第152話 オブライエンの過去4

 今から五十数年前、マールテン辺境伯領が有する軍事力は、アウシュタット地方にも勝るモノとして広く知られていた。


 どちらも国境沿いの防衛を任された要地。配置された兵力の差はなく、であれば双方の優劣を分けたのは兵を操る頭の方。


 当時、マールテン辺境伯領を治めていたエドガー=フォン=マールテンは、大将軍に推薦される程の傑物だったのだ。


 まあ、エドガーは推薦を辞退して故郷の防衛にあたったため、別の人物が大将軍を務める事となった訳だが。


 それほどの英雄が指揮を取れば、マールテン辺境伯領は安泰―――とはならなかった。


 当時の世情はとにかく混沌に尽きた。


 現在よりいっそう激しい戦乱の世は、世界地図を一年おきに更新しなければ情報が食い違ってしまうほど。


 エドガーが壁として君臨してもなお国境沿いは安定とはいかなかった。


 しかしエドガーの胸中に不安は無かった。 


 何故なら彼は自らの優秀さを知っているから。そしてそれ以上に、息子であるオブライエンの潜在能力に気付いていたから。


 オブライエンが成長するまでの期間を自分が持たせれば、あとは引き継ぐだけで全てが上手くいく。


 だからそれまで耐えることが出来れば―――



「オブライエン、そろそろ昼ごはんだって」


 扉を開けて部屋に顔を覗かせた幼き日のパン屋の店主―――イングリースが言う。


 マールテン辺境伯の分家筋に生まれた彼は、将来オブライエンの側近になるべくこうして幼い頃から共に過ごしていた。


 イングリースの呼び掛けに顔を上げたオブライエンは、しかし次の瞬間には机に視線を戻して勉強を再開する。


「ごめん、あとちょっと」


「ご飯冷めちゃうぞ」


「先食べてていいよ」


「今日は家族で食べるんだろ?」


「そうだけど······」


 度重なる催促にも応じず、机に向かいっぱなしのオブライエン。少年が必死に勉強しているのは、軍学校士官クラスの問題である。


 一般的には十代の学生が学ぶ内容。それを五歳ですらすらと解いていくオブライエンは、間違いなく類い稀なる天才と言えた。


「おーい。おい······って、うげぇ。なんだこれ」


 横から問題文を覗き込んだイングリースは思わず顔をしかめる。

 彼も側近に成るべく英才教育を受けているが、それでも軍の専門用語が多用された文章は全く理解が及ばないのだ。


「あとどれくらいだ?」


「ちょっと。これで最後なんだ」


「ふうん」


 イングリースは机に集中するオブライエンをつまらなさそうに見つめる。


 そうしてしばらくが経過し―――


「終わった!」


 オブライエンは満面の笑みでバッと立ち上がり、そしてふらついたところをイングリースに支えられた。


「ハデに動くのはナシって医者に言われてたろ」


「ごめんごめん。ありがと」


「たく、オレがいないとダメダメだな」


「まあ君はボクの部下だから、いて当たり前なんだけどね」


「あ?」


「ありがとうってことさ。さ、行こ」



「見てパパ!」


 この日は、仕事で忙しいエドガーが珍しく食卓に顔を見せていた。


 久しぶりの一家団欒(+イングリース)。オブライエンは数日ぶりの父親に興奮気味に捲し立てる。


「どうした?」


「この問題解けたよ!ほら、弩を用いた効果的な殲滅方法についてなんだけどね―――」


 幼さを全く感じさせない言葉で、エドガーが驚くほど的確な解答を述べるオブライエン。一通り説明を聞いたエドガーは、穏やかな表情でそっと息子の頭を撫でた。


「凄いじゃないか。オブライエンは将来立派な指揮官になれるな」


「ほんと!?パパみたいになれるかな?」


「なれるとも。きっとパパより凄くなれる」


「えへへ···じゃあボク、大将軍になる!」


 思わず笑みを釣られるような、人好きのする笑顔を浮かべるオブライエン。まだ小さくとも既に彼の知識と発想は並の指揮官を遥かに凌ぐ。しかるべき成長を遂げ、実戦経験を積んでいけば、そう遠くない未来に大成するだろう。


