【不定期更新中】壊れた令嬢の騎士
蕪 リタ
プロローグ
「彼女は返してもらう」
あぁ、私はしあわせな夢でも見ているのだろうか。
いるはずのない彼が。
手をのばせば届く、目の前に。
霞んでいるせいで顔が見えないのは、やはり夢だからなのか。
でも。
それでも。
できるなら、このままで。
しあわせな夢から覚めないままで……。
◆
「エレナ・マンサナ。君のような『毒』をあつかう令嬢なんて、命がいくつあろうが危険だ。今日、この場で婚約を破棄させてもらう」
いつものように、殿下に朝のあいさつへ伺っただけだった。
いつものように冷えた瞳でねめつけられ、聞きたくもない理不尽なお説教と今日の仕事を押しつけられる。そうやって、今日という一日がはじまるはず――そう思っていたのに。
「……何か、問題がございますか」
「問題だと? 『毒をあつかう』のが問題だと言っただろうが」
「……毒ではございません。わたくしはただ殿下の、」
「言い訳を聞きたいのではない! いいな! 荷物をまとめ次第、すぐに出ていくんだ! 即刻、私の前から消えてくれ」
「……失礼いたします」
己を是とする殿下は、過ちがあったとしても言葉を取り消すことなどしない。そんな殿下の前を、従順なフリをして執務室から出た。手荒に追い出されたわけではないので、まだよかったのかもしれない。陛下のもとへ伺おうにも、謁見を申し入れてから受理されるまで滞在なんてきっと許されない。こうなっては、早く部屋へもどり出ていく準備をして即座に王城から出たほうがいいだろう。
まだ手を出されていない今のうちに。
そう思うと、足もいつの間にか急いでいることに気がついた。ああ、わたくし……やっぱり、ここが嫌いなのね。
殿下がわたくしのことを嫌っているのは、うすうす気がついていた。どうして、弟たちのように隣国の姫や侯爵家の令嬢が婚約者ではないのかと。たかが『伯爵家ごとき』に何ができるのかと。
殿下は……なぜわたくしが婚約者にさせられたのか、もうお忘れになっているのでしょうね。
きっと、彼の言う『伯爵家ごとき』に王家が何をさせていたのかも、お忘れなんでしょうね。
彼のことは、わたくしとて初めから好いておりませんでしたし。ともに過ごしていましたが、婚約者らしくあつかってももらえない方への『情』も欠片すらめばえませんでした。
だから、彼がこの後どうなろうとわたくしの知ったことではないのです。
わたくしは、わたくしを愛してくれる方たちのもとへ。
やっと。ようやっと帰れるのです。
帰れるうれしさから淑女の仮面がはがれてしまい、そんなことが表情からもれていたのかもしれません。
階段にさしかかった時、ドンッと背中へ強い衝撃が加わったのです。
足が宙をふみ、体が傾いたときに見えたのは――わたくしを一方的に恨んでいる公爵家のご令嬢と寄りそってほほえむ殿下の顔でした。
ああ、今日は何事もなくおわると思ったのに……。
わたくしが……あなたへいったい何をしたというのでしょうか。
ただ王命で連れられてきて、あなたの婚約者として『薬』を作らされて。
『約束』した方とも離されたわたくしは……想うことすら許されなかったのに。
体はもう、衝撃を受けても何も感じないほどボロボロで。
踊り場まで落ちたわたくしの心は、触れるだけで崩れてしまう寸前だった。
かろうじて上がった
目の前は……霞んでしまい、人がいるのだろうということしか見えなかった。
ね え、 『あな た』 は、だ れ?
か み、さ ま?
か み さ 、な ら、おね が 、。
も 、わ た く しを じ ゆ 、に ……。
落ちた衝撃のせいか、もう耳もよく聞こえていなかったわたくしに届いたのは――あの日、手放すしかなかった大好きな声だった。
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