第21話 守る

「不思議なことですね。あれだけ恋い焦がれた信忠殿が甲斐にいると言うのに、わたしたちは明らかに敵同士」

戦装束に身を包んだ松姫は、額のハチマキを指先で軽くなぞり、青白い顔をうつむけた。しばらくそうしていると、外で物音がしたので、松姫は飛び上がる様にして立ち上がり、壁に掛けていた槍を手に取り、音のする方へ進んだ。

この少し前、松姫の元に報せが届いていた。木曾義昌に敗北した勝頼が諏訪での反抗を放棄し逃亡。1000の兵と共に新府城に撤退したという。悲報はそれだけではなく、勝頼を追う信忠は高遠城陥落の翌日、本陣を諏訪に進め、武田氏の庇護下にあった諏訪大社を焼き払ったというものだ。子供の頃から親しんだ諏訪大社が焼失したと聞いて、松姫は信忠を恐ろしく感じた。

ーもう、おままごとは終わったのよー

戦禍はそこまで来ていた。甘ったれた恋愛にうつつを抜かしている場合ではない。松姫の覚悟は決まっていた。

「何者!」

自室の廊下を台所の方に進むと、勝手口がある。その辺りで音はした。勇気を振り絞って戸を開けた松姫の目に映ったのは、鎧下姿の信房であった。

「なっ、信房殿」

思いもかけない人物の登場に戸惑いながらも、松姫は声をひそめた。

「ひとり?」

「はい」

信房はうなずいたが、すぐに首を横に振った。

「いえ、堀の内側に数名の供がおります」

「良くここに入れたわね」

「姫様、もうこの城を護る兵はおりませぬ」

「どういうこと?」

松姫はぐっと息を飲みこんだ。

「武田方の兵の相当数が討死し、更に勝頼様の逃亡を聞き、逃げ出す者も」

「そっそうでしたか、それで容易に忍び込めたという訳なのね」

「それでも多少の兵はおりますが…」

「良いのですよ。気を遣わないで。全く、この様に武装している自分が恥ずかしくなります」

真冬の夜風は冷たく厳しい。開け放たれた扉の向こうから吹き付ける風を遮るために、松姫は信房を部屋へ入れた。

「それで、何か用があったのでしょう」

外したハチマキを膝横に置き、松姫は聞いた。

「これを」

信房が着物から取り出したのは信忠からの文であった。松姫は畳の上に置かれた文を見つめながら、薄っすらと微笑んだ。

「内容を知っているのでしょう?」

「はい…」

消え入るような声で信房は答え、大きく深呼吸をした。

「姫様にお目に掛かりたいとのこと」

「うふふふ」

松姫は口に手を当て、斜を向いて笑った。

「その様なことが、叶う訳ない」

「姫様」

信房は、片手を床に付き、膝を寄せた。その時、勝手口の戸が風で開き、大きな音を立てた。同時に部屋の蝋燭の火も消えてしまった。

「風。建付けが悪くて、強い風が吹くと開いてしまうのです。直す者も不在で。散々でしょう、いまの武田」

真っ暗になった部屋の中で松姫は立ち上がり、勝手口に向かった。

「私が」

松姫の後を追う様に立ち上がった信房は先に勝手口にゆき、工具を借りて建付けの悪くなった箇所を修復した。

「またすぐに壊れてしまうかも知れませぬが」

「いいえ助かりますわ、あの壊れた扉が、ずっと開いたり閉じたり、うるさいのよ。そう、もうひと月もあの様な感じで」

「姫様」

勝手口の土間に膝をついて、信房は松姫を見上げた。

「その様な恰好はやめて下さい。貴方は織田家の武士なのですよ。武田にかしづく必要などないのです」

松姫はその場に正座し、信房をやさしい口調で諫めた。

「姫様…」

「わかりました。信忠殿との密会の件ですね。考えておきましょう」

このままでは信忠に報告がしづらいだろうと考え、松姫はそう告げたのだ。しかし信房の表情は曇ったままだった。

「いえ、実は、姫様にお話ししなければならないことが、もうひとつ御座いまして」

信房はそういうと、下唇を噛み締めた。


3月、勝頼は新府城を放棄し、郡内の小山田信茂を頼り逃れる。この時、多くの武士の妻子が取り残されたまま新府城に火が放たれた。『甲陽軍鑑』に拠れば、勝頼嫡男の信勝は新府城における籠城を主張したが、これに対し信濃の国衆・真田昌幸が上野岩櫃城へ逃れることを提案。しかし勝頼側近の長坂光堅が信茂の岩殿城へ逃れるべきと主張したという。


