第23話 真っすぐな愛
「何でそんなに不機嫌なのですか」
馬を並走させ、信房が話し掛けた。人が歩くよりも少し早い速度で信忠と信房を乗せた馬は「歩いて」いた。
「なにゆえ夜具を二組敷いた?」
信忠はぶっきらぼうな声を出した。
「あれは、もしや松姫様と、と思い…まあ、実際に来たのは違ったので、お伝えした通りでして。それが何か?」
「いや、何でもない」
言いながら、信忠は弾けそうな白い肌をしていたさくらを思い出していた。その身を顧みず、自分を求めてくれたさくらを愛おしいとも思った。
しかし同時にさくらには、そこはかとない怖さがあった。関わっていはいけない人物のような。そもそも敵将の妾と関わるのは避けたい。信忠はさくらに触れることなく、彼女に帰城を促した。しかしその事を、いまは少しだけ後悔していた。新太郎がいたのなら、「はしたない」と怒るだろう。甚七郎なら「勿体ない」と笑うだろう。
「全くあのふたりは」
「なんですか?」
信房が、遠くから顔を覗き込む仕草をした。信忠は首をふり、
「いや、なんでもない」と苦笑いした。
しばらく行くと、建物の間から物音が聞こえ、ふたりは馬を止めた。
供の侍が数名、音のする方へ駆け寄る。
「何者?」
部下の声に信忠が眉をひそめた。
「なんだ」
「おんなが」
「おんな?」
「離せ!」と言い、その女は侍の手を振りほどいた。
「あっ!」
信房が声を上げ、目を大きく見開いた。
「ん、知り合いか?」
硬直する信房を無視し、信忠は女に話しかけた。
「そこの女、こんな夜に何をひとりで出歩いておる。死にたいのか」
地味な色の小袖が夜の闇に溶け込んで、女の白い喉と頬だけが、うっすらと浮かんで見えた。
「……いえ」
女はうつむいたままで答えた。
「敵方であっても悪いようにはしない。顔を上げよ」
女が顔を上げると、信忠は目をしばたたせ、そっと馬から降りた。
「松姫だな」
松姫は何も言わずにこくりとうなずいた。大きく気の強い目は、信忠をしっかりと見つめていた。
「お会いしたかった」
松姫の両手を包んだ信忠は、それを自分の顔に持ってゆき、人目も憚らず泣いた。
「夜は物騒なので」と信忠は松姫を馬の後ろに乗せ、先程の寺へ引き返した。さくらの輿がないことを確認し一安心したが、さすがに同じ座敷は憚られたので、10畳ほどの納戸に火鉢を用意させ、壁際にふたり並んで腰を下ろした。
「お恥ずかしいところをお見せして」
「いいえ、わたくしの方が号泣してしまい」
小さな火鉢の前のふたりは、身体を前後するだけで腕がふれ合う距離だった。蝋燭も部屋の隅に2本用意され、座敷を煌々と照らしている。
「寒くはありませんか」
信忠が聞くと、松姫は大きく首をふった。
「いいえ」
「私もです。ぜんぜん寒くありません。おかしいな、寒がりの方なのですが、緊張しているのかな」
時折、松姫の方を見て話すが、信忠は直ぐに前を向いてしまう。その横顔を松姫は嬉しそうに眺めた。
「わたくしもで御座います。寒がりではないのですが、きょうは特に冷える夜なのに、ちっとも寒くありません。やはり緊張しているのですね。こんなに息は白いのに」
ふーっと松姫が息を噴出すと、信忠も真似て白い息を噴出し、ふたりは顔を見合わせて笑った。
「たしかに緊張はありますが、松姫とははじめてお会いした気がしません」
「わたくしもです。ずっと以前からこしてお傍にいたような」
ふたりは見つめ合い、しかし直ぐに視線を膝に落とし、照れ笑いをした。
「10代に戻った気分です。女人を前にしてこれほど緊張するのは」
信忠はうつむいたままでそう言った。
「そう、そうですね」
他に恋愛経験のない松姫にとって、10代の時と、いまを比べる術がない。信忠にはそういう時期があったのだと、ほんの少し寂しくなった。その様子を信忠は察し、
「いやっ、特に深い意味はないのです。10代の頃は戦に出る時でも、後先を顧みずというか、無鉄砲というか」
「えっ?」
松姫は笑いを堪えながら信忠を見た。
「可笑しいですか?」
「いいえ」
そう言って両手で口を押さえてから、松姫はうなずいた。
「はい、可笑しいです」
「こう見えても真面目なのですよ、私は」
拗ねた真似事のように唇を尖らせ、信忠は言った。
「信忠殿は、想像以上に面白いお方」
「嫌味ですか?」
今度は目を細め、流し目を送った。
「嫌味などと」
顔色を変えた松姫は信忠に向くと、両手をついて頭を下げた。少し、青ざめた顔をしている。
「どっどうされた」
「遅くなりました。偽の肖像画を送ってしまったこと、どうお詫びして良いものか」
「そのことならもう」
信忠は松姫の肩に手を置いた。はじめて触れる松姫に、信忠は感動さえ覚えていた。
「さくらのことも、ご赦免下さり、お礼の申しようもございません」
さくらの事に関しては、ここに来る道中に信忠から聞いて知っていた。
