第13話

 その日の夜から突然雨が降り出した。

 降り出した雨は朝になっても弱まるどころかますます勢いを増し、横殴りの雨と風で前が見えなくなる程だった。

 テレビでは予報を覆すような突然の豪雨に、「史上稀に見る局地的豪雨」を繰り返した。

 翌日学校は臨時休校となり、わたしは千代ちゃんと一緒に、自宅で静かに過ごす事になった。


 ババババババ……。


 トタン屋根に打ち付ける雨音なのか、屋根から滝のように流れ落ちるしずくの音なのか、古い家は耳を塞ぎたくなるような轟音に包まれっ放しだった。


「すごい雨だね」

「びっくりだよ。お父さんも、ここまでの雨ははじめてかもなぁ」


 あまりの騒々しさにお父さんも仕事の手を休めて、一緒に茶の間でテレビを眺めていた。

 テレビでは繰り返し、雨のニュースを流している。

 雨はこの奥遠野村の辺りに集中しているみたいだった。周辺の市町村でも降ってはいるものの、ここまでの大雨ではないらしい。


「あ、ほら。奥遠野村に大雨洪水警報だって。注意報が警報に変わった。土砂災害警報もだ。物騒だなぁ」


 テロップがテレビの上部で点滅する。


 プォーーーーーーー!


 耳慣れない警報が鳴って、わたしとお父さんは飛び上がりそうになった。

 壁に設置された防災無線だった。

 奥遠野村では全てのおうちに防災無線装置が設置されていて、何かと言うと無線で情報が流れるようになっている。


『村、消防団からの連絡です。ただいま、奥遠野村に大雨洪水警報、土砂災害警報が発令されました。くれぐれも河川には近づかないようご注意下さい。繰り返します……』


 防災無線から防災らしい情報がもたらされるのは初めてだった。これまでは飼い犬の飼い方や道の駅のイベント、小学生の作文コンクールの発表など、些細な生活情報ばかりだったのに。


「なんか、大変な事になってきたね」

「本当だね。何事もないといいんだけど」

「美国……」


 隣に座った千代ちゃんが、不安そうにわたしに体をすり寄せる。

 すると――、


 フッと音もなく、家中の明かりが消えた。


 テレビの画面も真っ暗。天井の高いこの家は、一瞬にして薄暗い闇に包まれる。


「ひっ」


 わたしと千代ちゃんは手を握り合った。

 停電だ!


「おや、停電だね。どうしたんだろう?」


 お父さんはいたってのんきな様子で、どこかから持ってきた電池式のランタンに明かりを付けた。


 ババババババ……。


 テレビの音が消えた分、屋根を打つ雨音だけが勢いを増して耳を襲う。


「長引くのかなぁ」

「あたち、暗いの怖い」


 ますます震え上がる千代ちゃん。ついこの間まで電気も点かないこの家にたった一人で住んでた癖に。

 この子には自分が妖怪だって自覚を持たせるよう教育した方がいいんじゃないかしら?

 でもこうして怖がってるのを目の当たりにしたら、放っておけないよね。


「あんまり停電が続くようだと面倒だね。台所と風呂はガスだから使えるけど、これじゃあ何もできない。村中この状態なのかな?」


 お父さんが言ってる側から、再度プォーと防災無線が鳴った。


『村、建設課からのご連絡です。土砂崩れの影響により、村内で広域停電が発生しています。また、村内各所で洪水や土砂崩れの恐れがあります。奥遠野小学校を緊急避難所に指定しますので、可能な方は奥遠野小学校へ避難して下さい。繰り返します。村内各所で洪水や土砂崩れの……』


 わたしとお父さんは顔を見合わせる。

 わたしたちの家は少し小高い坂の上にあるから、洪水の心配はない。築百年以上経っている家だし、そんじょそこらの雨風でどうにかなるとは思えないけど……。


「一応、行ってみようか。ぼくたちにも手伝えることがあるかもしれないし」


 お父さんはそう言って立ち上がった。そっか。避難してくる人がいるって事は、その人達のお世話をする人も必要なんだ。

 わたしの視線に気づいて、千代ちゃんがうなずく。そうだね。一人でお留守番ってわけにもいかないし、千代ちゃんも一緒に行こう。


   ※     ※     ※


 奥遠野小学校にはすでに沢山の人が集まっていた。

 場所によっては予想以上に被害が出ているみたいで、蜂の巣をつついた騒ぎだ。

 体育館には収まりきれず、校内の空き教室にも避難所を広げつつあった。

 風呂敷やバッグを手に手に集まってくる村の人たちからは、なんだか悲壮感みたいなものまで漂ってくる。

 ここに来てようやく、大変な事が起こっているんだ、という実感が湧き上がってきた。


「美国ちゃん」

「里花ちゃん!」


 人ごみの中に里花ちゃんを見つけ、わたしたちはお互いに両手を握り合った。


「無事だったんだね」

「うん。うちは停電してるぐらいだったんだけど、とりあえず念のために行ってみようかって」

「うちも一緒ー。これからみんなに配るおにぎり作ったりするから手伝いなさいって。なんだかねぇ、龍井集落の方がひどいらしいよー」

「龍井?」

「ほら、信夫君ちとかー、瑞穂ちゃんちがあるほう。橋が落ちて、孤立してるんだってー」


 言葉を失う。そんな事態になっているなんて。


「じゃあ、信夫君たちは……」

「来てないみたい。信夫君ちって、川のすぐ近くだから。心配だよね」


 信夫君に対しては今まで意地悪ばかりされてきたこともあってあまり良い印象はないけど、こうなれば話は別だった。ちょっと痛い目に遭って欲しいと思うことはあっても、命の危機にさらされて欲しいなんて思うはずもない。

