第五章:過去を繋ぐ
あれから、直繋とは連絡を取っていない。直繋は全く遊びに来なくなったし、淳也はあの日のことを謝ろうとしても、気が引けた。LINEでの会話は一月の下旬で止まったまま、月日だけが流れていった。
部活に勉強に、やることはたくさんある。不思議と、今まで直繋のために開けておいた時間は他のことでどんどん埋まっていった。学期末まではあっという間で、気がつけば、たった四日間の期末試験など終わりを迎えていた。
試験終了後でも、珍しくその日はバドミントン部の活動がなかった。午後の時間、何をしようかと考えると、案外すぐに思い当たることがあった。
直繋の高校へ行ってみよう。これは、今、考えついたことではなかった。直繋について聞きたいことがあり、以前から行こうとは思っていたのだ。疎遠となった今頃行ってどうするのだとも考えたが、この機会を逃せば、次は遠い。そう思い、決心した。
直繋の通っている高校は、地元の公立高校だ。駅から徒歩で行ける距離のため、家には帰らず、直接訪ねることにした。
普段とは違う方向へ進むことに新鮮味を覚えながら、足を進める。
一つ、大きな曲がり角をすぎると、突然視界のいっぱいに広がる校舎。公立高校ではありながらも、都心に位置するこの学校は、名門と呼ばれるに相応しい風貌を持っていた。
友達と喋りながら下校をする生徒がちらほらと見られる中、校門の前では、それを見送る警備員が、先生と思しき小太りの人と話をしていた。そのもとへ近づいていくと、二人は淳也に怪訝な目をむけた。
この学校の制服ではないのだし、当たり前のことだろう。淳也は、用意していた生徒手帳を取り出しながら、臆せず声をかけた。
「あの、自分はこういうものです。友達が、この学校に通っているのですが」
警備員は、目の前に提示された生徒手帳をじろじろと眺めながら、面倒くさそうに答えた。
「はあ。それで、何の用?」
「ええと、その友達――広田直繋って言うんですけれど、彼のことについて話したいことがあって、担任の先生に会わせていただけないでしょうか」
すると、隣の小太りの中年男性が、おや、と声を上げた。
「広田君の担任は、私がしているが。君は、広田君の友達なのかい? それなら、私も聞きたいことがあるよ。ここで立ち話もあれだ。良ければ、中へ入ってくれ」
淳也は、狙いすましたような偶然に驚いて、思わずその顔を二度見してしまった。やや禿げかかったその顔に、にこにこと笑顔を浮かべる人の良さそうな男性。一拍の後、淳也はこくりと頷いた。
案内に従い、淳也は玄関からそう遠くない空き教室に入り、二人はそこで向かい合って座った。
「さて、私は広田君の担任をしている、
淳也は、座っていた椅子を引いて姿勢を正した。
「自分は、直繋の友達の上川淳也です。今日は、直繋が不登校になってしまった原因について聞きたいのですが、記憶を失う前の学校生活は、どのような感じだったのでしょうか。何か、不登校の原因となるものに心当たりはありますか?」
釜村は、うーんと唸って答えた。
「いや、特にないな。クラスに馴染んでいたし、友達もたくさんいた。普通の学校生活を送っていたと思うがね」
「……あっ、そうなんですか」
予想と外れた言葉に、淳也は返答に窮した。それに、その答えならば――
「えーと、でしたら今日はもう大丈夫です。お時間をいただいてすみません」
あまりに急な展開に、えっ、と釜村は目を丸くした。
「なんだい、彼が学校で、いじめを受けていたとでも考えていたのかい? そんなことは全くないよ」
突然に、いじめ、という言葉が飛び、淳也の肩がびくっと跳ねた。それには気づかないようで、釜村は穏やかに続ける。
「それよりも、私は君の方から不登校の原因について、何か聞けるのではないかと期待していたんだけれどね」
「い、いえ。特に思い当たることはないです」
すみません、今日はありがとうございました、と言い、状況を飲み込めていない釜村を残して教室を出る。来たときとは打って変わって、そそくさと学校をあとにする淳也に、校門前に立つ警備員は、眉をひそめていた。
家へとしばらく歩き、淳也はようやく落ち着きを取り戻した。五分とかからなかった会話を振り返ってみても、収穫のないことは明らかだった。
直繋のことについて何か知れると思ったが、無駄足だったか。自信満々で押しかけておいて、あの終わり方では恥ずかしいことこの上ない。やや拍子抜けして、ぼんやりとした頭で、駅のそばの大通りを通っていた、そのときだった。
視界の端に映った緑の影に、思わず足を止める。五、六人のその制服の持ち主を確認したとき、淳也は顔を背け、歩き去ろうとしていた。まぎれもない、淳也の高校の制服。しかも、同じクラスのメンバーだった。あろうことか、彼らは――。
「あれっ、もしかして、あそこにいるの上川?」
「え、まじ?」