 唯一惜しむらくは、神がオブライエンに二物を与えなかったこと。


 突出した頭脳の代わりに、身体の方はあまりにも貧弱であったのだ。


 まだ五歳。成長が遅いだけと言うことも出来るが、それにしてもあまりに小さくて線の細い身体。


 運動能力でも劣り、医者からは虚弱体質かもしれないとの診断を受けていた。


 知と武を備えてこその英雄。恐らくオブライエン一人ではそこに届かない。


 だからこそエドガーは、イングリースを息子に付けた。


 英雄が持つ人脈の中で最も優れた戦いの才能を持つ少年。


 オブライエンが頭脳、イングリースが剣と成り戦場に立てば、間違いなく大将軍と遜色のない、あるいは越えるような活躍が出来るから。


「話すのも良いが、食べる手が止まっているぞ」


「あ、ごめんなさい」


 オブライエンと、家族と、イングリースと。


 穏やかな雰囲気の食卓。この時はまだ幸せな日々の中であった。



 全ての崩壊はそれから数ヶ月後のことだった。


 戦乱の世、それも激戦区である国境沿いともなれば、平穏など仮初めに過ぎない。


 オブライエンの故郷を、幸せを、誇りを、一切合切を攻め滅ぼしたのは、総勢十万からなる軍勢による一方的な侵攻だった。


 エドガーをもってしてもそこまでの事態は読みきれなかった。


 こればかりは仕方ない。隣国は秘密裏に敵対関係にあった国と平和条約を結び、本来そちらに割かなければならない戦力までマールテンに差し向けてきたのだから。


 それは最早、軍事を越えた政の域。大将軍を辞退し、国境沿いの指揮官と成ったエドガーが知るところではなかったのだ。


 ゆえに、マールテンを巡る戦争は、戦いとも呼べぬ一方的な蹂躙劇の様相を呈することとなった。


「オブライエン様、お逃げ下され!」


 エドガーが自軍を率いて民達の逃げる時間を稼ぐ最中、執事長等が決死の表情でオブライエン達を逃がす。


 命かながら逃げ出したオブライエン達が目にしたのは、炎に巻かれ、略奪の限りを尽くされる故郷と―――


 それを守るはずだった父親たちが、圧倒的な戦力差に敗れ、呆気なく殺される光景だった。


 敵軍の先頭を行く男が父親の頭部を突き刺した槍を高々と掲げ、その勢いで故郷を攻め落としていく。


 何の力も持たないオブライエンは、ただ逃げるしかなかった。



 戦場と化した故郷から逃げ延びても、オブライエン達は激しい追手の攻撃を受け続けた。


 その度にオブライエンを守らんとして、誰かが死んでいく。


 はじめは同行した僅かな護衛達が順番に。


 それが尽きたら、戦いなど知らぬ使用人が。


 それも皆殺しにされたら、とうとう家族達が。


 貴族の命には優先順位がある。


 偉大なる英雄が、自らを越えると断言したオブライエンだけは、絶対に生かさなくてはならなかった。


「つい、たぞ」


 決死の逃走劇の果て。何とか分家筋の領土まで辿り着いたとき、残っていたのはオブライエンとイングリースだけであった。


 身体の弱いオブライエンは部下である少年に背負われ、ただここまで運ばれた。運ばれて来てしまった。


「なん、で」


 弱い自分を生かすために、家族も騎士も使用人も、皆が死んでしまった。


 守れなかった。


 なぜ、なぜ、なぜ。


 安全地帯まで逃げて、心に生まれた僅かな余裕。それを埋め尽くすのは何故という疑問だけ。


 何故故郷が攻め滅ぼされなければならなかったのか。


 何故皆が死ぬことになったのか。


 何故自分はなにも守れなかったのか。


 全て―――弱いからだ。


 力がないから負けた。


 守るだけの力が無いから、守られてしまった。


「ああああああああああああ!!!」


 絶望のどん底に叩き落とされたオブライエン。幼い彼の手に残ったのは、故郷から持ち出しここに至るまでに使い尽くした逃走資金だけだった。


 それだけ。たったそれだけ。


 小銭一枚以外は、何一つ故郷から持ち出すことも出来なかった。


 その一枚すら自分で守ったものではない。


 何一つ自分の力では守れない。


「ああ、弱いなぁ」


 この日の絶望が、父親の背中に憧れるだけのオブライエンを壊し、貪欲で狂ったまでに力を追い求めるオブライエンを生んだのだ。



「そうして、私は大将軍を―――いや、もっと適した表現をすると、最強を目指すようになりました。まあ、復讐心が根底にある私はきっと偽物で、だからこそ本物の大将軍を前にして敗れた訳ですがね」


「そう、かよ」


「私が此度の戦争に不利益を与えないかという心配をしているのであれば、安心して下さい。勝つために最善を尽くしますよ」


 そう語るオブライエンは穏やかな顔をしていた。この顔をする人間が狂っているとは考えられない。


 今にして思えば、シュナイゼルを温存する作戦も、戦術的には決してマイナスではない訳だし。


「ならこの都市を支配したのは?そこも安心しろってか?」


「安心しろとは言いませんし、そもそも今この状況で私がそれを言えるはずもありません」


 そうだろうなあ。


 人間の評価を決めるのは他人で、その基準は口ではなく行動。オブライエンはここまで散々悪行を働いてきた。今さら言葉一つで納得できるはずはない。


 例えその悪行の多くが、オブライエン本人によるものではなく、部下の暴走だったとしても。


 その気になれば止めることが出来たはずなのだから。


 そうはせず、出来上がった流れに乗って支配者に成った時点で、言葉に信用は宿らない。


 ―――ただ。


「ですが、この戦に掛ける思いは本物ですとも。正直に言いますと、いえ、こんなことは本来口にするべきではないかもしれませんがね。私は、次の戦以外はどうでもいい。本気のメルトール王国を退け、強さを証明出来るのであれば―――」


 そう。


 狂気の根底にあるのが力への渇望であるのなら、もう不安だとか信頼だとかは関係なく、オブライエンに任せても問題はないのだ。


 俺たちにはアウシュタットで戦うノウハウがない。ならば半世紀に渡って溜め込んできた憎悪を、絶望を、ここにぶつけてくるオブライエンが指揮官となるのが最善。


 他に選択肢は、ない。

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