第2話

 木曜日の3限はゼミの時間だ。発表順で最後尾の和田くんが張り切って作り上げた、入り組んだタコ足配線に近いグラフをぼうっと眺めていた。

 経済曲線の解説ほど退屈なものはないけれど、文学部や法学部で人間の本質や善悪について議論することを思えば、経済学部を選択したのは間違いではなかったと確信する。もし選択を間違えていれば、大学を辞めていたかもしれない。大げさだろうか。

 そうやって過ぎたことに思いを巡らせつつ、うつらうつらしながら、昼過ぎの眠気と私なりに戦い続けた。


 「マキ、ほい」

 首筋にひやっとした感覚を得て私は目を覚ました。これは、ヒナだな。負けじと私は驚いたふりをして、目を見開いた変顔を見せつけてヒナを一笑させた。

 教室の窓ガラスからの景色は、中庭の木々がつくる少し暗いグリーンに埋められていた。空調を使わないこの季節のこの部屋は、香水みたいにふわっと青臭い匂いをまとう。


 私たちは中庭のベンチに下りて、私を起こした缶コーヒーを片手に話した。

 どうやら私は、発表はおろか、講義が終わってもなお居眠りをかましていたらしい。「マキほんと寝過ぎー、打ち上げ前に和田くんに謝っときなよー」と言われ、私はすぐさまLINEを開いて、ウサギを模したキャラクターの「ごめんネ♡」スタンプをこれでもかと連投した。そうして私たちはまた笑った。


 それからヒナは、私の知らない人しか登場しないバイト先での長編ドタバタコメディの続きや、彼氏との3周年記念で行ったというディズニーのいちばんの思い出がミラコスタの朝食だったことなどを、いつものように話した。

 私はいつも通り「ドキュメント72H」を観るときと同じ表情でふんふんとそれを聞いては、時々笑いを入れた。

 中心街に出るバスが来るまで、私たちは談笑を続けた。


 バス停から居酒屋に向かう道は意外と長い。ヒナは「腰痛―い」といかにも苦しげな表情を浮かべ、腰の大型拳銃に目をやりながら歩く。「弾、インスタで見た軽いやつに換えようかなあ。お母さんはちゃんとしたやつにしなって言うけどさ」

 「両腰に提げておけば、バランス良くなるんじゃない」私は彼女の方を見ず、適当にそう答える。軽い弾も重い弾も、装填することのない私には関係ない。

 繁華街の外れにある店に向かうにつれて、道沿いの街灯は少しずつ姿を減らしていく。フェードがかかって少し明るく見える光景は、本来の黒さを取り戻していった。


 宴会場は既に10人ばかりのゼミ生で賑わっていて、それぞれの会話に勤しんでいた。私はメニューの中から、直感でいちばんきれいそうな名前のカクテルを頼んだ。

 私は飲み会の空間が好きではない。お酒が得意な方ではないというのもあるが「本性をあらわにしろ」「腹を割って話せ」といった暗黙の了解のことを考えると、息が詰まる。酒に呑まれた人間の言葉を聞いて、それが本性だと思うと、自身を含めた人間そのものへの信頼が揺らいでしまう。


「アヤの誕プレ、アディクションとRMKどっちがええかなあ」

「またスってもた、金貸してや」

「それ新式?やっぱ自動装填ええな~バイト頑張ろかな」

「飲め飲め飲め飲め」

「ササキ先輩、アメ車買うたらしいで」

「大きい銃にしたらやっぱナンパとかだるいの減ったわあ」

「終バスなくなるでー2次会カラオケいこーや!」


 聞きたくないセリフばかりが耳を突き破って私の中に入り込んでくる。透明な水に絵の具がぽたぽたと落ちるように、私が侵されていく。

 せめて目にはきれいなものを映したいと期待して注文したスプモーニというお酒は、わたしに今朝の現実を思い出させるほど鮮烈な赤色を示していた。黙って一息に飲み干すと、私の珍しい”イッキ”に拍手喝采が起きた。

 

 1次会が終わる22時過ぎ、カラオケには参加せず、逃げるようにひとり終バスに乗って帰った。大学の方に向かう車内はしんと静まり返って硬直しており、吊り輪だけが坂道に合わせてゆらゆらとリズムを刻む。

 私は片耳を世界に向けながら、もう片耳にはイヤホンをさしてaikoの「ボーイフレンド」を聴いた。家に近付くたび、街灯やコンビニ、ドラッグストアの明かりが増えていくのを感じて、少し気が晴れた。

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