員が前だけを見据える中で、俺は未練がましく後ろを振り返っていた。メイザーとはこの戦争で今日を共に戦っただけの仲だが、それでも死んでほしいとは思わない。
俺でそう思うなら、オブライエンたちはどれ程の痛みを心に負っているのだろう。
それを仮面の奥に隠して、前へ、前へ、ひたすら駆ける。
だから俺も迷いを捨てて前を向いた。
そうだ。この戦争で経験を積むことが将来の俺に繋がる。アルジャーノが用意したであろう試練を越えて、クレセンシアを助けるための力とするのだ。
―――だからッ!!
背後で轟音のような剣戟音が轟いた。
一度、二度、そこで剣が砕けるような甲高い破壊音がして、次の瞬間には誰かが落馬する音がした。
俺たちを追い立てる灼熱の圧力は微塵も衰えていない。
なら、メイザーはもう······
「ハッ、時間稼ぎにもならんわなァ!!」
再びアイザックが迫る。
○
その後も同じ繰り返しであった。
限界まで距離を詰められれば忠臣の一人が捨て石となり、ほんの僅かな時間を稼ぐ。
しかしそれを何度も繰り返す余裕はない。相手はアイザックだけでなく迫り来る敵軍全てだ。
こちらが一人失えばその分受け持てる敵の限界が狭まり、急速に追い詰められていく。
それでもオブライエンは粘った。
メイザーが死んでから一時間、アイザックと敵軍全てを相手取る逃走劇とすれば最善すら越えていると言える。
けれどそこ止まり。
とうとう数人にまで減った俺たちは、アイザックを目の前にして立ち止まっていた。
「ここまで俺様から逃げ回れるのはお前くらいであろうなァ。それなりに楽しめたぞ、オブライエンよ」
「ふん。私は二度とやりたくないが」
「そう言ってくれるな。まあ俺様も、このような余興よりは血湧き肉躍る闘争をしたいものだがな。フハァ」
「くそ、閣下、逃げ―――」
「この間合いで俺様が逃がすと?」
オブライエンを逃がそうとした忠臣が一瞬で大剣に切り潰される。
数百倍の戦力差をものともしなかった歴戦の猛者が軍馬ごと一刀両断される様は、俺の抵抗心を完膚なきまでに叩きのめした。
ただ、それを見てもオブライエンは一見平然としたまま、自然な様子でアイザックを見上げている。
「ふむ。皆、私が良いと言うまで動くでない」
「ほう、この状況からまだ何かあると?」
「さあ、怖いなら早く私を殺せば良いだろう」
「そうするのが正解か否か、絶好の機会で俺様を悩ませるのがお前の強さだろうなァ」
手を振り、大剣で切ればオブライエンを殺せる間合い。それでもアイザックは最後の一撃を躊躇して踏み込まない。
そうして静寂の中で数秒が経過し―――その時だった。
「ふん」
オブライエンが不敵に笑い、
「なっ」
アイザックが目を丸くして遥か遠く、メルトール王国軍本陣の方を見つめた。
遅れて俺も、アイザックを視界に入れつつそちらの方を見る。
「まじ、かよ」
なんと本陣に火の手が上がり、メルトール王国軍の旗が折られ、そこにはアルカディア王国の軍旗がたなびいていた。
「なんだと!?本陣はフィエーロが守っているのだぞ!」
「フィエーロとバックス。副官勝負は私に軍配が上がったようだな」
「な、ぐ、いや、しかしここで貴様を殺せば―――ッ」
フィエーロの安否が不明となり、躊躇が許されなくなった瞬間、アイザックは全力でオブライエンを殺しに掛かった。
「皆の者、今だ!」
オブライエンが裂帛の気合いを込めて命令を放つ。
それに応えた忠臣たちが動きだし―――
「えっ?」
メイザー亡き後、別の部下に同乗させてもらっていた俺は、何故か再び宙に投げ飛ばされていた。
風属性魔術でバランスを保ち、慌てて眼下の戦場を視界に捉える。俺を投げた老兵は何故かオブライエンではなく俺の退路を確保するように動いており、そしてそれは他の者も同様であった。
誰一人としてオブライエンを守らず、俺を逃がすために戦っている。
守りを失った指揮官はがら空き同然だった。容易く接近したアイザックが確殺の間合いに捉えて大剣を振り下ろし―――終わりの間際、オブライエンが俺を見上げて口を開いた。
「逃げろ」
なあ、誰か教えてくれ。
これが、こんな最期が、作戦通りだっていうのか?
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