第2話 新たな日常
「ん……ぁん……あっ……」
そこは暗闇に包まれた部屋だった。押し殺された少女の喘ぎ声と、唇が奏でる卑猥な旋律が、一室に響く。
まるで息も絶えるかのようなその声の主は、第三者が聞いているだけで苦しくなりそうな程であり、暗闇の中でその行為に酔うのは一人の少女。
くちゃくちゃ、と。何かが口の中で入り混じったような鳴き声を上げつつ、少女は恍惚の表情で目の前に存在する愛する人に唇を擦り続けた。
「はぁ……んぁ……!好き……好きっ……!愛して、います……!」
何が辛いのか、何が悲しいのか。そんなことはもうどうでもいい。
ただ快楽を得て、嫌な現実を忘れればそれでいい。
憎しみから始まり、尊意へ、最終的には愛へと変わったその気持ちから始めた行為は、少女にとってはいつの間にか逃避行為になっていた。
「はぁ……!んんっ……!」
心の奥底で感じるのは寂しさと虚しさ。夢は現実と異なり、いつも自分を優しく迎えてくれる。
だからこそ、逃げててしまう。少女は身体を淫らにくねらせると、突きつけていた"写真"から唇を離した。
「はぁ……はぁ……ふふっ」
頬を赤く染め、快楽に酔う。
高校生の少女としては高めの身長、ストレートのロングヘアーにその容姿は側から目から見れば美人と可愛いの中間といったところだろうか。
少女は朦朧とする意識の中、僅かに痙攣する手から写真が地に落ちる。
「今日からやっと会えますね、湊君♩」
満面の笑みで、少女は空想の中の彼を想う。
地に落ちた写真は色あせ、皺だらけになっていた。
少女の唾液によりすっかり面影がなくなった、永遠の想い人の姿が写された写真に永遠の愛を誓いながら──
◆
「ふわ〜〜……あー、眠ぃ……」
翌朝。サッパリした青空の下で窓ガラス越しに反射する太陽に照らされ、学校への通路を一人で歩くと同時に、俺は自分でもわかるくらいの大きなあくびを漏らしていた。
現在の時刻は8時30分。夏休みを利用して引越した新たな賃貸は、学校から徒歩15分で通える程の近さである。
やや早めに来た為か、俺の周りを囲む生徒の数は少ないのは幸いだろうか?
やがて、眼前に広がる巨大な建物が俺を出迎えた。
「(随分と久しぶりだな、来るのも……)」
私立星宮高等学園。
改めて今日から俺が通う高校だ。部活の朝練などで早めに来る生徒も居るためか、その中の何人もが物珍しそうな視線を向けて来た。
その目は、確実に俺に対するそれである。
理由はもはや言わずもがなの為、俺の覚悟は決まっていた。特に気に止めることもなく歩いていると、あっという間に正門前に辿り着いた。
「よっ、久しぶりだな。問題児!」
突然声をかけられた。相手が問題児と言ったのだから、間違いなく自分が話しかけられただろう。
声のした方を見れば、イメージとは真逆の端麗な顔の男子生徒が立っていた。
「何だよ、その反応。え?てか、まさか、記憶喪失とまでは聞いてないんだけど……」
「んな訳ねぇだろ。久しぶりだな、裕也」
いかにもわざとらしく狼狽えるのは男子生徒──
中学からの同級生であり、腐れ縁な関係。
その整った容姿から告白されることも稀にあるものの、いわゆる性格があれなタイプであり、恋人が出来ては早ければ一週間には破局を繰り返している。
まあ、自他共に認める自惚れ屋の残念な馬鹿キャラとでも紹介した方がわかりやすいだろうか。
「自惚れ屋残念な馬鹿って随分な罵倒だなおい!」
「おぉ、よく分かったな」
その見事過ぎる心読みには素直に感心すると同時に、裕也の表情が変わった。
「ったく。でもお前、思ったよりずっとピンピンしてて安心したぜ。あの子の方は大丈夫なのか?その……心の傷とかさ」
