真夜中 人の世 穴の中
みくも
本編(全1話)
それは言う。
「アタシだってね、昔なら名の通った妖怪だったもんですよ」
「はぁ」
「それがどうです。今の人間ときたら! 妖怪の名前一つも知りゃしない」
「はぁ。ですねぇ」
「あれですね。アタシが思うに、デンキってやつがよろしくない。どこもかしこも明るくなって、なんです? 人っ子ひとりいないってのに、一晩中あの木の上でぴかーっとしてる白いのは」
「木? あぁ、街灯ですか」
「そうそう。ガイトウ、ガイトウ。あんなのがあるから、人間が夜を畏れない」
やりにくくってしょうがないですよ。
と、ぷりぷり憤慨する声をそこまで聞いて、俺は痛む足をさすりながらに「いやぁ」と半分笑って口をはさんだ。
「でも、そこの街灯はもうちょっと明るいほうがよくないですか? そうすれば、通行止めの看板も見えたし、道路にでっかい穴が開いてるのも見えたし、ついでに、穴の周りに張ってあるロープに足引っ掛けて中に落ちなくても済んだじゃないですか」
あぁ、それに。スマホ。
絶対に持っていたはずなのに、いつもなら無意識にでもポケットのどれかに突っ込んでいるはずなのに、なぜかどうしても見付からなかった。
穴に落ちた拍子に落としたのだろうか。
暗い中を手探りで探してみたものの、手に触れるのは穴の内側にむき出したごつごつの土と空になった酒の缶と未開封の酒の缶が入ったコンビニの袋だけだ。
もっと街灯がいっぱいあれば。そうでなくてももっと明かりが強ければ。注意を呼びかける看板があれば。そもそもこんな所に穴なんか掘っていなければ。
ぺらぺらと思い付くまま不満をあげつらう俺に、声の主はやたらと静かな口調で言った。
「なんか書いてあった板なら多分、先にアタシが落ちる時に倒してますね」
「……そうでしたか」
恐らく俺に罪はないのだが、なんとなく気まずい沈黙がおりた。
その一方で、では、と思う。
では俺が通り掛かった時には、もう注意書きの看板は道路にはなかったってことか。
そして頭の片隅に、その看板が倒されていなければ俺は穴には落ちなかったのか? と、そんな思いがうっすら浮かび、しかしちゃんとした形になる前に散り散りに消えた。
だめだ。考えがなにもまとまらない。完全に居酒屋で飲んだジョッキビール二杯とそのあとコンビニで買い込んだアルコール強めのロング缶的ななにかが、全力で俺の思考力を奪いにきている。強敵すぎた。
そのせいで帰りの足取りが怪しかったのも、この状況の一因ではあるだろう。
穴に落ちるし、先に穴に落ちていた誰かに声を掛けられて困りましたねと話していると、なんの流れだったかは忘れたが相手は自分は妖怪だとか言い出した。
向こうも相当酔っているのだとは思うが、もう訳が解らない。
ちょっと酒控えよ。と、俺が自分の思考に沈み岩より堅く禁酒の決意をぼんやりした頭でどこまでもぼんやり固めていると、すぐに手の届きそうな場所から、それとも果てしなく遠い所から響くような声がした。
「――お若いの」
それは言う。
「どうかなすったかね?」
なにも見えない暗闇で、まるで闇そのものが語り掛けるみたいに。
なにも見えないと言うことが、日の光の届かない夜が、ひやりとするほど恐ろしい。
自分の頭で、本当に、そう理解したのはこの瞬間だ。
道路の上の街灯は暗い。
いや、道を照らしてはいるけれど、穴の中までは届かない。それに人を二人も余裕で飲み込むこの穴は、少しせまい横道にあった。
なんのために掘られた穴かは知らないが、今、とにかくこの中はまるで墨を流し込んだみたいに真っ黒くなにも見えない闇だった。
どくどくと血が逆流するみたいに動揺し、あれ? と思う。
やっと思った。
自分が今まで話していたのは誰だったのかと、不思議に思って心臓が冷えた。
妖怪だと言った。
まさか。
でも誰かは解らない。そもそも名前も知らない人間だろう。
それはなんだか恐ろしかった。
今さらに気付いた。誰とも知れない見知らぬ誰かと、暗い場所に閉じ込められている。実際は穴でも、出られないことに変わりない。
あぁ、と思う。
あぁ、心の底から光が欲しい。
確かに、電気は素晴らしい。夜だって明るく照らし出す。
明かりがあれば。相手の姿が少しでも見えれば。胸の奥からわき起こる恐ろしい気持ちが少しは薄れてくれるかも知れない。
「あ、スマホ」
そうだ、スマホだ。
スマホでライトを点ければいい。
スマホで助けを呼べばいいんだ。
その素晴らしいひらめきに俺は自分の服をまさぐるが、この動作にはすでに身に覚えがあった。そうだった。穴に落ちた直後にもさんざん探して結局見付からないままだった。
俺は絶望した。
アルコールに負けた人間はすぐに絶望してしまう。
スマホはどっかに行ったままだし、スマホがないと言うことも、すでに探したあとだってことすら、秒で忘れて同じくだりをくり返している。
もうだめだと思った。
