第22話 さくらの決意

その頃、信忠は松姫が待つ予定の寺に供を従え到着。さくらもまた、寺に着いたばかりであった。人目を避けるため、闇夜に溶け込むような色合いの輿を信忠は用意し、躑躅ヶ崎館に送らせた。刃向かう者があれば斬り捨てる心構えであった。向かわせた輿の中からさくらが姿を見せると、当初、寺へは来ない予定をしていた信房は驚いた。

「姫様、お待ちしておりました」

信房が声を掛け、顔を上げると、信房と面識のあるさくらは仰天の眼差しで信房を見た。

「こっこれは」

声が震え、言葉がでない。

「松姫様で、ござりますな」

これには何か事情があり、そこに松姫が関わっているだろうと察した信房は、咄嗟の判断で、さくらを松姫と呼んだ。固くなったさくらはこくりと頷き、信房に手を持たれ輿から下りると、すらすらと慣れた足取りで、廊下を滑る様に歩いた。

ー信房殿は、どうなさるおつもりだろうかー

信忠を待つ間、さくらはその事ばかり考えていた。まさか信房がこの場にいるとは思ってもみなかった。米を取りに行かせた侍女は信房の顔を知らない。ただ、織田家の者らしき男がいたと言い、会話の内容をさくらに伝えただけだ。

武田が劣勢となり、次第に兵糧も底をつき、どうしたものかと思っていたが、松姫に頼ることも憚られ、悩んだ末に、泥棒の様な事をしてしまった。恥ずかしさと悔しさで涙が出た。自分はなんとか我慢は出来たが、年端のいかない侍女たちを飢えさせる訳にはいかなかった。信忠との密会を遂げられたら、身内のある侍女は実家へ返そうと決めていた。ほどなくして部屋の廊下に足音が響いた。ひとり、ふたりだろうか。部屋の前で止まった。

ー信房が真実を告げていたら、わたしは信忠様に殺されるー

それも本望だと諦めていた。ただ、寺へ付き添ったふたりの侍女の安否が気になる。深く平伏していると、襖が開かれた。胸の鼓動が高鳴った。

「お待たせした」

信忠はそう言うと、上座に座り胡坐を組んだ。

「お顔を上げなさい」

「はい」

さくらがゆっくりと顔を上げると、鎧下姿の信忠が目の前に座っていた。はっきりと顔を見るのははじめてだった。肖像画よりも凛々しく大人に見えたのは、年を重ねたせいだけではなく、鎧下という武装姿だったからだろう。引立烏帽子が精悍さをより演出していた。

「すまぬ、なにせ戦の最中ゆえ、この様な恰好で」

「構いませぬ。こうした時間をお作り頂いたことに感謝いたします」

さくらは再び、頭を下げ、そして姿勢を戻した。桃色の小袖を纏ったさくらは、薄く紅を引いていた。六畳ほどの座敷の蝋燭が、開け放たれた広縁から吹く風に揺れ、薄暗い部屋のさくらを、なまめかしく映した。

「良くぞ参られた」

その言葉を聞くと、堰を切ったようにさくらは泣き出した。ずっと恋い焦がれて来た人物からの言葉が嬉しくて、心が弾けるようだった。

「どうなされた」

信忠は動揺して見えた。当然のことだった。目の前の女は松姫ではなく、勝頼の側室なのだから。

「申し訳ございません。嬉しくて」

「某に会えた事がか?」

「はい、とても」

涙を拭い、信忠を見たさくらは仰天した。

「如何した」

「いいえ」

信忠の視線は明らかに冷ややかだった。

ー全てを知っておられるー

さくらは確信した。

「婚約を交わして随分と年月が経つが、こうして其方に会うことが叶うとは夢のようじゃ」

ーおかしい、信忠様は何を考えておられるのかー

それから信忠は、松姫と交わした文の内容を持ち出し、まるでさくらを試した。文のやり取りの際、さくらは常に松姫の隣で文章の内容を聞いていたので、その殆どを把握していたが、最近のやり取りに関しては認知していない。

「そうそう、この間の文に書かれていた、あの動物のことだが、未だ城に」

あの動物と聞かれても困った。動物好きの松姫は野良犬や猫、小鳥、虫や爬虫類に至るまで飼っていた歴史がある。いま城にいる動物と言われても思い当たらない。一昨日、松姫の館へ行った時に、動物はいなかった。

「どうされた、寒いのか?」

返答に困り、まごつくさくらを見ながら、信忠はそう聞いた。

「もう、良いのです」

嘘もここまで。さくらは覚悟を決めた。

「良い、とは?」

そう言った信忠の唇の端が、さくらを嘘つきだと罵って見えた。

さくらは、はっと小さな息を吐き、顔を仰向けて微笑んだ。

「知ってらっしゃるのでしょう」

信忠に視線を戻したさくらの表情は、ほんの数分前とは様変わりし、本来の荒々しい気性が姿を表した。

「知っているとは……」

信忠は何かの思い出を探る様に、視線を右上に上げ、

「生きた毛虫を箱の中に入れて集めていたら、それを小手とかいう侍女が知らずに開けて、城中が大騒ぎになったことかな」

「それは」

「ん?」

さくらはふくれっ面になった。

「それは、わたくしのことで御座います」

「其方のこと?」

「随分と前のことでございます。小手が嫌味ばかり言って腹正しいので、小手の嫌いな毛虫を小豆の箱に集め、小手がそれを開けるのを楽しみに見ていたら、小手は箱には小豆が入っているもののと信じ込み、中を確かめもせず、松姫様の台所に運んでしまい、そこで箱を開けたのですから大騒ぎにもなりますわ。それからは犯人捜しで大変でした」