「見た感じじゃ、思ったより元気そうだったって感じだな。そういう風に振る舞ってるだけかもしれないが」
「莉緒ちゃんも、災難だったよな。出来ることなら、僕がこの手で同じ目に合わせてやりたい──いでっ」
恨み言を漏らす裕也の言葉を遮るかのように、不意に頭の上からピンク色の鞄が置かれた。
「何朝からふざけたこと言ってんのよ」
背後から聞こえてくる声。振り向いた先には、見知った女子生徒が立っていた。
「よう、お前も一緒だったのか。久しぶりだな」
「はい、お久しぶりです。良かった。復帰してたんですね。湊先輩」
礼儀正しく頭を下げる下級生──
癖毛を活かした短めのナチュラルヘアーに、少女というよりは、女性という言葉が相応しい長顔はオシャレ好きな彼女の性格を表しているといえるだろうか。
「最後に会ったのが夏休みが始まる前だったから、大体二ヶ月くらいか。長いもんだ」
「ですね。というか……本当、話を聞いた時は心臓が止まるかと思いましたよ。大変だったんですよね?その……色々と」
「この分じゃ、噂になってるみたいだな。いいとこ、俺が両親をやったってとこか?」
「え?ええ……まあ」
気を使うだけ無駄だったとばかりに、陽菜は乾いた笑いを漏らす。
彼女の気持ちはありがたいが、こっちとしてはむしろじれったいだけだった。
「普通、いきなりそういうこと言います?変わらないなー、湊先輩」
「だから言っただろ、こいつ相手に気を使う必要なんてないってさ」
「あんたは楽観的過ぎ」
言いながら、裕也の額をこずく陽菜。普段から言い争いの絶えない二人ではあるが、兄妹仲は決して悪くはないだろう。
「悪いが、俺は先に行く。色々伝えなきゃいけないこともあるしな」
「あ、はい。お気をつけて」
「また後でなー」
裕也や陽菜に見送られながら、俺は人だかりとは反対側の左の通路へ曲がり、遠目で見ただけでもわかる職員室というプレートが下がった室内へ入る。
さて、誰に声をかけたものかと周囲を見渡していたが、ふと一人の青年教師と目が合った。
「あれっ、君、もしかして入院してたって子?」
どうやら俺に気がついてくれたようだ。軽く頷いてから俺は青年教師の元へ移動した。
「……えっと、名前は、黒鉄湊。二年生で間違いいんだよね。妹さんは……今日はお休みか。ご両親は―― あっ…… ああ、ごめん…… バタバタしてて、詳しく読んでなくて」
バツが悪そうに頭をかく教師。もっとも、我ながら変わった経歴だ。このような反応も当然だろう。
「聞いてるよね?この後にすぐ始業式だから、一緒に行こうか」
教師に同行し、俺は始業式の会場に向かった。
ややブランクこそあるものの、その間が一ヶ月以上もある夏休みだったこともあり、俺が登校しなかった期間が他の生徒に比べてそこまでの差がないのは不幸中の幸いか。
やがて、始業式が終わり、そのままクラスへの移動。初日なだけあり、その日は行事予定などの事務連絡をして、放課後となった。
特にする事もなかった為、同じクラスの裕也と共に帰り支度を整えていると、教室に一人の上級生が入ってきた。
俺の視線に気づいた裕也もそちらを見やると、その女子生徒──奏に声を掛ける。
「おっ、奏さん。いやー今日も可憐っすね。わざわざ僕に会いに来てくれたんすか?」
「うーん、残念!どちらかと言うと湊の方かなぁ。問題なくやってるかなって」
人差し指を立てにウィンクを決めつつ、奏は俺の方へと目を向けた。
「あっ、居た居た。今って大丈夫?これからのこと、話しておきたくて」
「ああ、別にいいぞ」
