第16話 過去の記憶



 幼い頃の私は、兄が嫌いだった。


 仮に今の私──黒鉄莉緒を知る者が聞けば、どれだけの人間が信じてくれるだろうか?


 私にとって、もっとも触れられたくない、自分ですら思い返したくはない記憶。


 ある意味それは、かつては憧れだった実姉──黒鉄菫くろがねすみれの存在がきっかけだったろうか?

 ガサツで口の悪い兄とは対照的に、姉はとにかく物静かな人だった。周りは揃いも揃って表情を変えない、時には感情がないのか?などと評されたこともある程に。

 しかし、彼女には他を圧倒する“力“があった。

 学業においては常にトップを走り、幼少期の頃より剣術の道を歩み身につけた並外れた身体能力は、小学校低学年にして大人とも渡り合うなど、人によっては常人ではたどり着けない域に存在するとも評されていた。


 そんな彼女の弟である兄は、姉と常に比較されていた。

 決して出来が悪かった訳ではない。

 むしろ、何かをやらせれば素人に毛が生えた程度の結果は出していたはずだった。


 しかし、所詮はそこ止まり。世間に対する兄の批判は、"天才"と呼ばれていた姉の才に遠く及ばなかったからからこそなのだろう。

 一応、そんな兄の微かな才能を評価し育成しようとする者も何人かは居たが、当の兄はまるで関心がないようだった。

 相手がどんな人間であろうと決して態度を変えることない姿勢に興味を惹かれる者は少なくなかったが、人によって無神経や礼儀知らずなどと目の敵にされる者も多かった兄。


 ──劣化コピー。


 誰が付けたのか、いつしか──兄はそう呼ばれるようになった。

 

 時は流れ、小学生に上がりたての頃。当然、私は兄より一年遅れて同じ小学生に通う事になる。

 いずれ私が、必要のない者として扱われる日々に。


「彼女の妹さんか。君には期待してるからね」

「おぉ、お兄さんと違って礼儀正しい子だな。君なら彼に出来なかった事もやってくれそうだよ」


 私は幼い頃から人と接するのが苦手だった。他人に嫌われるのを恐れ、常に自分と他人とを比較し、人と何を話したらいいか分からなかった。

 姉は当然として、兄は初めての課題であろうと素人に毛が生えた程度の結果は出す。


 ならば、私はどうだ?


 あの天才と謳われた黒鉄菫の妹ならば……入学当初で得た教師達の期待と信頼。無論、私は姉を越えるつもりだった。

 自分は兄とは違う。恐れを知らず、他人の評価など気にも止めない。

 まさに自分とは正反対の兄をいつの間にか軽蔑していたのかもしれない。


 だが、その現実は入学してほどなく突きつけられた。


「そういえば、先生。今年は黒鉄さん達の妹さんが入ってきたんでしょう?どうなんですか、彼女」

『あー、いい子とは思います。少し引っ込み思案ではありますが、素直な子ですし……ただ、能力という点で兄と比べて期待していたものとは違いますね。運動に関しては男女という差もありますが、学力も兄の湊君に平均に比べて……というところでしょうか」

「あら、そうなんですか?他の先生方も注目されてたから気になっていたんですが……まあ、まだまだ低学年ですし、これからに期待ですかねぇ」


 偶然にも立ち聞きしてしまった教師達の会話。

 私の評価は、姉は愚かその姉と比較されていた兄の域にすら届かないというものだった。  


 思わず、目の前が真っ暗になった。


 勿論、私とて努力はした。寝る間を惜しみ勉強に励み、放課後や休日には苦手だったスポーツ、体力作りのランニングにも積極的に取り組んだ。


 しかし、私が何かを成功すれば"流石は黒鉄の妹"と称えられ、何かを失敗する度に、周りの大人達は私に失望の視線を向けられた。


 ──何で?なんでなの……!? 


 わからない。姉と同じ教育を受け、兄と同じ血が流れているにも関わらず──私は、姉どころか兄の域にすら決して届く事は出来ない。


 実の姉、兄に対する嫉妬心、コンプレックスが私の心を支配した。

 悲しいこと、悔しいこと、妬ましいこと。比べられる悲しさ、劣等感。

 その時、私は、初めて姉と比較されていた兄の気持ちを理解出来たのかもしれない。


 だからこそ私は、ようやく無駄な努力をやめたのだ。

 

 もう何も失いたくないし、失望もされたくない。

 

 私には兄のように他者の視線を無視することなど到底出来なかったから……。


「湊、顔にソースが付いてるよ」

「ん?ああ、ごめん。姉さん」

「ううん。可愛い弟のことだし」


 あの日の晩、食卓を囲む双子の姉弟。

 元より、この姉弟は距離が近かった。まるで他人を寄せ付けないよう牽制しているみたいに。

 眼前で寄り添いながら食事を摂る姉と兄を見ていると、自分は家にも居場所がないのだと否が応でも思い知らされる。

 食事が終わり、姉が自室に戻った後、そんな私の存在に兄が気付いたのは今更だった。


「さっき姉さんと弁当買って来たけど、食うか?」


 思えば、最近はろくに会話もしてなかった気がする。というよりは、私自身が兄を避けていたのだ。

 自らの、くだらない嫉妬心、コンプレックスから。

 

 だから、これが最後だ。最後にせめて……。


「兄さんは、どうしてそんなに他人に無関心でいられるの?」  


 ただ一つ、今の私に一番ないものを持っている兄に問いただした。

 我ながらもっと言い方があったと思う。しかし、兄はそんな恨み言に対しても特に動じることなく私に目線を向けて来た。

 

 いつだってそうだ。この人は、決して自分のペースを崩さない。


 私と同じく、天才と呼ばれた姉と比較されて来た兄。

 しかし、この人にはこれといった意地も執着心もなく、姉と接し続けている。

 第三者は感情がないのは姉の方だと思っているようだったが、私にとってはこの人の泰然自若とも言える精神力に恐怖すら抱いていたのだ。


 この日、本当の兄と話をするまでは。

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