離れていても聞こえる大声と共に、彼らは近づいてきた。走り去りたい気持ちを抑えながら、うつむき気味に、その方向をむく。
近づいてあっという間に淳也の周りを取り囲みながら、まじだまじだ、と騒いでいると、一番体格の良い男子が口を開いた。
「おい、お前、こんなところで何やってんだ?」
目を合わせないようにしながら、淳也はぼそりと答える。
「おれは、このあたりに住んでいるだけ。そういう君たちこそ、何をやっているの」
「俺たちは、テスト終わりにここに遊びに来ただけだ。ていうか、お前ここに住んでるって、本当か? 俺たちが遊ぶには相応しいけど、お前には似合わない大都会じゃないか!」
その言葉に、取り巻きがげらげらと声を立てて笑う。淳也が黙っていると、その肩に太い腕がまわされた。
「おい、お前も一緒に遊ぼうぜ。ほら、こっち来いよ」
「え、いや、ちょっと――。やめっ……」
その力強い腕に、体が引っ張られる。抗うすべもなく、半ば引きずられるようにして裏路地へと連れ込まれる。その最中、淳也は、はるか遠くにもう一つの影を見た。道路の前で立ち止まって、信号を待っている様子のその人影が、ふっと振り向き、目が合った――気がした。
「……直繋」
大通りから少し離れただけで、そこは薄暗がりの閑散とした場所となる。路地裏の隅に座らせられ、その周りを彼らが囲む。それは、いつもと同じ光景だ。
「なあ、最近さ、放課後付き合ってくれねえじゃん。部活あんのは知ってっけどさ、ない日もじゃねえか。一体、そんなにすぐ帰って、何やってるんだ?」
何かと難癖をつけられ、なじられる。これも、いつもと同じ。
「ほら、答えてみろよ!」
「――中学の友達と、遊んでた」
その言葉に、笑い声が響いた。辺りに反響した声が、まるで大衆にあざけられているように聞こえる。
「はあ? 中学の友達? 何の縁があるんだか知らねえが、俺たちの仲より大事だって言うのか」
淳也は、ぐっと唇をかんだ。それは、もちろん、
「そうだ」
ひゅうっ、と風を切る音が聞こえた。目をやる間もなく、腹に強烈な衝撃。すかさず肩にも飛んでくる。これだって、いつもの光景。そうなんだ。これがいつも通り。何も、変わらない――。
地面に転がり、立ち上がる気力もないまま、土気色の混じったアスファルトを睨みつけた、そのときだった。
「やめろおぉっっ!」
何かがぶつかる、どんっ、という音と共に、急に新たな声が加わった。聞き慣れたその声に、思わず顔を上げる。
「直繋……」
見れば、裏路地の隅へ、直繋と一緒に数人が投げ飛ばされている。すかさず立ち上がった直繋は、まだ立っているものへと駆け寄り、その頬を思い切り殴った。
「お、おい。何だこいつ……」
大将格の男子はゆっくりと立ち上がり、真っ先に直繋へと歩み寄った。
「何だあ、お前、やってくれるじゃねえか」
その目に宿っている、ぎらついた黒い光に、淳也は思わず声を張り上げた。
「直繋、離れろ。そいつはだめだ!」
しかし、その巨大な拳が振られることはなかった。
立ち上がった取り巻きたちがそのもとへ駆け寄り、慌てて声をかける。
「おい、ここは逃げたほうがいいって。警察でも呼ばれたら、俺たち終わりだぞ」
「……ちっ。くそっ、さっさといくぞ!」
二人をぎらっと一睨みし、互いの肩をぶつけるようにして、彼らは隘路を走り去っていった。その場には、だらんと立ち尽くす直繋、ぼんやりとその光景を見ていた淳也のみが残されていた。
淳也は、すうっと息をのんだ。途中で、助けが入った。彼らは、逃げていった。いつもと、同じではない。初めての光景――。
そのとき、淳也は、直繋が自分を見つめていることに気づいた。立ったままで、淳也を食い入るように見下ろしている。その目は、これまでの直繋とは、何かが違った。
「あ、あの、直繋。ありがとう……」
ぼんやりと焦点の定まっていない目を窺いながら、淳也は声をかける。その言葉を最後まで聞かず、突然、直繋は駆け出した。
「え、どうしたんだ――」
慌てて立ち上がり、曲がり角に消えるその姿を見た瞬間、淳也は気づいた。直繋のことを、追いかけなければならないのだと。
そうだ。あの光景は、始めてなんかじゃない。そうだったじゃないか。あのときとは、立場が逆なだけで。
路地裏を思い切り飛び出し、視界から消えそうになるその姿を追う。驚いたようにこちらを見る通行人をかき分け、ただ、あの背中を探し、辿って、必死に地面を蹴飛ばした。
直繋がみせた、あの目。何かに怯えているような、自分ではない誰かを見ているような、あの目。
あの光景で、思い出したのだとしたら。あの時のことを。二人の、過去を。
そうだ。きっと、間違いない。
淳也は、ぐっと前を見据える。――直繋の、記憶が戻ったのだ。
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