第4話 躑躅ヶ崎館の姫

甲斐躑躅ヶ崎館

武田信玄の娘、松姫は、うららかな春の日差しを楽しむ様に、縁側に座り、太陽を向いて目を細めていた。

「暖かい。わたくしは寒いのは嫌い。漸く甲斐にも春が訪れてくれたのですね。ねえ、さくら」

「はい姫様。されどまだまだ風は冷とうございます。風邪など召されますと大変です。火鉢でもお持ち致しましょうか?」

「火鉢?火鉢などいらぬ。其方には風流という言葉がないのか。まあ仕方がない、町人の娘に、そのような雅を求めたわたくしが悪かった。さくら、謝る」

「またまた、その様な憎たらしいことを」

そう言って白湯を松姫に差し出したさくらは、笑顔を浮かべながら廊下の奥に引っ込んだ。

さくらは松姫が4歳の時に武田家に奉公に来た。両親は敵方の乱取りに遭って死に、その際、誘拐されそうになったさくらを武田方の武士が助け出し、同じ年の松姫の遊び相手として城に上がったのだ。

いまではさくらも7歳。裕福な家庭ではなかったが、一人娘のさくらは両親の愛情を独り占めして育った。その頃の思い出を小出しにし、目を閉じて眺めては、心の支えにしてきた。松姫との相性も極めてよく、互いに言いたい事を言える姉妹のような関係であった。

そんな中、この度、松姫の婚約の話しが浮上し、その相手が尾張の織田信長の嫡男だと知らされた。

「織田の殿様って」

さくらは台所の端にある狭い縁側に腰かけ、足をぶらぶらと揺らしていた。

殆どと言っていい程、城から出たことのないさくらにとって、尾張がどこにあるのかさえわからない。松姫が尾張とらやに嫁ぐということは、自分も一緒に行くことになるのだろうと、未知の土地への期待感に少しだけ、心が揺さぶらされていた。


その一年後のことである。織田の若君からの文が、松姫の元に届いた。

「さくら、さくら」

松姫は文を胸に当て、悩ましい表情を浮かべていた。さくらは姫に、

「ささ、早く文を開いたら良いではないですか。何を戸惑っておられるのです、さあ姫様早く、わたくしも中身を知りたい」

「うるさいのう、全く、お前にはわからぬ」

文を胸に押し付けた松姫はぷいっと横を向いた。

「そうですかあ、わたくしには、その様な経験がござりませぬゆえ、姫様の心情を察することは出来ませぬが、それゆえ、なぜ文を開けないのか、不思議なのでございます」

「何が書いてあるのか不安なのよ。もしかしたら、わたくしとの婚姻に不快感をお持ちなのか、心配なのじゃ」

「なにゆえ織田の若君様が、この婚姻を不快と思われるのですか」

「それは」

「それは?」

松姫は文を膝の上に置き、大きなため息をついた。

「いつの頃だろうか、気づいたことがあるのじゃ」

「気付いたこととは?」

「わたくしは、醜女だと」

「そっんな」

さくらは居間の中を見渡し、松姫に膝を近寄せた。

「だれがその様なことを」

「だれでもない。気づいたのだと申したではないか」

再び、大きなため息をついた姫は、上目遣いでさくらを見た。

「父上も母上も、乳母の米子も、わたくしを賢い子だとか、心根のやさしい子だとかは言ってくれるが、生まれてからこのかた一度も、可愛いと言われたことがない」

「そんなことございませんよ。松はいつもかわいいと、お屋形様も油川夫人(松姫の生母で信玄の側室)も仰せです。そう聞いております」

「それは、我が子という意味での可愛いであり、容姿ではない」

「またまた、それを歪んだ考えというのです。その様に思っているのは姫様だけです。わたくしは、姫様のこと、美しい方だと思います」

「それは誠か?」

松姫はうつむいた顔を上げ、さくらを見た。さくらは大きくうなずいて見せ、松姫の手を取った。ふたりは暫くそうして目を合わせていたが、松姫はその手を大きく振り払った。

「其方を見ていると、その言葉の真実味が薄れる」

「どういうことでしょうか?」

少々怒った様な顔で、さくらは松姫を見つめ返した。

「其方はいつも笑顔で、その笑顔が可愛くて、眩しい程じゃ。それに比べ、わたくしは」

「姫様、姫様は、大きくて美しい目をしてらっしゃいます」

それを聞いた松姫は、考え込む表情をした。さくらの言う通り、松姫はぶさいくではない。目も大きく、二重である。顔は少しばかりしもぶくれだが、ちょこんとした小さな鼻と、ふっくらとしたおちょぼ口。決して悪くはないのだ。しかしいかんせん、がたいが良い。8歳でありながら、身長は160センチ近くあり、骨組みが太い。それと対照的なのがさくらである。さくらは小柄で線が細く、どこか頼りない顔をしている。しかし元来の明るさと、嫌な顔ひとつせず働く姿は人々に好感を与え、さくらの周りには常に人で溢れていた。松姫も例外なくさくらが大好きだった。そこで松姫は思いついた。突然、顔を上げ、大きな笑顔を向けた。

「そうじゃ、そうじゃ。良いことを思いついたわ。そうじゃこれが良い。これが良い。なにゆえこれまで思いつかなかったのだろうか。誠に、わたくしとしたことが」

「はあ…」

掌に拳をあて、「閃いた」と喜んでいる松姫を、さくらは怪訝な表情で見つめていた。この後、とんでもない提案がされることも知らずに。

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