第7話


 ――チリン……チリン……。


 耳を澄ませると、確かに鈴の音は聞こえる。ううん、こっちに近づいてくるみたい。

 上だ。

 見上げた山の中に、何か白いものが揺らめくのが見えて、ぞっとする。

 見間違いかと思ったけど、間違いじゃない。木立ちの間を縫うようにして、白い人影が降りてくる。

 近づくに連れて、様子がはっきりしてきた。

 修行中のお坊さんが着るような白装束に、編み笠を被った人。

 手にはたくさんの輪っかが付いた杖のようなものを持っている。あれが鈴みたいな音を鳴らしているんだ。


 ――チリン、チリン……。


 降りてきた白い人は、わたしたちの前で立ち止まった。

 想像していたよりも背が小さい。わたしと大して変わらないくらいだ。もしかして、大人じゃなくて――。


「こんな所で、子どもが何をしている」


 咎めるような口調に思わず身震いするも、笠の下からのぞいた顔に、わたしは驚いた。


じゅん君……」


 それはクラスで一人、いつも静かに本を読んでいる穂積ほづみ准君だった。


「お前……転校生か」


 准君もまた、驚いた様子だった。


「准君は、どうしてここに? 何をしているの?」

「僕は……下の神社に住んでいるんだ。奥宮の供物くもつを交換しに行って、戻ってきたところだ」

「准君、八幡神社の子なの?」


 わたしの質問に、准君は顔を背けるようにして答えなかった。


「それよりも転校生、お前は何をしている? そんな変なものまで連れて」

「変なもの?」


 首を傾げるわたしの足に、千代ちゃんがまとわりつく。


「美国、この人……見えてるみたい。あたちのこと、見えてる」

「見えてるって……千代ちゃんが?」


 思わず聞き返したわたしを見て、准君は目を細めた。はっとして口を覆うものの、もうあとの祭りだ。


「なるほど。やっぱりお前にも見えてるんだな。平気で学校にまで連れて来ているから、もしかしたら自覚がないのかと思ったが」

「准君にも、千代ちゃんが見えるの?」

「……だとしたら、余計に厄介だな」


 准君は質問には答えず、ぶつぶつとつぶやきながら考え込んだ。


「……そもそもお前はどうしてこんなところにいる? なんでこんな夕方に山に入ろうなんて思ったんだ?」

「わたしは、瑞穂さんに言われて……。この村にやってきたら、八幡様にお参りしなさいって」

「だったら今度の休みの日にでも来ればよかっただろう。じきに日も暮れるというのに。ましてや一人でなんて」

「瑞穂さんにそう言われたの。今日帰ったらすぐ登るようにって。一人じゃなきゃ駄目だって。瑞穂さんも上で待ってるからって」

似田貝にたがいが……?」


 准君は眉をひそめ、再び考え込む。

 准君って、こんなにしゃべる子だったんだ。

 わたしにとってはむしろそっちの方が新鮮だった。だって准君って、いつも一人で本を読んでいて、誰とも会話しているのを見たことが無かったから。

 それに――こうして正面から見たのは初めてだけど、結構きれいな顔してるんだ。普段は長い前髪に隠れているのもあって、全然気づかなかった。


「よし、降りるぞ。急ごう」


 准君は言うが早いか、突如登山道を降りるよううながした。


「えっ」

「急げ。このままだと日が暮れるぞ」

「でも……瑞穂さんが上で……」

「言っただろう。僕は奥宮に用があって、たった今行って来たんだ。上には似田貝なんていない。お前は似田貝に……」


 准君はそこで口をつぐんだけど、言いかけた言葉の続きはわたしにも想像がついた。

 だまされたんだ。

 どんな考えがあったのかはわからないけど、瑞穂さんはわたしをだまして、山に行かせたんだ。

 そう思うと、怒りよりも先になんだか悲しい気持ちになった。

 瑞穂さんとはほとんどしゃべったこともないのに、どうしてこんな酷いことをするんだろう。新しい学校に転校してきて、みんなと仲良くなれたらいいなって思ってたのに。他の子はみんな仲良くしてくれるのに。どうして。


