【三題噺の競作】「美術室」「桃」「偽装」

野村絽麻子

美術室、夏。

 美術室に幽霊が出るなんて話はよくある。

 それは本当の時ももちろんあるだろうけれど、たぶん、人払いのために流布された噂話なんだよと先輩が言った。放課後の校庭は運動部の領域と化していて、開け放った窓から風と一緒に掛け声やボールを打つ音なんかが入り込んで、美術室の窓にかかった生成りのカーテンを揺らしている。

「人払いって、何のためにですか?」

 目の前の作業台に載っている美しい水色の皿。の上に乗っているみずみずしい桃を爪楊枝で突きながら、作業台の向こうで同じように淡い色の果実を口に運ぶ先輩に、私はぼんやりと問いかける。

 先輩は制服のブラウスのボタンをふたつ外したいつものスタイルで、片肘をついた怠そうな姿勢のままこちらを見る。少し茶色っぽい髪が風をはらんでふわりと流れる。先輩の唇に果実が吸い込まれていくのはとても美しい。願わくば私はそれを描きたいのだと思いつつも、今日の私にもやっぱり画力は足りないのである。

「そりゃ、偽装工作でしょ」

「偽装工作」

 そ、と短く応えてから食べかけの桃を放り込み、こちらに向き直る。私は、放り込まれた桃が先輩の口の中でとろけていく様をちょっと想像する。

「何の為だと思う?」

 聞こうとしていたことを先に質問されてしまった。

「うーんと……隠すってことは、後ろめたい何かがあるんですよ」

「例えば?」

 桃色の息で質問攻めだ。

「例えば、まぁ……こうやって放課後に桃なんか食べてるのは、校則違反ではあるかも」

「なるほど」

 先輩の頬がふにゃりと柔らかく緩んだ。

「そしたら、私と美玖は共犯だね」

「……ですね」

 何となく、私も作業台に肘をついて前のめりになる。くふふと額を突き合わせて笑うのは確かに共犯ぽくはある。先輩が嬉しそうにしてるのが嬉しくて、少し満足した私はもうひとかけらの桃に手を伸ばす。桃はみずみずしい。よく冷えて、それでもなお甘い。

「秘密の桃だね」

 秘密のって。地方に住む叔母の家から送られてきた大量の桃のひとつを持ってきたのは私で、それを調理部の冷蔵庫で冷やそうと提案したのは先輩で。我らの所属する美術部にはナイフとかお皿なんかは絵のモチーフとしての備品がある訳なので心配なくて。

 ほぼスキップに近い足取りで放課後の部活の時間に美術室に来てみたら、委員会やら私用やらで私たち以外は誰も部員が来なくって。だから、これは証拠隠滅として食べてしまおうなんて先輩が言うから。

 そりゃ秘密だけど。

「秘密の桃って」

 ニュアンスのやらしさに耐えられなくなって、それであらためて音にしてみたら、やっぱりとても照れ臭い。

 その時、誰かが廊下を歩く音がして、私と先輩は目を見合わせる。どちらともなく口を噤み、喋りながら歩く女子生徒たちの声が通り過ぎて行くのを待つ。彼女達が用があるのは視聴覚室か、地学室か。美術室には誰も居ませんよ。心の中で唱える。居ません、誰も、ここには。まるで幼い頃にした遊びのように。呼吸の音すら聴こえてはならないような。

「……っ、ふは!」

 不意に、先輩が耐えきれないというように噴き出したので非難がましい気持ちになる。

「もー、先輩!」

 それでも潜めたままの声音で言うのがますますツボにハマったのか、先輩はとうとう「あはは!」と笑い出した。ちょっとだけ怒っていたのに、つられて笑えてくるから不思議だ。

 強い風が吹いてカーテンを自棄みたいにめくって、先輩の髪が靡いて顔にかかるのがきれいで、まつ毛長いな、なんていつも思うことを思っていたらパチリと視線がぶつかる。

「美玖」

 笑いを含んだ形の口で先輩が私の名前を呼んで、私はとても幸せな気持ちになる。耳に髪をかける仕草も、まるで精密にプログラミングされたみたいに、きれい。

「なんですか、先輩」

「ちゅー、しよっか」

 風と一緒に耳から頭に流れ込んだ文字列が脳に到達する前に、さらりと立ち上がった先輩の手が伸びてきて、温かな手のひらで頬が包まれたと思った次の瞬間には私は目を瞑っていて、次に目を開いたら桃の匂いをさせた先輩がおでこのくっ付きそうな距離で私の目を覗き込んでいた。

「……奪っちゃった」

「ちょっ、せんぱぁいっ!」

 スカートを翻して逃げる素振りを見せる先輩は何かの妖精みたいで、だから画力が欲しいんだよと、逃避のようにやっぱり思う。

 女子とのキスはファーストキスとしてノーカンなのか。それとも偽装して申告すべきなのか。わからないまま私も笑う。ファーストキスは桃のフレーバー。悪くない。悪くないどころか、なかなか無い奇跡なんじゃなかろうか。

 また新しい風が吹き抜けて、空っぽになった水色のお皿の上を拭う。桃の匂いを美術室に撒き散らしながら。

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