遠い空
野生いくみ
遠い空
天井近くに取り付けられたエアコンが低くうなっていた。おかげで五年三組の教室はほどよく温まり、給食でおなかもいっぱいの子どもたちの中には舟を漕ぎ始めた者もいた。
「はい! いいかなー? 今日は北海道について勉強するよ」
クラス担任の逢坂今日子は声を張り上げて子どもたちの気を引いた。訪れたことがある子にその時のことを尋ね、『食べ物が美味しくて、自然豊かで、広大な大地』という言葉が出てくるのを待っているのだが反応は薄かった。午前中は目をキラキラさせて手を挙げた子たちもとろりとした目で今日子を見ていた。それはそれで仕方ない。眠くなる時間だし、北海道に行ったこともない子だってたくさんいて、遠い土地のことなんてそうそう考えるものではない。
生産的ではないがごく平和な空間で、ふと一人の生徒に目が留まった。ちらっ、ちらっとこちらに視線を走らせたかと思うと手元で何かを操作していた。寺池久遠。窓際の後ろの方の席の小柄な男の子だった。すぐにスマホだと気づいた。
ネットか? ゲームか?
今日子は眉をひそめた。学校では校長の許可がない限り生徒がスマホを持ち込むことを禁じている。担任がよそを見ている間に操作する辺り、悪いと本人も思っているらしい。こちらを盗み見た後、周りの子たちをうかがった。今日子は気づかないふりで子どもたちに話しかけた。
「地図帳でもダントツで広いでしょう? だからたくさん作物も取れるし、先生驚いたんだけど、北海道の牛肉って美味しいの。新千歳空港のレストランで大きなステーキ食べちゃった。広い牧場で飼育されるからいい肉になるのね」
大きいステーキにつられて数人の顔が輝いた。その中に久遠の顔はない。それどころか、さっきよりピリッとした空気に包まれている。真剣な顔で焦りをにじませ手元を見ていた。今日子は皆にワークを書き込むように言いながら久遠に近づいていった。注意しようとした瞬間、うつむいたまま目を見開いた久遠は小さく悲鳴を上げた。
「何? どうしたの?」
思わず顔を覗き込むと、今日子と視線が合った。そこが授業中の教室だと改めて気づいたらしい。うろたえた久遠の手からスマホが滑り落ち、木製の床にコーン……と音を立てて響いた。どうしてスマホを持っているのか叱ろうと口を開いた時、久遠の黒い瞳から涙があふれた。
「お父さんが無事に……出られた」
何のことかさっぱりわからなかった。スマホを持っていた罪悪感でないことは確かだった。今日子はスマホを拾い、手渡しながら久遠に聞いた。
「お父さん、無事ってどういうこと?」
他の子たちも成り行きを見ていた。
「無事にウクライナを出られた」
久遠が見せたスマホの画面には、『フランクフルトに着いたよ。心配かけてごめんな』とあった。最近ウクライナ情勢がどうとかで大使館から日本人に退避勧告が出ているとニュースで見た。自分にとっては遠い国のことで興味もなかったけれど、そうか、商社勤めの久遠の父親はウクライナにいたのか。
子どもたちはザワザワと話し始めた。
「ニュースでやってた。危ないんでしょ?」
「戦争になるって」
「でも日本人は関係ないっしょ」
「関係なかったら、久遠が泣くわけなくない?」
「ヤバいんじゃないかって、久遠、心配してたもんな」
どことどこが戦争になるのか、日本はどっちの味方なのか、そもそもウクライナはどこなのか。聞くまでもなく子どもたちは考え、手元の地図帳を見て位置を探す。今日子の授業ではステーキに反応しなかったくせに、クラスメイトの家族の無事には真剣になる。しかも心配していたというのだから愉快で頼もしい話だ。
「久遠くん。先生はウクライナのことほとんど知らないの。教えてくれる? まずはフランクフルトがどこかから」
それくらいわかっている。飛行機の乗り換え地だ。けれど、なぜ彼が泣いたのかその意味から教えて欲しかった。手の甲でごしごしと顔を拭いて久遠は「それくらいなら……」とはにかんだ。「もちろん、十分」と答えながら、すっかりスマホのことで叱るのを忘れていたと気づいた。不安で学校に持ってきたのだろう。遠く離れた地で危険な目に遭うかもしれない父親を思うと一刻も早く安否が知りたくて我慢できなかったに違いない。それを咎めるのは人間としてきっと寂しい。それに社会科の授業としては十分だと思った。久遠とそのスマホのおかげで遠い空とこの教室へつながったのだから。
遠い空 野生いくみ @snowdrop_love
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