6-2
「だめだ、出ないよ」
ちょうど帰ってきたクリスに言って、俺は固定電話の受話器を置いた。今日はこれで七回目だ。携帯で四回、固定電話で三回。
あの大雨の日以来、ダニエルは学校に来ていなかった。ふつうに考えれば全然ありえることだけど。ショックのあまり寝込んでいるとか。
「俺、ちょっと行って様子見てくるよ。まだバスあったよね?」
「私も行こう」
クリスは着替えもしないで、黒い
バスの中で俺の携帯が何度か震えたが、ニックからだったので全部無視した。
ダニーの家は、バスを降りて三ブロックほど歩いた住宅街の中にある。芝生の前庭とポーチがついた、緑の屋根と白い壁の二階建てで、まわりの家も似たり寄ったりの造りだ。ちょっと違う点といえば、芝生がきれいに刈られていなくてギザギザに伸びているところか。
ガレージのシャッターは下りていて、もう薄暗くなっているのに、カーテンがとじた窓からは明かりも漏れてこない。
「留守かな?」とクリス。
「わかんない」俺は鼻をヒクヒクさせた。
「なんかこの家……変なにおいがするんだよな。このあいだは雨が降ってたから気づかなかったのかもしれないけど」
クリスの顔がこわばる。
「変なにおいって……最初にミスター・ノーランが訪ねてきたときみたいな?」
俺は首を横に振った。
「そういうにおいじゃないんだよなあ……なんか、なにかを燃やしたみたいな……木とか草とか、ミサのときに使うロウソクの燃え残りっていうか。とにかく好きなにおいじゃない」
「お前の鼻を信じることにするよ。もし
俺たちは外階段を上がった。白く塗られた踏板の一部が腐って穴が開いている。
インター
「やっぱり留守……」とクリスが玄関ドアに手をかけたところ、カギがかかっていなかったのかドアが開いた。
「不用心だなあ」と俺。
でも、破れかかったスクリーン・ドアの奥から押し寄せてきたにおいに、クリスと俺は顔を見合わせた。
「これはたぶん……お香の匂いだよ」
クリスもちょっと顔をしかめている。
「こんばんは、ブラウンさん……ダニエル?」
暗い家の中に向かってクリスが声をかけたが、返事はない。
「ダニエルが中にいるかどうかわからないか?」
「うーん……ここ、もともとダニーの家だから、においがするのは当たり前だし……」
それより何よりさっきから、俺のうなじの毛が逆立ってるような気がするんだけど。
そう言ったら、クリスの顔がけわしくなった。
「中に入って、ダニエルがいないか、もしいたら、無事かどうかをたしかめよう」
「え、マジで? 不法侵入で撃たれるかもしれないよ」
ふと思ったんだが、もし鉛の弾で撃たれた場合、人狼のできそこないの俺は死ぬんだろうか? それとも、人間としての俺が半分だけ死んで、狼のほうが残るんだろうか?
「カギがあいてるんだから、すでに誰かが侵入したあとかもしれないし、私たちが入らなくても誰かが入ってくるかもしれないだろう?」
そんな無茶苦茶な理屈で正当化する聖職者、聞いたことないぞ。
「それに……ミスター・ノーランの言っていたことが気になるんだ」
「ダニー、いるー?」
俺はできるだけ大声を張りあげた。実際問題、息をしようとすると、胸糞悪くなるようなお香のにおいを肺いっぱいに吸い込むはめになる。
おまけに、廊下の床はなんだかべたべたしていて、掃除していないのは明らかだった。
玄関を入って左がリビング、右がキッチンとバスルームみたいだ。正面に、それぞれ二階と地下へ続く階段がある。
「あれ、電気つかないや」
明かりといえばカーテンのすきまから漏れてくる外の街灯の光だけだ。俺は問題ないけど、クリスは見えにくいだろう。
「ブレーカーが落ちてんのか、電気料金払ってないのか……」
俺は携帯を取り出してバックライトをつけた。
「とにかくまず一階を見てみよう」
クリスにうながされて、俺たちは最初にリビングのドアを開けた。
そこはべつになんの変哲もない居間で、絨毯に血だまりを残して誰かが倒れているとか、想像していたようなおそろしいことはなにも起こらなかった。ただ、やっぱりカーテンが閉めきられて空気はどんよりしていて、布張りのソファはところどころすり切れてスポンジがはみ出し、壁ぎわの観葉植物は全部枯れていた。画面の曇ったテレビの前のコーヒーテーブルの上には、いつなにを飲んだかわからないマグカップやグラスと、
この様子じゃキッチンは地獄だろうと思いつつのぞいてみたが、案の定……というか逆に拍子抜けするくらい、使われたあとがなかった。……ダニー、なに食って生きてるんだ?