そこまで言い終わると、さくらは両手で自分の口を覆った。冷たい夜気が部屋を凍らせた。

「ふふふふ」

さくらは諦めたように笑い出した。

「なぜ笑う」

「松姫様の台所と、わたくし」

「うん、そう聞こえた」

「もう正直に申し上げますが、わたくしは松姫様ではございません」

「左様で」

「殿、わたくしに見覚えはござりませぬか」

「それは、敵方の大将の妾を愛でていた、間抜けな男を嘲笑っての発言か」

「その様なこと…」

涼やかなさくらの瞳に大粒の涙が浮かんだ。

「殿様を嘲笑うなど、微塵もございません」

「微笑みのあとは涙か」

腕組をした信忠は横を向いた。

「あの時!」

さくらは大きな声を出した。信忠が「ん」と振り向く。

「岐阜城下の神社で、母の形見の簪を拾って下さった」

「岐阜城下の神社?母の形見の簪」

「そうです、城下町にひっそりとある、あの神社の境内で」

「あーっ」

「思い出して下さったのですね。あの時のわたしです」

両手を胸に当て、半身を乗り出すさくらを、信忠は訝し気な表情で見ていた。

「ちょっと待て。あの神社は父上が建立したものゆえ記憶にあるが、其方のことは」

その言葉を聞いたさくらは、持ち上げていた尻をすとんと落とした。

「わたくしに簪を手渡し、微笑んで下さったではござりませぬか」

さくらは表情を強張らせた。

「いつの事だ」

「数年前」

「簪を手渡した以外に、何か某と交流でもあったのかな」

「いいえ」

さくらは鋭い視線を向けながら首を横にふった。

「特にはござりませぬが。しかしそれから暫くの間、共の侍と境内で談笑なさっている姿を拝見しておりました」

「それは新太郎と甚七郎のことであろう」

「そうです。新太郎殿と甚七郎殿で御座いました」

「ふたりを知っているのか」

「松姫様の文で…」

さくらは口角だけを上げ微笑んだが、目元は虚ろだった。

「なにゆえ、松姫と其方は入れ替わったのだ」

そう問われると、さくらは堰を切ったように話し出した。

「松姫様が、自分は醜女ゆえ、ご自分の肖像画を送るのは恥ずかしい、信忠様に嫌われて仕舞う、さくらに変わって欲しい。そう仰せになったから。正直なところ、その提案を聞いたわたくしは嬉しくて嬉しくて。もちろん、そういった感情は姫様の前では押し殺しておりましたが、肖像画を受け取った殿様はきっと、その絵の中のおなごは、神社で出会ったさくらであると、お気づきになると信じておりました。しかし気づいたところで松姫様は許嫁。わたくしへの想いを素直に述べることは憚られることでしょう。なのでわたくしはずっと待っていたのです。勝頼の妾になったのも、あれ以上、松姫様のお傍で仕えることが耐えられなかったから。松姫様は、朝から晩まで信忠様のことばかり。わたくしの方が先に信忠様と出会い、わたくしの肖像画で、信忠様が癒されているというのに、のんきなものです。そんな姫様にうんざりしてしまい。しかし出奔しても、わたくしは天涯孤独。どこにも行く先もなく、生きて行く術もなかったのです。姫様とは離れたい。しかしそれでは生きてゆけない」

「それで勝頼の元へ」

「お許し下さい!」

さくらは、何かに背中を押されたかのように平伏した。

「いや、許すも何も」

信忠はじりじりと後退りした。

「わたくしの身体は汚れてしまいましたが、心は純真のままでございます。お殿様どうか、わたくしを松姫として、岐阜のお城に置いて下さりませぬか」

「そう言われても」

「では」

さくらは立ち上がると、おもむろに帯を解きだした。

「待て、何をする。戦時中と申したであろう、その様なことは」

信忠は座った格好で片手を上げて、さくらの行動を制止した。

「戦の最中、だからなんなのですか。隣の部屋に夜具が敷かれているではありませんか?あれはどういう意味ですの」

「夜具?」

「ええ、ふたつ敷かれております」

立ち上がった信忠は駆けるようにして行くと、部屋を仕切る襖を開けた。見るとさくらの言った通り、夜具が二組敷かれていた。

「だれがこんなことを」

「殿様」

背中越しに声を掛けられた時、戦でも味わったことのない殺気を覚えた。

「わたくし、死のうと」

振り返ると、襟を大きく抜き、刃先を喉に突き刺す様にして、さくらがこちらをじっと見ていた。

「殿様はなにを勘違いされたのか、帯を緩めたのは、襟を抜くためでございます」

「襟を抜かずとも、咽喉は突けよう」

「武家の女の嗜みとして、死ぬ時には大きく襟を抜くと」

「それは斬首される際の作法では」

「はあ」

大きなため息をついたさくらは床にしゃがみ込み、小刀を持った手を投げ出した。帯は解け、肩から落ちた襟から、素肌が露出していた。


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