第14話

 降りしきる雨の中、傘を広げても何の意味もない。ほんの少し走っただけで、風にさらわれてどこかに飛んで行っちゃった。

 それでもわたしと瑞穂ちゃん、それに千代ちゃんを合わせた三人は、八幡神社を目指してひたすら走った。


「……お前ら、どうして」


 びしょ濡れで現れたわたしたちに、准君は目を丸くした。

 瑞穂さんもまた、神主さんみたいな袴姿の准君を初めて見たのか、驚いたようだった。


「准君、相談に乗って欲しいの」

「この雨の中、一体何を考えているんだ。避難警報が出ている事だって知ってるだろう。二人揃って、一体何を……」

「まぁまぁ准、待ちなさい。まずは中に入れてあげるがよい。話はそれからだ」


 准君は険しい表情だったけれど、宮司さんに言われると素直に従った。

 貸してくれたバスタオルでびしょ濡れの身体を拭きながら、わたしは准君に言った。


「水神様の怒りを、静めて欲しいの」

「水神の? まさかこの雨は、お前たちの仕業か」


 眉根を寄せる准君に、経緯を説明する。雅紀君や里花ちゃん、郷介君と釣りに行った事。現れた信夫君がやった事。沢山の魚が浮いて来た事――。

 准君の眉間にどんどん皺が寄っていく。


「馬鹿め。自業自得だ。天罰そのものじゃないか。構ってられない」


 話を聞き終えた准君は、不快そうに袴をひるがえして立ち上がった。


「それは毒もみとか毒流し、雨流しと言って、一般的にも禁忌きんきとされた漁法じゃないか。そんな罰当たりを今の時代にやる事自体が信じられない! やったのも罪なら、黙って見ていたのも同罪だ! 黙って天の裁きを受けるがいい!」


 普段は滅多に口を開くことすらない准君の剣幕にわたしたちは言葉を失った。


「これこれ、そう意固地になるでない」


 見るに見かねてか、宮司さんが口を挟んだ。


「この通り、この子達も反省しているだろう。ましてや、やった当人は言うまでもあるまい。助けになってやるが良い」

「でも……」

「友達は大事にしなさい。情けは人のためならず、じゃよ」」


 黙り込む准君。


「お願い、准君。もう二度とやらないって、やらせないって誓うから。今回は助けて。ね? 瑞穂さんもお願いして」


 わたしは准君に懇願こんがんし、隣に居る瑞穂さんにも目で指し示した。

 瑞穂さんは戸惑いの表情を浮かべる。


「……どういう事? 准君がどうにかしてくれるって言うの?」

「僕にどうこうできる問題じゃない。僕ができるのは、お前らの代わりに祈ることぐらいだ。通じるか通じないかはお前たちの心がけ次第だよ」

「そんな……心がけって言われても……」

「まあ、いずれにせよ雨が止んで欲しいのは変わらんじゃろう。指をくわえて見守るより、やれる事は全てやろうと思わんかね? お前さんたちの想いを、准が水神に届くよう祈る。お前さんは隣で水神に誠心誠意謝ればいい。お前さんたちは友達だろう。助けたいのも友達なら、友達を信じて、任せてみようとは思わんかね」