この頃、松姫は、甲府入りした信忠へ会いに行く事を決意した。

あの夜の信房の話しの内容は、肖像画の人物が松姫本人ではなく勝頼の側室だと言う事実を信忠に話したということであった。松姫は怒らなかった。全ての原因は自分にあると、落ち込む信房を慰めた。その全てを承知の上で、今回、信忠に会う決心をしたのには違う目的もあった。いまや勝頼は逃亡に近い状態だ。数日前、信忠は一条蔵人の私宅に陣を構え、勝頼の一門・親類、重臣を探捜索している。捕縛されれば女、子供問わず殺されるであろう。できれば妻女の命だけは助けたい。武田家の殲滅を目論む織田家の野望に立ち向かうのだから、自らが犠牲になる覚悟は出来ていた。躑躅ヶ崎館と、信忠の陣所の、ちょうど真ん中辺りに位置する寺が信忠との密会の場所だった。偽りの肖像画を送り、自分を翻弄した事実を、信忠本人は知っている。

ー信忠殿は、わたくしをお許しにならないー

この度の面会がどの様な意味を持つか容易に想像できた。武田家の子女の助命は、きっと叶わないだろう。しかし武田は人質であった信房を元服させ、無事に返還している。ならば織田も少しの温情を示してくれるかも知れない。そう淡い期待も寄せていた。しかし密会日当日、武田の重臣、親類を探し出した信忠は、これを全て処刑してしまっていたのだった。松姫の願いなど、既に無意味なのだ。


密会は日没後の午後6時。居室にある仏壇の前に座った松姫は、亡き母の位牌をじっと見つめていた。寺の鐘が鳴った。

「いまごろきっと」

松姫はぽつりとつぶやいた。

昨日のことである。松姫の前に突如としてさくらが姿を見せた。

勝頼の側室として行動を共にしているとばかり思っていた松姫は、突然のさくらの来訪に困惑した。

「何事?」

無碍に扱う気はなかったが、言葉が自然と冷たくなるのが自分でもわかる。

「此度は、お願いの儀があり参りました」

さくらはそう言うと、松姫の許可も得ず、居間に入り込んで、松姫の前にひれ伏した。

「どうしたのです?」

「姫様、過去のわたくしの暴言を、どうかお許し下さい」

文字通り、額を床に擦りつけている。

「あの夜はどうかしておりました。しかし決して本心ではございません」

「もう良い。過ぎたこと」

「許して下さるのですね。ありがたきしあわせ」

さくらは泣き顔を上げ、松姫を見てこう言った。

「すっかりお痩せになり、顔色も優れませぬが」

「家が滅亡しようとしている時、心を煩わせるのは当然のこと」

見ると、さくらは血色も良く、美貌にも磨きがかかっていた。

「わたくしも同じ気持ちでございます。勝頼様のことを考えると、日夜、心配で、心配で」

そう言って涙を拭う仕草をしたが、先程の涙はとっくに枯れていた。松姫は呆れたように斜を向いた。

「ささ、もう平伏などしなくて良い。何か用事があって参ったのでしょう」

「そうなのでございます。実は、此度は姫様にどうしてもお聞き入れいただきたい儀が御座いまして」

「ん」

松姫は眉をひそめ、小首をかしげ、さくらを見た。

「この様なことを申すと誤解をされそうですが」

「良いから申せ」

「わたくしの侍女が密かに聞いてしまったのです」

「なにを?」

「その、姫様が信忠様にお会いになられるご予定だと」

「なにゆえ」

片手で胸元を押さえた松姫の背中が大きく息を吸い込んだ。

「侍女は決して盗み聞きをした訳ではございません。たまたま用事があり」

「たまたまの用事?この館へ、どの様な用事があるというのだ」

「それは」

さくらはうつむいた。

「米を、米を貰いに台所へ。お恥ずかしい話しですが、米が尽きてしまいまして、それで」

「わたくしの台所へ盗みに入ったと」

「面目も御座いません」

頭を下げるさくらを、松姫ははじめて不憫だと思った。これまでどれ程の身分の違いがあろうとも、さくらを不憫だと感じたことは一度もない。

「良い。勝手に屋敷に立ち入ったことは許す。それも、城中の者がどれほど疲弊しているのか、把握していなかったわたくしの責任である。そう備蓄は多くないが、米と味噌と塩の配給をするゆえ、安心しなさい」

