第10話 魔女の実
トドメの一撃は深く大猿人の血管を切り裂いており返り血がベアトリスにかかっている。
すかさずブランドがハンカチを取り出してベアトリスに差し出した。
「新品のものです。どうぞ」
頬についた返り血を拭うベアトリスにブランドが進言する。
「あの猿人はちょっと興奮状態でした。ひょっとすると魔女の実を口にしていたのかもしれません。団長も顔を洗って口を漱がれた方がよろしいでしょう」
「魔女の実か。話には聞いている。人だけでなくモンスターも興奮するのか」
問いかけつつもバッシュが差し出す水筒の水を使って、ベアトリスは顔を洗い、口中もきれいにした。
「魔女の実はこちらの地方で自生しています。黒い実を摂取するとふわふわとした酩酊状態になるのですが、若返りの効果もあるとも言われてます」
「ほう。そうなのか?」
「かなり昔のことになりますが、それまで独り身だった初老の男が娘ほど年の離れた女性に惚れましてね。さすがに年が離れすぎと世間の陰口が酷かったんですよ。それで魔女の実を口にしていました。団長のおっしゃるように過剰に摂取すると興奮して攻撃的になるという作用もあるんですがね」
「事件にはならなかったのか?」
「幸いにして。その男はひどく失笑を買いましたが。奇行をし始めたので周囲が気づいて食べるのをやめさせました。しばらく、体内に魔女の実の成分が残りって苦しんだそうです」
「なるほど。この大猿人にも同様に魔女の実の成分が残っているんだな?」
「恐らくそうでしょう。普通はあまり大猿人は魔女の実を口にすることはないはずなのですが」
そんな説明をしながら肩に乗る子猫を撫でているブランドを見てベアトリスは頬を緩めかける。
しかし、すぐに何か考え事を始めた。
野犬が荒らさないように深く穴を掘って大猿人の死骸を埋葬するなどの後始末を終えると、日はだいぶ傾いている。
その日のうちにトールハイムに戻るには少し急ぐ必要があった。
不安の種であったモンスターを退治したことを感謝した村長は、宴を開いてもてなしたいとブラントを通じて申し出る。
本来であれば管轄外のことであり、あくまで視察という名目でやってきている以上は早々にトールハイムに戻るべきところではあった。
しかし、一方でこういう付き合いを大事にするようにともベアトリスは父から言われてもいる。
住民から浮いた存在は警察組織にしろ、軍事組織にしろ脆い。
「ブランド隊長。貴官ならどうする?」
「そうですな。団長はまだ着任して日が浅いです。厚意を無碍にしない方がよろしいかと。後々役に立つと思われます。それに、団長も気にされているのではないですか? 今日の午後と明日の午前中を使えれば、村の周辺にあるかもしれない魔女の実の群生地の探索ができます」
「この辺りに自生しているのだろう? それをしらみつぶしに?」
「我々より体の大きい猿人をあれほど狂わせるとなると、相当な量を口にしたはずです。何者かが密かに大量に栽培しているわけではないでしょうが、かなり大きな群生地があるはずです。後日また同じようなことが起きないように処分しておくべきと思います」
「そうか。では、ここで1泊し、トールハイムへの帰還は明日としよう」
村長が支度のために離れるとブランドは牧草地を横切った。
木柵を越えた森の手前で隊員を3人ずつの5班に分ける。
「これから森の中を捜索することにする。常に3人一緒で行動するんだ。モンスターに遭遇したら無理をするな。呼子を吹いて他の班の救援を待て。魔女の実は水はけのよくない場所に生えていることが多い。北向きのくぼ地を見逃すな」
第1隊の隊員たちは散開するようにして森の中に入っていく。
それを見ていたベアトリスもバッシュを連れて森に足を踏み入れようとした。
ブランドはそれを止めようとする。
「団長はここに留まり下さい」
「どうしてだ? 私は遊びに来たつもりは無いし、探し物であれば少しでも人手が多い方がいいだろう」
「時と場合によりますが、団長が1隊員と同じことをするものではありません」
「しかし、何もせずに無為に過ごすというのもどうなのだ?」
「隊員はこの場所から扇状に広がって進んでいます。団長はどこかの班で何かがあったときに素早く駆けつけられる位置にいます。そのためにもこの場所で待機しましょう」
ベアトリスは形のいい顎をつまんだ。
「理屈としては理解できるが……」
「この時間を利用して、この後のことをお考え下さい。先ほどは村長の目の前だったので、あのように申し上げましたが、魔女の実を誰かが栽培している可能性もあります」
「その場合は村の誰かが関与している可能性があるというわけか。場合によっては村ぐるみという可能性もあるわけだな」
「恐らくそれはないでしょう。その場合は魔女の実を栽培していることの露見を恐れて、そもそも衛士団に助けを求めてこないはずです。まあ、誰かが夢見心地になるために魔女の実を見つけても黙っていたという可能性はあると思います。その者を特定できた場合はいかがなされますか?」
「単に黙っていたというだけでは罪に問えまい」
「もし、こっそり収穫して所持していたり食べていたということであればいかがしますか? それは王国の法に触れることになります」
「法を犯した者が裁かれるのは当然だろう?」
「はい。法の下で裁かれるでしょう。我々がその者を捕らえればですが」
「……ブランド隊長。まるで見逃せと言っているように聞こえるが」
「王国民たるもの国の決まりを知っているべきです。ただ、まあ、好奇心や空腹から少量食べた者まで厳格に取り締まるのは過酷な結果になりかねません」
「その辺りを斟酌して罪を決めるのは執政官だろう」
「そうなのですが、執政官の元には魔女の実を隠匿し摂取していたことを被疑者が認めている書類が回ることになります。恐らく改めての尋問は行われないでしょう。王都で魔女の実を精製したものを摂取した者による犯罪が起きているという事実が組み合わされるとどうなると思いますか?」
ブランドの細い目がベアトリスを見据える。
「しかし、禁を犯したのも事実だろう」
「無知又は不注意に対し鞭打ちをし重い罰金を課すことで世の中が良くなりますでしょうか?」
「言わんとすることは分かる。しかし、私の職務は法を守らせ、違反者を捕らえることだ。罪を犯してしまった者の情状を酌むのはくどいようだが執政官の仕事だ」
「法の執行においても運用で弾力性を持たせることができると思います」
「それは私のやり方ではない。ブランド隊長の見識は分かった。しかし、衛士団を率いる者として最終的に責任を負うのはこの私だ。魔女の実を隠匿し摂取した者は拘束してトールハイムへ移送する。もちろん、隊長が言うような事情があるなら私から執政官に副申を書こう」
「分かりました。ご命令とあれば従います」
ブランドが返事したときに呼子が吹き鳴らされた。
微かな声がする。
「あったぞ。魔女の実だ」
その声に応じてベアトリスが走り出した。
ブランドから見えないその顔には少しほっとしたような顔が浮かんでいる。
後ろから追いかけるブランドの方は感情がうかがい知れなかった。
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