「友達……」


 瑞穂さんは准君の顔を見、次にわたしの顔を見て――目を伏せた。うなずいたように見えなくもなかった。


「准」

「はい」


 准君は返事をして、祭壇の前へと進み出た。

 二度、丁寧に頭を下げた後、手をパン、パンと二回打つ。そしてもう一回、深々とお辞儀。

 二礼二拍手一礼だ。

 その昔、初詣に行った時にお父さんに教わった覚えがある。

 准君は一呼吸置いて祭壇に進み、中央に置かれた白いひらひらの付いた棒を掴んだ。


「頭を伏せなさい」


 宮司さんの声に促されて、わたしたちは頭を下げる。


「たかあまはらにかむづまりますすめらがむつかむろぎかむろみのみこともちてやほよろづのかみたちを……かむつどへにつどへたまひ……」


 おもむろに発せられる、呪文のような准君の言葉。

 よどみなくすらすらと、歌うように滑らかにつむがれていく。

 准君は本当に、神主さんなんだ。

 我慢できずに恐る恐る様子を伺うと、真剣な表情で呪文を唱える准君の表情が目に入った。

 わたしは心の中で水神様へのお詫びを繰り返しつつ、准君の一挙手一投足から目を離せなくなってしまった。


「ことどひしいはねきねたちくさのかきはをもことやめて……あまのいはぐらはなちあまのやへぐもをいづのちわきにちわきて……」


 静寂の中、繰り返される祈りの呪文。

 意味は全く理解できなかったけど、准君の呪文はわたしの心の中に静かに染み入るようだった。

 横を見れば、瑞穂さんも目を閉じ、両手を合わせてただただ祈りを捧げている。

 千代ちゃんもまた、神妙に手を合わせてお祈りしている。

 わたしも目を閉じ、祈りに集中する事にした。


 ――どれだけ長い間、神事が続いていたかはわからない。


「なおりなさい」


 宮司さんが終わりを告げた時、建物を打つ雨音は来た時に比べると少し収まったようにも思えた。


「水神様、許してくれたのかな?」


 不安げに瑞穂さんが問いかける。真っ青だったはずの顔にも、いつの間にか赤味がさしていた。

 いつもわたしに向けられる強い敵意や大人っぽい雰囲気はすっかり影を潜めて、わたしと同じ小学六年生の女の子がそこにいた。

 急に瑞穂さんに対して、親近感を感じた。


「まだだ」


 准君は袴をひるがえし、立ち上がった。


「これから川へ行く」

「川に?」

「危険じゃないの?」

「最後に供物くもつを捧げる。水神の好物を。急ぐぞ」


 足早に出て行こうとする准君の後を、わたしたちは慌てて追った。


「供物って?」

「お供え物の事じゃないかな?」

「水神様の好物って?」

「まさか、いけにえとか?」


 暴れる水神の怒りを静める為に若い女をいけにえに、なんてありそうな話だ。

 でも、いくらなんでもわたし達は若すぎる。こんなやせっぽちの子どもじゃ水神様も納得してくれないだろう。

 准君だって、クラスメートを川に突き落とすような真似はしないはずだ。

 神社から少し走ると、眼下に猿ケ岩川を見下ろす高台の上に出た。濁流がいつもの何倍もの太く、茶色い龍のようになって、今にもあふれ出さんばかりに唸りをあげている。


「……かくいぶきはなちてはねのくにそこのくににますは……はやさすらひめといふかみもちさすらひうしなひてむかくさすらひうしなひては……」


 准君は両手で印を結び、口の中でぶつぶつと呪文のようなものを唱えはじめた。

 わたしたちも准君も、もう雨でびしょ濡れだ。


「水神よ、受け取るが良い!」


 カッと目を見開くと、准君は袖から取り出した何かを宙に放り投げた。

 細長い緑色で、ゆるく曲がったあれは――


 きゅうりだ!


 水神様にきゅうり? と思う間もなく、きゅうりはくるくると回って川に落ちそうになった。その時――


「あれ!」


 千代ちゃんが川の中を指さした。

 濁流の中から緑色の手がにょっきりと飛び出し、空中のきゅうりをキャッチ!

 水の中からは手に続き、丸いお皿と大きなくちばしの付いた人間みたいなものが姿を現した。


「河童だっ!」


 思わず千代ちゃんと声が揃う。

 でも河童が姿を現したのはほんの一瞬の事で、すぐさま水の中へと消えてしまい、それっきり二度と姿を現さなかった。

 最後にわたし達を向いた河童の顔は――笑っているように見えたのは、気のせいかな。


「河童って……何があったの?」


 瑞穂さんだけはきょとんとした顔。そっか。瑞穂さんには千代ちゃんの声も聞こえなければ、河童の姿も見えなかったんだ。


「これできっと、機嫌を直すことだろう」


 振り向いた准君の顔には、笑顔が浮かんでいた。

 その口の端に、とってもチャーミングな八重歯がのぞいているのが、まぶたの裏に焼き付いて離れなかった。



   ※     ※     ※



 川の氾濫はんらんは少しずつ勢いを弱めて、翌日にはすっかり元の姿へと戻っちゃった。

 流された橋や、川の水が流れ込んだ田畑は痛々しさを残していたけれど、その多くは現在は使われていない休耕田ばかりで、被害は少なかったそう。

 一番危ういと思われていた信夫君の家も、なんとかぎりぎりのところで浸水をまぬがれたみたい。

 二日後には似田貝建設の手によって、崩落した橋に代わって架設の橋が掛けられ、龍井集落の孤立状態も解消された。

 すぐに避難警報は撤回され、わたしたちもいつもの毎日が戻ってきた。

 それにしても……この村に来てから、驚かされる事ばかりだ。

 千代ちゃんとの出会いもあるけど、山の中でのサトリや田植えでのオクナイサマに続いて、まさか今度は河童だなんて。そもそも水神様って、河童の事だったの?

 誰かに教えて欲しかったけど、千代ちゃんもそこまで詳しくは知らず――。

 准君もまた、学校に来ている姿は普通の小学生そのもの。相変わらず、他のクラスメートとはあまり会話しようとはしないみたい。

 唯一変わったように見えるのは瑞穂さんで――河童の一件以来、わたしを睨みつけるような事は無くなった。でも、やっぱりわたしと瑞穂さんの間には依然として深い溝のようなものが横たわっているのを感じる。

 信夫君は水害とは別に、川で毒もみ漁をしたのがバレて、大人たちにこってり絞られたみたいだ。けれどもしゅんとしていたのはせいぜい最初の一週間だけで、今ではすっかり元のイタズラっ子に戻ってる。

 集中豪雨が明けてからも雨が降ったりやんだりの日が続き、気が付けばつい先日植えたばかりのはずの田んぼの苗が育ち、見渡す限りの水田が緑色に染まりつつあった。


 夏が、近づいていた。

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