俺はもうこのまま、一生この穴で妖怪を自称する何者かにどうでもいい話を聞かされて終わるのだ。
ひどい。俺はそんな目にあうほどなにか悪いことをしたのか。とりあえず会社の後輩をつかまえて昨日の味噌汁に入ってた貝に小さいカニが同居してたみたいなどうでもいい話で休憩時間を浪費させるのはもうやめようと思う。
だが、そんな反省をしても遅いのだ。
俺にできるのはもう、コンビニで酒と一緒に買った魚のタラのなにかをどうにかして紙っぽくした謎のシートでチーズをはさんだ細長いあれを「あ、よかったらどっすか?」と、自称妖怪の誰かに向けて極めてさり気なく差し出してできる限りの友好的な関係を築くことくらいだ。
そうして、どれくらい経った頃だろう。
俺には永遠に思えたが、まるで初めて食べたみたいに酒のつまみを気に入って「お若いの、これ、うまいね」と言う先方に、俺が「よかったっす」とゴマを擦っていた時なのでもしかするとそんなには経っていなかったかも知れない。
まるで光の矢のようだった。
少なくとも俺にはそう思われた。
突然パッと光が差して、「あっ!」と切羽詰まった声がした。
自転車だった。
俺がそれを自転車だったと理解したのはもう少しあとになってからだが、俺達のいる穴にそこそこのスピード感で走る自転車が飛び込んできたのだ。
なんと言うことだろう。
一晩で三人も落ちてくるなんて、この穴は万有引力にでも呪われているのか。
と思ったが、よく考えたら地球上にいる限り大体の場所には引力があるのでただの酔っ払いの寝言でしかなかった。
とにかく、俺は落ちてくる自転車と自転車から放り出された人間をまるでスローモーションのように見た。
前輪から深い穴に突っ込んで、つんのめるように回転する自転車。同じく空中で一回転している人間は、背中にイーツ的な宅配の大きな箱をくっ付けていた。
こんな時間まで仕事とは。
思わず本能的な同情が胸を占めそうになったが、その思いはすぐに消し飛んでしまう。
ゆっくりと、あくまでも俺の感覚の中でだが。
回転しながら落ちる自転車の、小さなライトがしかし強く辺りを照らす。丸く風景を切り取るような、光の輪っかが自転車の回転にしたがって穴の中をぐるりと巡り、土くれを。俺を。穴の外の道沿いの壁を。そして俺より先に穴に落ち、俺に向かって妖怪と名乗った声の主を次々に浮かび上がらせた。
間にはさんだチーズからタラのシートをぴーっとはがす真っ最中に目が合った、あの「あっ……」と言う顔を俺はきっと忘れない。
それは嘘をついていた。
けれども嘘に本当をまぜていた。
それは妖怪ではなかった。
けれども人間でもなかった。
俺は叫んだ。
「タヌキじゃねーか!」
思わず腹から声が出てしまった。
いや、妖怪って言ってたから……。妖怪じゃないなって。
それが先にきてしまい、つい嘘じゃねーかのニュアンスで責めるように叫んでしまった。反省している。
そこじゃねえわ。タヌキめっちゃしゃべるじゃん。このおどろきを、俺はもっと大事にするべきだった。
そのタヌキはタヌキでありながら、俺の大声におどろいたのか表情豊かに泣きべそをかいた。
そして「昔の人間はもっと素直にびっくりしてくれた! って、きんたまのじじいが言ってた!」と気になりすぎる捨てゼリフを吐き、キンタマのジジイ? キンタマのジジイてなに? と、絶対にそんな場合ではないのについそわっとしてしまう俺の体と頭を踏み台に、うまいこと穴から脱出して行った。
タヌキの口にはしっかりと、つまみの袋がくわえられていたのを俺は見た。
俺も、少しの間はぼう然とタヌキの消えたほうを見上げていたのだが、酔ってたし、今しがた穴に落ちてきた配達員が気絶したままうんうんうなって恐かったので急いでそいつのスマホを探して助けを呼んだ。
救急車と消防車までやってきて、特殊車両の回転灯が赤い光をぐるぐる辺りにまき散らすのを見ていると、なんだか風船がぱちんと弾けたみたいな。夢から覚めたみたいな気持ちになった。
ならば、今のは夢だったのか。
病院に運ばれながらにぼんやり思い、ほっとして、診察を受けたあとは普通に帰った。
不思議な体験はもう遠く、日常の中で褪せて行く。
タヌキ、もうちょっと優しくしてやればよかったな。と言うのはあとになったから思うことだし、俺は結構優しかったはずだ。おつまみを差し出したのは自称妖怪にびびり散らかしたからだが。
タヌキが妖怪を自称した理由は解らない。でも、あちらもアルコールでべろべろの人間は落ちてきて、まあまあ恐がっていたのかも知れない。それは本当に反省したい。
あと、懸案のスマホについてだが、あとになり酒の空き缶にまざってコンビニのビニール袋から出てきた。
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真夜中 人の世 穴の中 みくも @mikumo_n
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