 気になるのは、千代ちゃんの言葉だ。

 水神が怒る。

 まさかこの雨と、この間の川での一件に関連がある訳じゃないだろうけど。


「あ、里花。来てたのか」


 雅紀君の声に、わたしは心の中で胸を撫で下ろす。

 川の一件が関係していたら、雅紀君だって無事では済まないかもしれないんだから。


「こっちよりも信夫んちの方がヤバいらしいよね」


 雅紀君の耳にも、どうやら龍井集落の話は入っているみたい。

 すると体育館の一角でどよめきが起こった。誰かが持ち込んだタブレットPCがインターネットのニュースサイトにつながったらしい。

 モニターには、濁流となった川の様子が映し出されていた。この雨の中、ヘリコプターが飛んでいるみたい。


「こりゃ、龍井でねーの」

「あれま。やっぱり橋なぐなっちまってっぺ」

「あそごは田んぼだったっぺよ。こんなに酷ぐなっでんのがよ」


 村人たちの間に溜息が漏れる。

 上空から映し出された川は確かに猿ケ岩川らしかった。橋を押し流し、堤防を破った泥水が周辺の田畑にも流れ出し、どこまでが川かすら判別がつかなくなってしまっている。


「あ、あれっ」


 雅紀が画面を指差した。


「信夫んちだ」


 押し寄せる濁流のすぐ側に建つ赤い屋根の洋風住宅が、信夫君の家らしい。もう目の前まで水が迫っている。あと少しで飲み込まれてしまいそうだ。


「こ、こんな……」


 耳元で声がして、ふと見れば真っ青な顔をした瑞穂さんだった。


「瑞穂さん!」

「瑞穂ちゃん! 無事だったの」


 里花ちゃんが駆け寄ると、瑞穂さんは膝から力が抜けるように崩れ落ちそうになった。


「わたし……お父さんに逃げろって言われて……だから……」


 瑞穂さんの家は似田貝建設と言って、村の土木工事等の大半を請け負う建設会社だ。お父さんも村の色々な役を務める名士。そのお陰もあって事前に危険が迫っている事を察知した瑞穂さんのお父さんは、早めに瑞穂さんだけを避難させたんだって。


「無事で良かった」

「でも……村が……川が……あぁ……」


 モニターに映し出された村の惨状に、瑞穂さんは大きなショックを受けている様子だった。

 そこはまさに、瑞穂さんが生まれ育ち、慣れ親しんだ場所なんだ。


「これってもしかして……あれのせい? 昨日、信夫君があんな事したから……」


 瑞穂さんの問いかけに、わたしたちは息を飲む。

 口には出さないにしても、あの場にいた全員がうすうす抱いていた疑念だった。


「何言ってんだよ。そんなはずないだろ」

「そうそう。瑞穂ちゃんが気にすることなんてないよー。たまたまだってばー」


 雅紀君と里花ちゃんがなだめる声も、どこか上ずってるように感じた。


「あんなことしたから」


 ぼそり、というつぶやきにわたしは眉を潜める。千代ちゃんだった。


「水神様が怒ってる。あんなことしたから」


 千代ちゃんは真っ青な顔をして、震えていた。

 わたしはみんなに気づかれないように千代ちゃんを連れて、校舎の方へと移動した。


「あんなことって、やっぱり」


 千代ちゃんの言葉が川での一件を指しているのは間違いなかった。

 やっぱりこの水害は、水神様を怒らせたせいで起こっているんだ。


「千代ちゃん、どうすればいいの? なんとかする方法はあるの?」

「わかんない。でも、水神様が怒ってるんなら、神様に謝らなきゃいけないと思う」

「神様?」


 真っ先に、わたしの脳裏に准君の顔が思い浮かんだ。

 神様と言えば、神社だ。

 そういえばこの避難所に准君の姿は無かった。八幡神社でじっとしているのかもしれない。

 あれ以来、学校で会っても准君はそれまで通り、会話どころか目を合わせてくれる事も無かった。

 でも宮司さんの言葉を信じれば、わたしたちは友達のはずだ。

 少なくとも、困っている友達を見捨てるような真似をするはずはない。 


「准君に相談してみよう!」

「謝るんなら、あの、瑞穂っていう子も連れて行かなくちゃ」

「でも、どうやって」


 瑞穂さんがわたしの言う事を聞くとは思えなかった。

 でも――今だったら……。

 わたしは体育館へと取って返し、瑞穂さんの姿を探した。

 瑞穂さんは毛布を被って、体育館の隅に小さくなっていた。


「瑞穂さん!」


 わたしは彼女の前に座り込んだ。


「ねえ、一緒に来て」

「一緒にって……あなた、何を言ってるの?」

「洪水、なんとかしたいでしょ? もしかしたら自分たちのせいかもしれないって、思ってるんでしょ?」


 瑞穂さんがぐっと言葉に詰まるのがわかった。


「だったら黙って付いてきて。それにあなた、前にわたしの事だましたでしょう? その時の貸しだってあるんだから」


 瑞穂さんは一瞬目を見開いたけど、その後は意外なほど、力なく従った。


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