「松姫、全ては過ぎたこと。これからのことを考えましょう」
顔を上げた松姫を見て、信忠ははっと息を飲んだ。美しさとはこういうことを言うのだと実感した。松姫は十人並みの顔立ちだ。しかし松姫の美しさは内面から表れていた。何事にも慎ましやかで、情が細やかである。城へ帰ることを進められたさくらが、しおれた様にうつむく様も、別の意味で美しかったが、どこか芝居がかり、信用が置けない。松姫という人物は、相手の心をやわらかくする何かを持っていた。信忠は人生ではじめて、魂の美しさを知った。
「これからのこと」
「そうです。私と、姫様のこれからです」
松姫は再びうつむいてしまった。
ーまつ、姫ー
心が躍る様な言葉だった。ずっと待ち望んだ人が、敵方にもかかわらず、こうして会いに来てくれた。
「このまま私と一緒に岐阜へ帰りましょう。とは言っても、私には残された仕事が御座います。松姫は私に先立って岐阜へ行き、帰りを待っていてくれませぬか。正式な式はそれから執り行いましょう。盛大に」
「信忠殿」
低い声で名を呼ばれ、信忠は言葉を止めた。
「残りの仕事というのは、武田を殲滅することでございますね」
「…」
「誤解なさらないで下さい。信忠殿を責めているのではないのです。父信玄の跡を継いだ兄勝頼は、領民にも慕われない、自分本位のところがある男です。織田との戦で家臣を随分と失くし、それまで周りにいた者たちは掌を返した様に塵尻に。これも勝頼の失政と日々の行いのせいだと、自覚しております。なれど、家が滅するのもあと僅かというこの時に、わたくしだけ逃げ延び、織田に下る様な事があっては、末代までの笑いものになりましょう」
「織田に下る?」
「世間はきっとそう見るのです」
「世間など関係ないではないですか」
「ううん」
瞳を閉じた松姫はゆっくりと首をふった。
「これはわたくしの心の問題です。武家の女として筋道だけは通したい」
「ならば松姫、甲斐との戦が終わり、婚礼の準備が整えば、岐阜にいらして下さるのですね」
「喜んで参りますとも。幼い頃からずっと、貴方様が迎えに来て下さる日を待ち望んでいたのですから。ゆえにわたくしは躑躅ヶ崎館を離れなかったのです」
「松姫」
堰を切ったように泣き出した松姫の身体を、信忠は力一杯抱きしめた。
信房が松姫を城へ送り届けた時、既に夜が明けはじめていた。戦禍に落ちた町のそこらから灯影が漏れ、夜の名残を見た。
館へ入る松姫の背中に、信房が声をかけた。
「姫様、これを覚えてらっしゃいますか」
伸ばした腕の先、拳をゆっくり開いた。
「えー?」
そこにあったのは、信房が織田へ返還される日に、松姫が手渡した手作りの人形だった。ひと針、ひと針、丹念に縫い上げた武者人形は、戦の時に、信房の身代わりになってくれるようにとの松姫の想いが込められたものだ。
「持っていてくれたの?」
「勿論です。此度の武田」
言って、信房は言葉を止め、神妙な顔つきになった。その姿を見て、松姫は口に手をあててくすくすと笑った。
「いいのですよ。貴方は立派な織田の武者なのですから、なんの遠慮がいりましょう」
「松姫様」
「はい」
今生の別れを悟ったかのように、微笑を浮かべる信房が切なくて、松姫は堪え切れない悲しみを押し殺した。
「この戦が終わり、準備が整いましたら、殿と必ずお迎えに参りますゆえ」
「はい、承知しております」
「それまで、どうかご無事で」
「信房殿も、負けてはなりませぬよ。それと油断も禁物です。せっかく親元に戻れたのです。これからの人生を考え、命を大切にして下さい」
「まるで、このままお別れの様な言い方ですね」
「いいえ」
首をふった松姫の涙が左右に飛んだ。松姫は涙を片手で拭うと、小さな武者人形と共に信房の手を両手で挟んだ。
「信忠殿をお頼み申します」
これが信房との最期の会話となった。
3月11日、武田勝頼・信勝父子は自害した。
天目山の郷人たちが勝頼を裏切ったのだ。その数は、およそ6000余。大将の辻弥兵衛が先頭に立って、勝頼に攻撃を仕掛けた。一方、織田方の大将の滝川一益、河尻秀隆は5000余人の軍勢を率い、勝頼に攻めかかった。土地に詳しい郷人たちは、織田方の軍勢を案内したという。武田勢はまったくの無勢で、相手にならなかった。勝頼は嫡男の信勝に対し、武田氏に伝わる重宝の御旗・楯無を持って、奥州を目指して逃げるよう命じた。しかし信勝は従わなかった。
3月15日、勝頼らの首は飯田で晒され、その翌月に京都で獄門に掛けられた。
これにより清和源氏新羅三郎義光以来の名門・甲斐武田氏嫡流は滅亡した。勝頼は跡継ぎの信勝が元服を済ませていなかったことから、急いで陣中にあった『楯無』を着せて元服式を執り行い、その後父子とも自刃したという。
武田勝頼 享年37歳
武田信勝 享年16歳
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