それでも、変なにおいはここにも充満していた。鼻がバカになりそうだ。
バスルームのドアを(もちろんノックして)開けたとき、俺たちは息を吞んだ(ついでに俺は鼻をつまんだ)。
もともとは白かったんだろうタイルの床とシャワーブースは……その……ゲロと下から垂れ流したもので茶色に汚れていたからだ。割れた鏡にさえ乾いた汚物がこびりついている。
「なんだよこれ……」俺はできるだけ息をしないようにして言った。
どういう神経をしているのかわからないが、クリスは文字どおりのクソの山を目にしても、眉間のしわが深くなっただけで、吐いたりはしなかった。
「急いで二階を見てみよう」
階段の踏み板はギシギシいった。
「ダニー、こんな中にマジでいるのかなあ? いたとしたら、俺たちが入ってきたの、この音でとっくに気づいてると思うけど……うわっ!」
二階の廊下に足をおろしたとたん、俺はなにかを踏んづけて、そのまま真っ逆さまに一階へ逆戻りしそうになった。すっ転んだ俺の襟首をクリスがとっさにつかんでくれなかったら……まあ、たんこぶくらいはできていただろう。
「大丈夫か?」
「なんだよこれ?!」
バックライトで照らしてみると、豆粒みたいなものが散らばっていた。
「泥棒よけ……じゃないよな?」
〈ホーム・アローン〉じゃあるまいし。
すみでなにかがキラリと光り、クリスがそれを拾いあげた。
「……ロザリオだ」
細いとはいえ金属の鎖でつながっていた珠も十字架も、切れてばらばらになっている。
「……どうしよう。俺、嫌な予感しかしないんだけど」
クリスは答えずに、階段から一番近い部屋のドアを開けた。
そこがダニーの部屋みたいだった。パイプベッドと勉強机、本棚の上にはいくつかのトロフィー。たぶんなにかの大会のものなんだろう。
でも、部屋の主の姿はなかった。さらに、布団が落っこちて絨毯がめくれ、床にも、トロフィーと写真立てが倒れて、割れたガラスが散らばっていた。
乱れたカーテンから差し込む街灯の明かりでそれを確認したクリスはさっと出て行き、右隣の部屋のドアを開けた。
俺は一瞬遅れてクリスのうしろからのぞき込む形になったんだが、その部屋は本当に真っ暗で、バックライトをつけるまで、ふたりともなにも見えなかった。
ケータイのちっぽけなライトに照らされた範囲だけでも、クリスがとっさに十字を切るには十分だった。
「なんだよこれ……」
バスルームもひどかったけど、この部屋はそれ以上だった――精神的な意味で。
壁一面に――ふさがれた窓にもだ――スクラップ記事がべたべた貼りつけてあった。
中身は全部カルト教団の集団自殺事件だの、悪魔祓いだといって奥さんや子供を死なせたって内容で、俺でも知ってるマンソン・ファミリーから、Kashi AshramとかSuperior Universal Alignmentなんていう聞いたことのないやつまであった。
FBI捜査官がシリアルキラーを追ってるときの捜査班の部屋か、そうでなけりゃ、追われてるほうの部屋そのまんまだ。ほとんど壁紙と化したスクラップの上にはなにかがびっしり書き殴られていたが、俺には解読できなかった。
部屋の西側の壁には黒い布をかけた小さいテーブルがあった。その上には、溶けたロウに覆われてテーブルと一体化しちまったロウソク立てと、アフリカの
これで聖書でもあれば、黒ミサのいっちょあがりってとこだろう。
クリスは壁の落書きを少しのあいだ眺めていたが、俺を先に立てて小部屋から出てドアを閉めた。
向かいの一番大きな部屋は寝室だったが、乱れたダブルベッドと、中身が全部出て雪が降ったようになっている羽根布団、クローゼットからあふれだした洗濯物の山があるだけで、人間の気配はしなかった。
「ディーン、この家で探していないところは、あとは地下室だけだったね?」
「……うん」
俺は最悪の状態を想像しながらうなずいた。
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