5-2

 底冷えのする、石造りの教会。薄暗い側廊のすみで中年の女性が泣いていた。隣には彼女の夫が座り、嗚咽する妻の肩を抱いている。

 夫婦の前には初老の司教が立っている。痩せて背が高く、厳しいおもてが猛禽類を思わせるのは……フランチェスキーニ司教……その横にいるのは……私だ。

 自分で自分を外から眺めるというのは妙なものだった。私の意識は大聖堂の身廊の柱と柱のあいだに浮かんでいて、そこから彼らを見下ろしていた。

 女性がフランチェスキーニ司教になにかを訴える。司教がそれに応える――私にはなにも聞こえない。司教のすぐ隣にいるのに、光も音も届かない宇宙空間にでもひとり放り込まれてしまったような感じがする。

 彼女が泣き腫らした顔を上げて、私に向かってひきつったように叫んだ。そのときの彼女の顔ははっきり覚えている――それなのに、声は聞こえない。彼女は再び泣き伏し、夫が彼女にささやきかける。

 馬鹿みたいにつっ立っている自分を見たくなくて――目を背けた。

 次には自分の体に戻っていた。というより、視点が空中から地表に変わっただけで、教会の、側廊の中にいるのはそのままだった。夫婦の姿も、司教もいなくなっていた。聖堂全体が青白い光に包まれている。

 目の前には彼が座っていた。やわらかな黒い巻毛の頭はうつむいている。

 思わず嬉し涙が溢れ――次の瞬間には凍りついた。彼が生きているはずはない。自分がふたりいる――また立っている自分自身を外から眺める羽目になっていた――わけもない。

 自分が彼に話しかけるのを正面から見せられる格好だった。心配そうな顔つきはしているが、やはり声は聞こえない。

「やめてくれ……」

 声が漏れた。

(本当に、覚えていないんだ……)

 また、もうひとりの自分がなにか言う。

 だが、手を伸ばして彼に触れようとはしない。

 やがて、彼が立ち上がって出ていく。私はそれを止めようともしない――

(だめだ……行かないで……)

 声になったかどうかもわからなかった。

 彼が出ていき、教会の扉が閉まったあと、場面はめまぐるしく変わった。棺に納められ、冷たく蒼ざめ瞼の閉じられた彼の顔、嘆き悲しむ両親の姿、一面が芝生と白い墓標で覆われた郊外の墓地、本棚と大きな机だけが目立つフランチェスキーニ司教の部屋の次に、再び教会に戻った。

 司教座聖堂カテドラルではない……もっとずっと小さい……うちの教会だ。

 私はひざまずいて祈っていた。

 肩に手が置かれる。ふりかえると……ああ、そこにいたのはレオーニ神父だった。

 小柄な師父は立ち上がった私を見上げた。濃い眉をわざと大げさにしかめて、おどけた調子でなにか言う。

 神父はいつもそうだった。葬儀のときには旅立つ人のことだけではなく見送る人たちについて語り、子供をうしなった親に寄り添った。道を見失った学生には、自分も減量ダイエットには何度も失敗している意志の弱い男なんだと言いながら、もう一度やりなおせばいいと励まし続けた。

 全部覚えている。だから……声が聞こえないのはおかしい。

 聖堂がまたあの青白い光に満たされる。レオーニ神父のうしろに誰かが……彼が立っていた。目は髪に隠れて……いや、眼窩が闇に覆われている。レオーニ神父を見ると、師父も死人のように青ざめていた。

 闇色の瞳孔がうつろに開いて、ぽっかり開いた口からこぼれるのは――……


「……クリス! クリス、大丈夫?」

 揺さぶられて目が覚めた。ナイトランプのオレンジ色の光に照らされて、ディーンの顔が浮かびあがる。

「勝手に入ってごめん……。トイレに起きたらさ、なんかすごい苦しそうな声が聞こえたから……」

 枕元の時計に目をやると午前三時だった。

「……私はそんなにうなされていたのか?」

「うん。……たぶんストレスだと思うな。俺もさ、テストの前にそうなったことあるもん」

 ディーンは微笑んだ。

「……起こしてくれてありがとう。もう大丈夫だから、戻って休みなさい」

 そう言ったあとで、初夏だというのに体が冷えているのに気づく。ひどい汗でパジャマが肌に貼りついている。

 ディーンは黙ってベッドの足元に腰かけた。黒い瞳でまっすぐこちらを見つめ、

「……なあ、クリス、あんた、大丈夫じゃないだろ」

「……」

「あの吸血鬼野郎に血を吸われたからってわけじゃないのはわかるよ。そういうにおいはしないもん。そうじゃなくて……なんか悩みがあるんじゃないかって。……あ、俺の食費のこともあるだろうけどさ」

 照れ隠しのように両手を振る。

「子供なんだからって言うんだろ。わかってるよ。兄貴たちはいっつもそう言うんだよな。俺だって一族クランなのに。それに、十六っていやあじゅうぶん大人だと思うぜ」

 唇を尖らせる様子は当人が言うほどには大人びていないのだけど。

「あの野郎が初めてウチに来たとき、クリスが俺のこと、家族だって言ってくれただろ。あれ、すげえ嬉しかったんだよね。だからさ、俺もあんたの力になりたいんだよ。具体的にどうすりゃいいのか全然思いつかないんだけどさ、でも、悩みがあるなら誰かに話せ、話す相手は犬でもいい、って言うだろ?」

 ――主よ。

 視界がオレンジ色ににじんだ。

「――わ、なに、クリス、俺なんか悪いこと言った?!」

「いや……」

 じゃあいきなり泣くなよ、びっくりするじゃん、と言いつつ彼は立っていき、少しして、電子レンジで作ったホットミルクのカップをふたつ持って戻ってきた。

「……なぜ?」

「知らね。あんま覚えてないんだけど、俺がほんとちっちゃかったころ、夜中に腹が減って鳴いてたら、おふくろが作ってくれたような覚えがあるんだよね。だから」

「ディーン、お前はきっといい夫……父親になるだろうね」

「なんでだよ」

 ディーンは怪訝な顔をして、自分のカップをすすった。

 湯気の立つカップのおかげで冷えていた指先に体温が戻り、汗がひいていくのがわかる。

「お前が今使っている部屋……あそこは亡くなったレオーニ神父の部屋だったのは話したね?」

「うん。クリスが来る前にこの教会にいた神父だろ」

「そう。彼はとても信仰が篤くて、見かけによらず……と言っては失礼になるけど……博識で、そしていつも、一番弱い人たちのことを考えていた。もっと大きな教区の司教に、枢機卿にだってなれたかもしれないのに、貧しさゆえに生まれ育った場所を出ていきたくても出ていけない人、教会から最も遠いと思われる人たちを救いたいと、小さな町の神父のままでいることを望んだ」

「教会から最も遠い人たちって……誰? 犯罪者とか?」

「同性愛者だよ」

 ディーンの目と口が丸くなる。

「なんていうかさ、カトリックの神父でその考えは……だよね」

「異端ね」

「そうそれ。……クリスはさ、そのこと、知ってたわけ?」

「あとで知ったんだ……私がここへ来ることになったときにね。きっかけはある若い男性の悪魔祓いで……」

 喉元の塊と一緒にホットミルクを飲み下す。私が再び話し出すまで、ディーンは黙ったまま、首をかしげて待っていた。

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