第2話 あなたがヒロインなら 中編
怒声と海鳥たちの鳴き声でけたたましく包まれる簡素な漁港の中、いくつもの船が港に横付けされとても濃い塩水と加工された魚が詰められた樽を屈強な男たちが人海戦術で船から降ろしていた。
港町独特の臭いが辺り一面に漂う中、簡素な服を着たエリーゼは魚のアラが詰め込まれた一抱えもある土器の鍋をもって歩いていた。
エリーゼがカモメの向かった先を追いかけて、いくつもの天険を抜けた先は小さな寂れた漁村だった。
だが、エリーゼがその寂れた漁村にたどり着いた時は、寂れた漁村ではなく息を吹き返した漁村だった。
エリーゼが寂れた漁村に到達する前日から長く不漁が続いていた海岸に多くの魚の群れが訪れだしたのである。
そのことがエリーゼにとっては幸運だった。
労働力不足と食糧事情の劇的な改善は、一人の少女が寂れた漁村に紛れ込む余裕を作り出したのである。
寒空と寒風がまだ残る中、エリーゼは腰や膝を痛めないように気を付けながら魚のアラが詰め込まれた土器の鍋を活気あふれ始めた寂れた漁村のはずれに運ぶと、エリーゼ手作りの石と泥で組み立てた簡易な屋外コンロにそっと乗せた。
燃料は海岸線の切り立った崖の石炭層から零れ落ちていた褐炭を暇な時に集めておいたものから比較的乾いているのをいくつか屋外コンロに放り込むと、種火として残しておいた灰の中でくすぶっている褐炭を流木を器用に使って取り出すと、火が大きくなるように屋外コンロに放り込んだ褐炭を流木で積みなおす。
石炭独特の臭気と煙がゆっくりと立ち上り土器の鍋の水が温まり始めた。
簡易な柵で守られた村はずれの吹き曝しの所がエリーゼの寝床になった。
エリーゼが寂れた漁村に流れ着いた時は、地引き網が魚でいっぱいになっていたので寂れた漁村の漁師や村人だけでは引き上げられずにいた。
たとえ子供でも人手を借りたい。
その漁師や村人達の思惑と、エリーゼの手伝えば良いことが起きるのではないかという直感がうまくかみ合った。
エリーゼは、漁を手伝ったことをきっかけに、村はずれに住む権利を手にしたのである。
エリーゼは、漁師や村人を手伝いながらすぐにシェルターを作った。
流木を使って円周から中心に倒すように何本も重ねる。
流木の自重を使って円錐形に自立して支えあうかを何度も確認して、シェルターが倒れたり潰れたりしないかを確認した。
その後、できるだけ細かい枝や葉っぱを使ってシェルターの骨組みである流木の隙間を埋めると、地面を流れる雨水がシェルターの中に入らないよう溝を掘り、床の代わりに細かい石を敷き詰めてから流木を重ねて、寝床の葉っぱをできるだけ厚く敷き詰めた。
こうしてエリーゼ謹製の簡易シェルターが作られた。
この次は、トイレに使うおまると料理の皿と鍋を作る粘土を探している時に、偶然寂れた漁村の近くの海岸線の切り立った崖の石炭層から零れ落ちていた褐炭を見つけた。
この褐炭が、エリーゼの居住環境の寒さに対抗する劇的な熱源の供給元として活躍した。
エリーゼが漁や魚の加工を手伝った報酬は、子供が大きくなって着れなくなった服。
魚のアラ。
使い道がわからない何かの破片。
貨幣経済ではなく物々交換によって与えられるわずかな現物だった。
エリーゼは、資本がたまらない事とこの世界の文字や知識を学べないことに悩んでいたが解決策を見つけられずにいた。
その悩みの一つ。
文字や知識を学べない事は、この寂れた漁村近くの洞窟に住み着いた一人の偏屈な変わり者の髪も白髪のぼさぼさで、服など白い生地を巻き付けてるだけで、分不相応な立派な木の杖を持つ老人の登場で変わった。
後に、世界でも数少ない本物の錬金術を極めたエリーゼの師匠とも呼ぶべき老人だったからだ。
豊漁が続く寂れた漁村は、その魚が生み出す資本。
その資本が放つ香りが多くの人を集めだした。
封建社会で人の移動が厳しく制限されいても、完全に人の流れを止めることは無理だった。
