第9話 子猫と大猿人
にゃーお。なーお。草むらから出てきた子猫がブランドの足元で小さな声で鳴く。なんとも哀れっぽい鳴き声だった。
どこかに母猫がいるのなら不用意に手を出さない方がいい。そう思ってブランドは周囲を見回す。
しかし、昼前の日差しの中で近くには他の猫の影はなかった。
今日は、ベアトリスがブランドの勧めに従ってトールハイム周辺の村の一つの視察に出ている。
あと少しでケブス村につくという場所で、遭遇したのがこの子猫。他の人には見向きもせずにブランドの足元でしきりと鳴いていた。
その姿にベアトリスはたちまち心を奪われてしまう。
もともと猫が好きなのだが、父にたしなめられて今まで飼うことができなかった過去がある。
ブランドは困った顔をしていたが、子猫を両手ですくいあげた。
両手にすっぽりと収まる大きさの白い子猫は、ブランドの掌の中で安心したのか鳴きやむ。
「村の誰かが飼っているのかもしれません。訪ねるついでですし、連れていってやりましょう」
目的のケブス村に着き昼食をとった。
村人が子猫のことを知らないというのを聞き出しつつ、ブランドは人肌に温め薄めた山羊のミルクを所望する。
小指をミルクに突っ込み膝の上に鎮座している子猫に指を差し出すとチュウチュウとその指を吸った。
何度も手を往復させると子猫は満足したのかすやすやと眠り始める。
その様子をしげしげと眺めていたベアトリスに気が付くとブランドは詫びを言った。
「仕事中なのに申し訳ありません」
「まあ、獣とはいえ幼き命だ。捨て置くわけにもいくまい」
寛容な言葉を吐いてブランドを安心させるベアトリスだったが、内心は穏やかではない。
子猫の可愛さにメロメロだった。
できることなら給餌を自分が代わりたい。
そんなことを思いつつ、顔が笑み崩れないようにするために、ことさら謹厳実直な表情を作っている。
ブランドの指を吸いながら、子猫の手がゆっくりとにぎにぎしているのを見たときは可愛さのあまり叫びだしたくなったほどである。
ブランドは片手を子猫に添えたまま、空いた手でスープをかきこんでいた。
ベアトリスは食べにくいだろうから代ろうという言葉が喉から出そうになるのをこらえる。
ブランドの横に座っていたノートンは自分が食べ終わったので隊長に申し出る。
「隊長。それじゃあ食べにくいでしょう。ちょっとの間だけ代わりましょう」
掌をベッドにして体を丸める子猫に両手を伸ばした。
そうっと両手で包み込むように抱き上げると自分の腿の上に両手を乗せる。
「すまんな」
ブランドは部下に気を遣わせてしまったことを恥じながら、猛烈な勢いで食事を口に運んだ。忙しく咀嚼し飲み下す。
こういう仕事をしているので早く食事をするのは慣れていた。慌ただしくはあるが見苦しくはない。
衛士にとっては早飯は芸の内である。
ブランドとノートンの様子を見ながらベアトリスは激しく後悔をしていた。
こんなことなら無理をせずに自分が代わっておけば良かった。
今さら言いだすわけにもいかず、時折遠くなってしまった子猫へ密かな羨望の視線を向け、自分も皆に遅れないように食事をする。
食事を終えると村長の案内で、ベアトリスの一行は岩山へと続く牧草地に出かけようとした。
ブラントが子猫を村人に預けようとすると、村人の手を蹴り、ブラントの腕をよちよちと伝って肩の上に乗ってしまう。
制服に爪を立てて、意地でも引き離されまいと子猫は頑張った。
ベアトリスは苦笑をする。
「まるで本当の親子のようだな。随分と懐かれているようだ。仕方ない。今日は巡察だし問題はないだろう。そのままついてくるがいい」
許しが出たのでブランドは恐縮した。
盛んに子猫に話しかけている。
「なあ、俺はこれから仕事なんだ。危険なモンスターも出てくるかもしれん。ここで待っていてはくれないだろうか?」
「にゃあ?」
会話が通じているのか、いないのか、ブラントの要請を子猫は拒絶した。
子猫を肩に乗せたまま、ブラントは牧草地へと隊員を先導する。
案内していた村長が足跡を目撃したという場所を指さした。
大きな岩があり、その周囲を灌木が取り囲んでいる。ベアトリスが岩に近づこうとするより先に、ブランドが前に出た。
途端にブランドの肩で子猫が毛を逆立たせ、フーフーと唸り声を上げ始める。
ブランドは剣を抜き放つと、小さな声で子猫を落ち着かせようとした。
「どうした? オチビちゃん。そうか、あそこに何かが隠れているというのだな。何と賢いのだ」
その言葉を言い終えたかどうかというタイミングで岩の向うから何かが身を躍らせてくる。
茶色い長い毛に覆われた大猿人が何かの長い骨をブンとブランドに振り下ろした。
背丈は高く筋骨隆々とした体躯の大猿人の一撃をブランドは身を捻ってかわす。
空振りをした腕に横から剣をぶつけ大猿人の二の腕を切り裂いた。
野太い怒りの声をあげて大猿人が再び骨を振り下ろしてくる。それに剣を合わせて受け流した。
脇腹に一太刀加える。
力強いが大ぶりな攻撃を軽くいなしながら、ブランドは大猿人を少しずつ傷つけていった。
同時に部下たちに指示を出し、大猿人が村の方へと向かわないようにしつつ、ベアトリスも守るようにと言いつける。
「気遣い無用だ」
ベアトリスは横合いから大猿人に斬りかかった。さっと血しぶきが飛ぶ。
大猿人が標的を変えようとするのを、ブランドが大きく剣を振って注意を繋ぎとめた。
いくつか手傷を負って、大猿人は無茶苦茶に暴れる。
「団長、距離をお取りください」
ベアトリスに先に下がらせてから、ブランドも数歩の距離をとった。
「ボーラ投擲!」
ブランドの指示で第一隊の隊員たちは、分銅付きの紐を振り回して次々と大猿人に投げつける。
両端に重しのついた紐は回転しながら、大猿人の脚に絡みつき、首を絞め、頭に衝撃を与えた。
衛士団は警察組織なので、弓矢が支給されておらず、また個人的に所有しているものを公務に使用するのも憚られる。
しかし、迂闊に近づけない相手も現実的には存在し、そんなときにボーラは活躍をしていた。
元々は子供たちによる玩具扱いだったボーラを、衛士団の投射武器にまで洗練させたのはブランドである。
ごく稀に衛士団から逃走を図る相手を制圧するのにも重宝していた。
十人近くからぶつけられ身動きを封じられた大猿人に対して、ベアトリスは、従者のバッシュと共に肉薄して見事に頸動脈を切り裂くことに成功する。
武門の名門に恥じぬ太刀筋をしていた。
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