わたしはあなたとともに

7-1

 なにが起こったのか理解するのに数秒かかった。親父を押し倒して馬乗りになっていたのは――なんてこったジーザス――ニックの野郎だった。

 いつものキザったらしいスリーピースじゃなく、シャツにグレーのスラックスって格好だったが、狼みたいに目をギラギラさせていて、吸血鬼の尖った犬歯をむきだし、親父の喉元をおさえつけている両手の爪は長く伸びていた。

「この悪魔め!」

 とどっちかが叫んだが、この場合どいつのことを指しているのかよくわからなかった。

「しっかりしろ、神父、こいつは間違いなく悪魔憑きだ!」

 ニックが食いしばった歯のあいだから絞り出すように言った。

 ヴァンパイアが怪力なのはわかっていたけど、ダニーの親父は互角かそれ以上だった。

 ニックの両腕に親父の両手がぎりぎり食い込み、引きはがしにかかる。ニックは顔をしかめて右腕を離すと、親父の横っ面を殴ろうとした。バランスの崩れた一瞬に、親父がその体型から想像するよりすばやく体を回転させて上になった――かと思ったら、ニックの膝が親父の脇腹に入り、親父が咳込む。そのすきにニックが長い爪で親父の喉を掻き切ろうと――

「その人を傷つけてはだめだ!」クリスが叫んだ。

「どうしろというんだ!」ニックが怒鳴り返す。

 悪魔憑きとはいえ生身の人間に手出しを禁じられて調子が狂ったんだろう、ふたりはもつれあったまま地下室への階段を転がり落ちた。どっちも頑丈そうだから心配いらないだろうが。

 階段の下から、たぶんニックが、何語かわからないがその調子からしてなにかをののしっているのが聞こえた。

 クリスがふたりのあとを追って階段を駆け下りたので、俺も地下へ向かった。

 コンクリートの床の上ではニックが優勢みたいだった。立ったまま親父を羽交い締めにしている。親父の顔はほこりでまだらに白く汚れていて、ところどころ腫れていたが、ぶつけたのか殴られたのか、どっちにしても許容範囲だろう。

「やるなら早くやってくれ、神父」

 歯医者の治療か、麻酔なしの手足切断術を受ける兵士みたいなやけっぱちな口調でニックが言った。

「裏切り者のヴァンパイアめが!」ダニーの親父が叫んだが、それまでの声とは全然違っていた。何人かが一緒に叫んだみたいにハウリングしている。それに、ニックが吸血鬼だってのをなんで知ってるんだ?

 クリスを見ると、今までにないようなこわい顔をしていた。左手で胸元の十字架を握りしめている。

主よ憐れみたまえキリエレイソン……」

 クリスの口から歌うようなお祈りが流れた。

 意味はわからないが、おばちゃんたちが聖歌の練習をしているときに聞いた覚えがある。

 お祈りが始まると、ニックの腕の中でじたばたもがいていた親父の動きが少しおとなしくなった。代わりに、ニックの野郎がなんだか渋い顔をしている。

 だが、ほっとしたのもつかの間、親父の口から出た声はこの世のものとも思えないほど重低音だった。

「我らからの贈り物は気に入ってもらえたかな、神父?」

 まるで地の底から聞こえてくるみたいだ。

「……あれはお前の仕業しわざだったのか。

キリストの御名において名を名乗れイン・ノミネ・ジェズ・クリスト・ディカス・ミキ・ノメン・トゥス

「……その不死者が教えたはずだ、薄汚い偽善者め」

 悪魔はクリスを憎々しげににらみつけた。

「私はお前の口から聞きたいのだ」

 ラテン語の文句を繰り返す。

 少しして、苦しそうなしわがれ声が答えた。

「……ブニだ。我々は大勢いる」

 ぎらついていた目がくるりとひっくり返り、

「それでお前は、クリストファー・アンセルムス・マクファーソン神父だな。まったく、なんという名前だ――さあ、これでお互い自己紹介はすんだわけだ。これからどうするね、神父?」

「決まっている。お前を――お前たちをというべきだな――祓う」

「できるものか」親父はヤニまみれの黄色い歯をむきだして嘲笑った。

 クリスはお祈りを唱えながらポケットから小さな瓶を取り出して、中身をダニーの親父さん(の中にいる悪魔)にふりかけた。

 親父もだが、ニックもすごく嫌そうな顔をしたのにはびっくりだ。親父のほうはそれに加えて、いちいちまともに相手にするのもめんどうなくらいの罵詈雑言をわめいている。

 クリスもそれは全部無視して、

「我汝を祓う、汝最も下劣なる霊よ、我らが敵の具現化よ、まったき亡霊よ、我その軍勢のすべてを祓う、イエス・キリストの御名によりて――」

 クリスが十字を切るたびに、親父がお祈りの言葉をかき消す勢いで叫ぶ。クリスも負けじと大声で唱える。背は高いけど細身の体のどこにそんなエネルギーがあるのか謎だ。ここが地下室でよかったとさえ思うぜ。

「……父と聖霊とともにひとつの神にして、永遠に、終わりなく生きたまい、世を治めたまう我らが主イエス・キリストの十字のしるしによりて――」

 長いお祈りが終わるころには親父の頭はうなだれていた。クリスも肩を上下させている。ニックのやつは……相変わらず具合が悪そうだった。もとからの顔色のせいかもしれないが。

「ノーランさん、もうしばらくのあいだ、彼をおさえていてくれますか?」

 クリスの問いかけにも顔をしかめてうなずいただけだ。

 親父の顔がばっと持ち上がった。

 さっきとはまた違った声が言う。

「残念だがすべてのカードを持っているのは俺だ。お前のお祈りは効かないぜ、クソ野郎。俺はお前のことを知っているが、お前と俺とは初対面だからな」

「黙れ」

 短く言ったのはニックだった。

「お前もさっさと自分の墓穴に戻れ、呪われた吸血鬼め! 俺たちに構うな!」

 ニックは親父の頭半分高い位置からクリスをじっと見つめて、言った。

「忘れるなよ、神父。私のために祈ると言ったのを」

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