また、資本が持つ資本が資本を生み出す力は人が作り出したルールではとても止められるものではなかった。
まだ、豊漁によって支えられる経済力は、この寂れた漁村に集まった多くの人々のモラルを支えていたが、いつしか爛熟して腐り落ちるかわからない危険な芳香を漂わせ始めてもいた。
その危険な芳香に呼び寄せられた一人が錬金術の道半ばで放浪していた老人である。
エリーゼと老人の出会いは、エリーゼが土器の鍋で煮込んでいた魚のアラを老人がつまみ食いしようとしてた時だ。
すぐさま、エリーゼは棍棒で老人を叩き出そうとした。
弱肉強食。
少女一人生き抜くためには、綺麗ごとなど言っていられなかった。
「何をするんじゃクソガキが!!それが老人に対することか!!」
無様にしりもちをつく老人を冷酷な目で見降ろすエリーゼは、棍棒を握りなおすと躊躇せず老人を狙って、スイカ割よろしく棍棒を振り下ろした。
振り下ろした棍棒は、老人の体近くをかすめ地面にむなしく運動エネルギーを伝達しただけだった。
「わしが死んだら、世界の英知が失われるんだぞ!!」
エリーゼにとって、次のご飯の方が老人の世迷言より価値があった。
「どの程度の英知かは知らないけど、人のご飯を盗んだ罪よりは価値があるのか疑わしい!」
エリーゼの可憐な声が放つ言葉は、その完璧な美しさからかけ離れた毒舌だった。
「なんちゅうクソガキじゃ!聞いて驚け!!」
老人は、ゆっくりと立ち上がると立派な杖をエリーゼに突き付けた。
「各地で錬金術を学んだ後、蓬莱で仙人どもからも学んだ一流の一流の錬金術師様じゃ!!」
得意顔で話す老人にエリーゼは冷めた表情で言い放った。
「嘘つき」
その一言は老人を激昂させるには十分だった。
「何が嘘つきじゃ!」
「大っぴらには言えんが、わしほど優れた錬金術師と話せることなど、お前のようなクソガキではありえんのだぞ!!」
顔を真っ赤にして怒鳴りつける老人に、エリーゼはあきれた表情で言い放つ。
「いまさらながら、錬金術なんて笑わせる。科学の基礎になった功績は認めるけど四大元素の理論や三原質の理論に縛られて袋小路になってたじゃない。そもそも賢者の石も作れなかったのに」
そのエリーゼの冷え切った言葉を聞いた老人は、目を大きく見開くと口角泡を飛ばして叫んだ。
「どこで賢者の石を聞いた!なぜ、お前のようなクソガキが錬金術の理論を語れる!!」
その老人からの問いに、エリーゼはすぐには答えることができなかった。
結果的に語るなら、老人の方がエリーゼのもとを足しげく通いエリーゼが老人の熱意に根負けしたのである。
エリーゼは、お互いの知識と経験を交換するために時間を作っては老人が住み着いた洞窟に通うようになった。
文字を教えるようエリーゼが老人に頼んだ時、筆記用具がないことを理由に一度は断られたが、エリーゼはすぐに細い枝を拾ってきて、洞窟の入り口付近の砂に直線の線を引くと、これで筆記用具は用意したと言い放ち、老人に文字を教えろと詰め寄っていた。
「しかしクソガキの話は面白いな。なぜそれほどの知識を知ってるかは話したくないようだから深くは聞かんが」
エリーゼは、前世どうこうは老人にも決して話さなかった。
「わしの錬金術が本物かどうか見たいといわれても、ここには炉も蒸留器も無いからの」
顎に右手を当てながら話す老人を冷めた目で見ていたエリーゼに、老人は不敵な笑みで答えた。
「普通の錬金術師なら炉や蒸留器などの道具が無きゃなーんもできん。だが、一流の一流のわしは違う!」
老人は自信満々に話しながら、ただ白い生地を体に巻き付けた服の胸元に顎を撫でていた右手を突っ込むとごそごそと何かを取り出した。
それは、エリーゼには手のひらサイズの細長い日めくりカレンダーに見えた。
「こいつはな。蓬莱の仙人どもの知識と蓬莱でしか手に入れられない素材にわしの知識と経験で作り出した霊符じゃ」