「助かります」

「しかし此度の其方の頼みとやらは、それではないのですね」

前を向いたさくらは、しっかりと松姫に視線を合わせた。この様に瞳の奥の強い信念を、これまでも、何度か見たことがあると松姫は思った。

さくらは息を大きく吸い込んだ。

「姫様、わたくしの願いは信忠様との密会でござります」

「えっ」

「どうか、わたくしと入れ替わっては下さりませぬか」

「なっなんてこと。其方は武田勝頼の側室であるぞ。その立場で他の男と密会したいなどと」

「勝頼様とのことは、貧しく力もない女が生きて行く術。それだけのことです。最初から愛情の欠片もございません」

「術…と」

「姫様は知っておいでですか。勝頼様の本性を」

「…」

「新府城を放棄した勝頼様がとった行動を」

「いいえ」

「小山田信茂を頼り逃れた勝頼様は、新府城をお捨てになった。この時まだ、多くの武士の妻子が取り残されたままでしたのに、勝頼様は躊躇なく新府城に火を放ったのでございます。焼き殺したのです」

それを聞き、松姫は瞳を閉じ、首を垂れた。

「わたくしは、その様な男を愛せませぬ。元より愛してませんけど」

松姫は眉間を指先で押さえながら、前を向いた。

「兄、勝頼への気持ちはわかった。しかしそれと信忠殿と、どういう関係が」

「未だわからぬのですか」

そう言われ、いちど松姫は眉をしかめ、少ししてはっと愁眉を開いた。

「まさか、そなた」

「はい正解。そうで御座います。わたくしが恋い焦がれてきたのは織田信忠様で御座います」

「いつから…」

「お気づきにならなかったのですね。うら若き少女の頃、岐阜に、お遣いに出されました。帰国してからのわたくしの変化に」

「好きな男がいるのは、薄々感じていたが、それが信忠殿とは」

「信忠様にお会いした事があるのです」

「いつ」

「その時ですよ、岐阜で。わたくしはその時の事を鮮明に覚えております。きっと信忠様も同じお気持ちかと」

「面識があったなんて、初耳」

「とても言えない。そんなこと、わたくしも信忠様も言える訳がないのです。しかしふたりの気持ちは通じあっている。だからこそ、信忠様はわたくしの肖像画を素直に受け入れてくれたのです。そうして此度は、肖像画の中のわたくしに会いたいと願っておられる。おわかりになられましたか、松姫様は存在しないのです」

後半、さくらの言葉がぼやけて聞こえない。信忠とさくらに、そんな関係性があったとは。もう何が真実なのか、わからなくなっていた。

さくらはこう付け加えた。

「信忠様を思う気持ちは誰もにも負けない」と。松姫は冷ややかな目つきで、信忠への愛を訴えるさくらを見ていた。まるでひとり舞台でも見ている様だった。普段はそうではなのに、語っているうちに身振り手振りが激しくなる。次第に、信忠への愛から、松姫への嫉妬へと話題は変わって行った。その内容は、いかに松姫が恵まれているかに終始していた。そして自分を不幸な娘だと嘆いた。松姫は、そんなさくらを憐れんだ。とても惨めに見えたのだ。

さくらから、

「わたくしの姿を姫様だと偽って肖像画を送る助けをして差し上げたではないですか。恩は鶴でも猫でも返すものですよ」

その言葉を聞くまでもなく、さくらを行かせるのが筋ではないかと、気持ちは揺らいでいたのだが、恩返しの言葉を聞いた途端、松姫の中で何かが弾けた。さくらの言っていることが真実なら、岐阜で信忠とさくらが出会った時、さくら自身が甲斐の松姫だと、信忠に偽っていたのだろうか。だとしたら、事態はとてもややこしく。ただ信忠は、肖像画の人物が松姫本人ではない事実を、最近になり、信房から聞き知っている。密会当日、さくらと面識のある信房は不在と聞いた。さくらの思惑通り、自分を松姫だと偽り、信忠と会えば、どの様な展開になるのか。肖像画の人物は甲斐の姫を偽り、武田勝頼の妾となった女。信忠はさくらを許すだろうか。最悪、処罰されるのでは。松姫は最悪の事態を心のどこかで期待していたのかも知れない。そしてさくらと交代することを許した。

「なんて悍ましい考えなのでしょう。わたくしは、身も心も鬼になってしまったのでしょうか。いけない、こんなことをしては」

さくらを信忠の元へ送ったことを松姫はすぐに後悔した。さくらが、あの可愛かったさくらが変わってしまった要因のひとつは恋愛のもつれだ。それを利用し、さくらが処罰されることを願うとは、なんと恐ろしい。松姫は悔いた。

「行かないと」

一晩寝ずに悩んだ末、松姫は腰を上げた。軽く身体を流し、目立たない色の小袖を選ぶと、すっかり警備の薄くなった城を、女ひとりで飛び出した。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る