第3話 実の母の香を探して
その夜、奇妙丸はなかなか寝付けない様子だった。
床に入っても、何度も寝返りを打ち、時に夜具を顔に押し付けていた。そういしていると、珍しく信長が奇妙丸の様子を見に来た。既に寝入っていると思っていたのか、足音を忍ばせ、奇妙丸の寝所の襖を開けた。
「お、お屋形様」
部屋の隅で奇妙丸の様子を見守っていたさつきが、信長の訪問に動揺しながら平伏した。
父親の姿に気づいた奇妙丸は目をぎゅっと瞑り、寝ているふりをしている。
「奇妙は?」
「はい、いま…」
といい、さつきは奇妙丸を覗く仕草をした。
「良い、昼間のことがあり、興奮しているのだろう」
「…」
「あれに、会ったと」
「はい、わたくしの不用意で…」
「良いのだ。時期にわかる事なのだから」
信長は立ったままであった。幼い息子の寝姿をさつきの横で見つめていた。
「あの子が産まれた時に、あれから匂い袋を渡されたであろう」
「あれは…」
「ん、…?」
信長は目線だけをさつきに向けた。さつきはその視線を避けた。
「失くしてしまいました。どこかに行ってしまったのです。申し訳ございません」
「…であるか。ならば仕方がない」
唇の端に微かに笑みを浮かべ、信長は部屋を出て行った。
早朝、さつきが目覚めると、奇妙丸は既に着替えを済ませ、部屋中のあらゆる場所を物色していた。
「若君、何かお探しですか?」
三歳の奇妙丸が自分で着替えを済ませることは珍しい事ではなかった。朝の目覚めが良い方で、二歳を過ぎた頃から、自分で起き、用意された小袖を着て侍女が働きだすのを待っていた。
「思い出したのだ」
「何を、でございますか?」
「大切なもの」
「大切なもの?」
納戸の中にある長持を開け、中を覗き込む奇妙丸の後ろに座ったさつきは肩で深いため息をついた。
「ここにはない」
奇妙丸は立ち上がり、首を前に倒した。
「匂いがしないのだ」
「…」
「あの香り、懐かしい香りがした」
小さな身体を震わせているかと思ったら、奇妙丸はいきなり立ち上がり、「まあ、良い。良いことにしよう」と言った。これは奇妙丸の口癖である。彼は何かに熱中しすぎる傾向があり、思い通りに成らないことがあると癇癪を起す。しかしその直後に、この口癖を言って、己を戒めるのだ。
その日の昼過ぎ、早起きの奇妙丸が昼食後の昼寝をしていると、美しい布で仕立てられた匂い袋を手にしたさつきがやってきて、彼の枕元に置いた。
この匂い袋は、奇妙丸の産みの母が、せめてもの願いと信長に託したものだ。信長はそれをさつきに渡し、奇妙が寝入っている時間だけ、枕元に置く様にと申しつけた。いつだったか奇妙丸はそれを手にし、肌身離さず身に着ける様になった。さつきはそれを気にし、ある日、匂い袋を隠してしまったのだ。それは決して意地悪ではない。男児であり、織田家の世継ぎである若君が、香木を漂わせているのは良くないと考えたからだ。ただそれだけのことだった。しかしその匂い袋は、幼い奇妙丸が産みの母への想いを募らせる道しるべとなっていた。
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