黄金色というには薄い色の札束よりは厚みのある純粋な紙で作られたように見えない無地の紙らしき束をエリーゼに見せた。
エリーゼには、その束は生前見慣れていた札束の束の一つにとても似ていると感じた。
老人は、その霊符の束を左手に持ち替えるとぶつぶつ独り言をつぶやきながら右手の人差し指で文字を書くようになぞり始める。
霊符の束に人差し指でなぞるのが終わったのかつぶやきが終わり霊符の束から表面の一枚を右手でめくり取ると、そのまま摘まみ上げると真上に放り投げた。
放り投げられた霊符は空中に溶けるように消え辺り一面にラベンダーの香りが広がった。
エリーゼが目を丸くしていると老人は豪快に笑った。
「クソガキでも驚くことはあるのじゃな!これは愉快愉快!!」
エリーゼが頬を膨らませて不機嫌な態度を見せると、老人はエリーゼのご機嫌を取った。
「ほれ、この霊符を特別にクソガキのお前にプレゼントじゃ」
いきなり老人が使っていた霊符の束をエリーゼに手渡した。
「使い方は、指先に魔力を込めて叶えたい願いを霊符に書き込むと願いが叶うと言うすごい霊符だぞ」
エリーゼは、泉から水を汲むような感じに両手の手のひらに老人から受け取った霊符の束を受け取った。
エリーゼは、霊符の束を見つめながら素朴な疑問を聞いた。
「この霊符使い切ったらどうするの?」
この問いに老人は簡潔に答えた。
「願いを叶えるといったじゃろ。もう一つ霊符の束を手にすると願えば手に入る!」
エリーゼは、左手の手のひらに霊符の束を乗せると半信半疑ながら霊符の束の一枚目の霊符の表面を右手の人差し指で霊符の束がもう一つ手に入ると願いながらなぞってみた。
それから見よう見まねで右手で摘まんで放り投げた。
だが、霊符はひらひらとただエリーゼの近くの洞窟の中の地面に落ちた。
「すぐに会得出来たら誰も苦労せん。焦らず学ぶことじゃ」
老人のいつになく機嫌のよい声を聴きながら、エリーゼは地面に落ちた霊符を拾い上げた。
エリーゼが老人が住み着いた洞窟に通うようになってしばらくした頃、老人の言動に変化が起きた。
「わしは錬金術を学び錬金術師になったのは、ゴールドを作りたかったわけでも賢者の石を手にしたかったわけでも不老不死になりたかったわけでもない。完璧なものを見たかったのじゃ」
老人の独白は、弱弱しい話し方だった。
「それがこの寂れた漁村近くの洞窟に流れ着いてみたら、完璧な美しさというものが粘土を焼き固めて作られた鍋に魚のアラを詰め込んで寂れた漁村の中を歩いているのじゃ。なぜ、この寂れた漁村の愚か者たちはこの意味が理解できんのかわからん」
エリーゼは、無様に座り込み焦点もあっていない視線を意味もなく何もない空間に向けている老人に戸惑っていた。
「クソガキ。おまえはどこから来たのじゃ?」
「その美しさ。最初は気が付かなかったが錬金術でも作れん美しさじゃ」
「教えてくれ!」
「その美しさをどこで手に入れたのじゃ!!」
眼を見開き、いきなり掴みかかってきた老人をエリーゼは反射的に突き飛ばし叫んだ。
「冷静になれクソジジイ!!」
そのエリーゼの叫び声に、老人は我に返ったようだった。
「わしは……」
老人のつぶやきは洞窟の中に小さく響いていた。
エリーゼは、錬金術には多くの重金属が使われるのを知っていた。
だから、老人の変化が重金属汚染の影響で発症した症状ではないかと考え悲しんだ。
この日から、エリーゼは老人と会うときは重金属汚染の症状が悪化していないか老人の言動を注意深く観察するようになった。
「クソガキが話すイデアというものをわしは見てみたい。それこそがわしが求めていたものの一つの答えかもしれん……」
「クソガキには信じられないだろうが、わしの霊符なら世界を超えることも渡ることもできるはずなのじゃ……」