それは、予め予想していたこと。表面上では恋人関係である俺に、彼女が接触してくることは何も不自然なことではないだろうが。
「何何、新学期早々にデートの相談な訳?僕が言うのもなんですけど、奏さんも結構遠慮がないっすよね」
「えへへ。こんな時だからこそ、かな。ねっ?」
「そうだな」
微笑む彼女に対して、適当な相槌を打つ。下手に否定して彼女の神経を逆撫ですることもないだろう。
俺達は軽いまとめた荷物を背に教室を後にした。裕也や奏に連れられるように、校内の渡り廊下を歩く。
すでに叔父夫婦の死から二ヶ月程が経つだろうか。
当然というべきか、それに関わった俺や妹は世間やマスコミから大いに注目の的となった。
未成年であることが幸いしたのか、ネットや新聞に名前が載ることはなかったが、事件が起きたのが夏休みに入る寸前だったこともあり、噂は学校中にも瞬く間に広がったようだ。
「おい……見ろよ、あれ」
「例の人でしょ?ほら、殺されかけた一年の兄だっていう……」
「うわ、本当だ。復帰してたんだ」
「あいつ、直接殺害現場に居合わせたんだろ?入院してたのは、やっぱり精神状態とか?」
「わかんねぇ。でも噂によると、あいつも両親の死に少なからず関わってたって話だぜ」
「……マジで?」
「こりゃあ、あんまり近づかない方がいいかもな」
とまあ、軽く廊下を歩くだけでも周りからヒソヒソ話が聞こえて来るのはもはや想定内だった。
「早く行こ、湊」
周囲の生徒達からの罵倒とも言える言葉に奏は俺の手を取りながら早歩きでその場を去ろうとする。
ちなみに、血の気が多いもう一人はというと。
「てめぇら、言いたい放題──!」
俺は怒りのままに突っかかろうとした裕也の首根っこを掴んだ。
「おい、さっさと行くぞ」
そのまま引きずるように渡り廊下を後にする。下手にトラブルにでもなればそれこそ面倒だろう。
そのまま時間をやや時間をかけつつ、俺達は学園の下駄箱まで辿り着く。
幸い人通りは少ない。裕也の首根っこを離すと共に、舌を出しながら呼吸を整えつつも俺に向き直り、声を荒げた。
「いいのかよ、あのまま言われっぱなしで!」
「ま、お世辞にもいい気分じゃないな」
「だったら!」
「仕方ねえさ、逆の立場になってみろ。あいつからからすれば、両親の殺害現場に居合わせた奴が何事もなく学校に通ってんだぞ。しかも、そいつの妹は両親に殺されかける?さぞかしいい話のネタだろうよ」
「でも、悔しいじゃんかよ……!」
直樹は落ちつきを取り戻しつつも、気持ちは収まらないとばかりに拳を震わせた。
心の傷を負った友人に対する陰口。そこに怒りを覚えることは決して悪ではない。むしろ、誰しもが真っ当な怒りと言うだろう。
俺自身、裕也のその感情には感謝しているし、安心もしていた。
それだけに、周囲の生徒の俺に対する疑念も真っ当な意見なのはなんとも皮肉な話である。
「気持ちはありがたく受け取っておく。だからお前も気にすんな」
「……わりぃ。でも、何かあれば相談しろよ?」
「わかってる」
そう言うと、裕也はいつもの調子で笑い出す。
女癖こそ悪いが、こういう情に熱いところは俺も見習うべきなのかもしれない。
「湊」
背後から聞こえてくる声。
同時に、手のひらに暖かい感触が走る。
声のした方に目を向けると、奏が自らの両手で俺の左手を包み込んでいた。
「前に言ったこと、覚えてるよね?湊のこと、私は──わかってるから」
そう言う彼女の表情は未だに満面の笑顔のままだった。
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