第2話

 メアリー・スネイプは駆け出しの役者。


 裏方に回りつつ、たまに名前のない端役などを演じてきた。

 そんな彼女が、ほんの四ヶ月前に急逝した劇作家、ジェームズ・カルマの遺作『真綿がやがて首を落とすまで』にて、主役である王に付き従う侍女・ロザリー役として出演することとなった。

 ロザリーは常に王の傍に無言で控え、感情を押し殺し、その小柄な身体を更に縮こませてきた女。

 始まりから終盤まで舞台上にいるものの、台詞はほとんどなく、王の手で直接処刑される寸前にしか用意されていない。

 毎公演、彼女は全力でロザリーを演じてきた。

 これが初めての役だから、というより──これが最後の役になるだろうから。


 彼女にはもう、役者を続けていくだけの理由はない。


 二ヶ月も続いた公演も、間もなく、千秋楽を迎える。

 全てが終わった後にどうするべきか、彼女はずっと迷っていた。

 家に帰るべきか、よそへ逃げるべきか。

 それとも……。


◆◆◆


 夜公演の幕は下り、外へと出てきた客達は劇場前の大通りに集まると、口々に舞台の感想を言い合っている。

 劇場前には他にも、静かに役者の出待ちをしたい者、ただ道を通りたいだけの通行人等もいて、かなりごった返している中──メアリーはどうにか人波をかき分け、目的地に向かっていた。

 手には赤い包装紙でラッピングされた、白薔薇が一本。唯一のファンから贈られた、彼女の好きな花。

 公演のある日は必ず白薔薇を届けてくれる熱烈なファンで、けれどメアリーは未だその姿を見たことはない。

 話を聞くにかなり忙しい人物らしく、あまり劇場に来られず、たまに観劇できても幕が下りると同時に帰り、白薔薇はいつも劇場スタッフによって渡される。来たかどうか分かるのは、スタッフの伝言によってだ。

『席に座って観られる日を楽しみにしています』

『最高の芝居でした』

 嬉しくない、わけではないけれど、あまり興味は湧かない。

 顔も知らない唯一のファンより、彼女の心を占める人物がいるから。


 メアリーが向かっている先も、そんな人物に縁のある場所。


 進んでいくと同時に人気がなくなっていく道。初夏の生温い風が、彼女の肩まである深紅の巻き髪を、それに肌を撫で上げ去っていく。

 ──あの方の手は、冷たかったか、温かかったか。

 風に問うても答えは返ってこず、その手の感触も上手く思い出せない。

 俯きがちに足を動かし続けて──ふいに止めた。

 目的地に着いたのだ。

「……」

 無言でメアリーが見つめる先、そこにあるのは街の端に流れる川と、その欄干に添えられた数多の花束に、手紙と書籍。

 四ヶ月前、この場所で亡くなった者への手向けの品々。

 どこか虚ろな瞳でしばらく見つめた後、メアリーは欄干に近寄り、手に持っていた白薔薇を置いた。自分の好きな花ではあるが、ここで亡くなった者の方がこの花を愛していたから。

 瞼を閉じると思い出す。白薔薇に顔を寄せ、幸せそうに匂いを楽しむ人を。

「……」

 しばし過去に浸り、すぐに現実へと戻ったメアリー。

 彼女の開かれた目は、真っ先に供えられた書籍の著者名を映し、彼女は再び瞼を閉じたくなった。

 ──ジェームズ・カルマ。

 高名なる劇作家にして、四ヶ月前、この場所から川に落ちて亡くなったとされる男。

 発見場所は違う所だが、彼が愛用していた靴の片方が落ちていたことから、この場所がそうなのではと言われている。

 事故だったのか、自殺だったのか。

 ほとんどの人間は真実を知らないが、メアリーだけは知っている。


 ジェームズ・カルマはメアリーの目の前で、川に飛び込んだのだから。


「……っ」

 手向けの品々を踏まないよう気を付けながら欄干の方へ身を寄せ、汚れも気にせず手を置き、下を見つめる。

 濁った川は夜闇も相俟って、底を彼女に見せはしない。

 それでも彼女は、身を乗り出し、意味もなく手を伸ばす。

 あの日の再現か、それとも──。


「──ミス・スネイプ」


 ふいに後ろから声を掛けられ、音もなく彼女の肩は跳ねた。

 聴いたこともない男の声だ。

 その声が、自分の名前を呼んだ。周囲に彼女以外の人はおらず、近付いてくる足音もなかったというのに。

 一瞬、幻聴かとメアリーは考えたが、

「君まで落ちてしまっては、お父上が悲しむんじゃないだろうか。今一度、冷静になるといい」

 声は彼女を説得する為の言葉を紡いでいく。

「どちら様ですか?」

 伸ばした手を引っ込めながら、乗り出していた身体を引き戻していき、後ろを振り返る。

 癖のない、見事な金色の長い髪を一つに纏めた、汚れ一つない紺色の燕尾服を着た若い男。

 メアリーの知らない男だ。

「……初めまして、ミス・スネイプ。こうして君と会話ができるなんて、奇跡に感謝しないといけない」

 口は笑みの形を作っているのに、何故か男の紅の双眸は、悲しみの色を宿している。

 返事もせずにじっと見つめていれば、彼は視線をメアリーとは別の所に向けた。

 逸らしたわけではない。

「花屋の軒先で、立ち止まって白薔薇を見つめる君をよく見掛けたものだから、好きなのだと思って毎度贈らせてもらったが……君のではなかったようだ」

「……っ」

 男の言葉を耳にして、メアリーも彼の視線の先を追う。

 今さっき彼女が置いた、一輪の白薔薇。

 彼女の唯一のファンから贈られたもの。

「──ルース・ヴィリアーズ、さん?」

 視線を彼に戻し、震えた声で紡いだのは、スタッフから聞いたファンの名前。

 名を呼ばれた男は、瞳に悲しみを宿したまま、メアリーを見つめ微笑んだ。

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