「イデアが見られるなら、わしはこの世界を捨ててもよいと思っている……」
エリーゼは、弱弱しくぶつぶつと独り言を話す老人を哀れに思い、近頃は否定せず話を合わせ聞き流していた。
「クソガキ……。わしの錬金術を学びたいか……」
エリーゼは、砂に何度も老人から学んだ文字を木の枝で繰り返し書きながら、可憐な声で適当に答えた。
「教えてくれるなら?」
そのエリーゼの声を老人はちらっとエリーゼを見てから話の続きを話し始めた。
「今のわしでは無理じゃ。だが、どうしても学びたければ蓬莱に行く事じゃ。そのわしがプレゼントした霊符を仙人どもに見せれば、わしの代わりに蓬莱の仙人たちがよき師匠となるじゃろう」
エリーゼは、なぜ今の老人では教えるのが無理なのか老人に尋ねた。
「今のわしの頭と元気では最初から最後までとても教えられん。悔しいが教える前に時間切れとなるじゃろう……」
エリーゼには、老人の答えが別れの言葉に聞こえた。
老人の答えの次の日は、寂れた漁村に大量の濃い塩水と加工された魚を詰めた樽を乗せた船が何隻も入港して、エリーゼが仕事の休みをもらい老人が住む洞窟に行くのに五日の日にちが必要だった。
久しぶりにエリーゼが老人が住む洞窟を訪れると、まだ昼ご飯が終わったばかりの時間なのに人の気配がなく洞窟の中も外もただ静寂が支配していた。
エリーゼが注意深く洞窟に踏み込むと、洞窟の入り口からすぐの地面に見たこともない完璧な円とその完璧な円の中に理解できない文字と幾何学模様が青銅に似た金属の独特の光沢を放つ何かが使われて描かれていた。
それは、エリーゼの直感では周期表にも書かれていない金属が自らの意思でその完璧な円と理解できない文字と幾何学模様を描き出したように感じた。
その圧倒的な存在感に驚きながらエリーゼはゆっくりと周りを見渡した。
洞窟の中の老人の荷物がいつも置かれたりしていたところが、整理されていた。
さらにエリーゼが視線を洞窟の奥に向かって右側に向けると、そこには大きく石をこすりつけて書かれた文字が見えた。
わしはイデアを探しに行くと。
エリーゼは、ただその文字を見つめるしかできなかった。
夜のとばりが下りる中、エリーゼは微動だにせず老人が壁に残した文字を見つめ続けていた。
エリーゼの理性は冷静な判断を下すようエリーゼの思考を誘導しようとしていたが、この時のエリーゼの直感は違う答えをエリーゼの思考に刻み続けていた。
あの老人の語っていた錬金術の話は本当で、錬金術師としてこの世界を捨て別の世界に旅立ったのではないかと。
エリーゼが堂々巡りの思考の海に溺れる中、ふいにエリーゼの鼻腔に何か焦げ臭い臭いと明らかに生理的に恐怖を感じる臭いが混じったものが飛び込んできた。
エリーゼはふらふらとしながら洞窟の入り口から慎重に周りを見渡した。
夜の暗さに慣れた目に飛び込んできた映像は、寂れた漁村が真っ赤に燃えながら、その燃え盛る炎に照らし出された凄惨な殺戮と略奪現場だった。
エリーゼがその非日常の現実に立ち尽くしてると、港に横付けされた見慣れない形の船が燃え盛る寂れた漁村の多くの建物から吹き上がる真っ赤に燃える炎にゆらゆらと照らしだされていた。
その寂れた漁村の沖合から増援なのか船をオールで漕ぐ音が複数近づいてきているのが聞こえてくることにエリーゼは気が付いた。
ここでエリーゼの知識がエリーゼを守るために生存本能に匹敵する心の声で叫んだ。
これは豊漁が続く寂れた漁村の富の略奪と奴隷市場に売る奴隷を狩り集める目的の極めて訓練された経験を積んだ武装集団の襲撃であると。
エリーゼは、震える足で着の身着のまま海岸線とは反対側に逃げ出した。
錬金術師と名乗っていた老人からもらった霊符と知識だけを身に着けて、再び決死の逃亡生活に放り込まれたのである。
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