「とにかく、今は急ぐぞ。早くしろ」


 鼻の奥がツーンと痛むのをこらえて、わたしは准君にうなずき返した。

 滑るようにして山道を駆ける准君の背中を、千代ちゃんの手を引きながら必死で追いかける。

 慣れているだけあって、准君はとても速い。

 小さい歩幅で小刻みに、階段を駆け下りるようにして、ぐんぐん下って行ってしまう。


「准君、待って。そんなに早く走れない!」

「いいから急げ! 日が暮れたら事だぞ。ましてやお前のように見える人間なら、なおさらだ」


 ――見える人間、ってどういう意味だろう。

 疑問をとなえる暇もなく、とにかく准君の背中を追いかける。ちょっとでも気を抜けば置いてけぼりになってしまいそうで、必死だった。


「あいたっ」

「千代ちゃんっ」


 足をくじいて転びそうになる千代ちゃん。


「大丈夫?」

「うん。あたちは大丈夫」


 いくら何でも、千代ちゃんの小さな体で准君に付いていくのは無理だ。


「准君、あの……」


 せめて少しだけでも待ってあげて、と声を掛けようとしたところ――准君が立ち止まっているのに気づいた。


「……准君?」

「黙れ。しゃべるな。何も考えるな」


 振り向きもせず、背中で冷たく言い捨てる准君。

 黙れはともかく、何も考えるなって――瑞穂さんといい准君といい、いくら何でもひどすぎる。確かにわたしたちは足手まといかもしれないけど、それにしたって……。

 さすがに文句の一つも言ってやろうと歩み寄ったわたしは、そこでようやく異変に気付いた。

 立ち尽くす准君の前に、得体のしれないものが立っていた。

 全身を真っ黒な長い毛でおおわれた毛むくじゃらの怪物。人間の大人と同じか、それよりも大きい。

 ――なんなの、これ?


「今お前、なんなのこれ、って思っただろ」


 怪物は突然、しゃべった。


「しゃべった、って思っただろ」

「考えるなと言っただろう、転校生っ!」


 准君に怒鳴られて、ますます気が動転する一方だった。一体どういう事? 考えるなって。もしかして――。


「お前今、わたしが考えてる事がわかるの、って思っただろ」

「ひぁっ……」


 思わず息を飲む。

 この怪物、わたしが考えてる事がわかるんだ!


「こいつはサトリだ。相手の考えを読み取る。だから、何も考えるんじゃない」

「考えるなって言われたって……」

「いいから。考えるな」


 そんな事言われても、頭の中はパニックだ。この状態で何も考えるななんて言われても……。


「だから言っただろう。お前みたいに見える人間が夜の山に入れば、こうして見えるはずのないものまで見てしまうようになるんだ」


 見える、見えないって、どうやら千代ちゃんの事を言ってるのかもしれないけど、目の前の怪物は千代ちゃんとは全くの別物だ。

 その証拠に、千代ちゃんもサトリが怖いみたいでわたしの足にがっちりとしがみ付いていた。

 なんとか千代ちゃんを連れて逃げ出したいと思うけど……足がすくんで動きそうにない。

 考えを読み取るという化け物相手に、一体どうすればいいの?


「いいんだぞ。何考えたってオラには筒抜けだ。全部わかっちまう。どうしようったって全部無駄だぞ。お前らは、オラからは逃げらんねえからな。早くあきらめろ。痛くねえように食ってやるから怖がんな」


 サトリ、と呼ばれた怪物はそう言って笑った。

 食う?

 今、食うって言ったの?


「准君……」


 わたしは震える手で、准君の装束しょうぞくの裾をにぎった。准君は厳しい表情でサトリをにらみつけたまま、動こうとしない。

 自分でもわかるぐらい、足がガクガクと震えだした。

 やっぱり駄目だ。

 無理だ。

 どう考えたって、こんな化け物からなんて逃げようがない。


「そうだ。駄目だ。諦めろ」


 半分諦めかけたその時だ。


「美国、逃げよう」


 言うが早いか、千代ちゃんがわたしの手を引いて、登山道の横の急斜面に体を投げ出した。


「千代ちゃんっ」

「よし、行くぞっ」


 准君にドンっと背中を突き飛ばされて、半ば転げ落ちるようにわたしも斜面を下る。


「待てこの。わらし、邪魔すんでねえ!」


 追ってくるサトリの声が怖くて、後ろを振り向く事すらできない。

 その上、登ってきた登山道は斜面をジグザグに切り開いたお陰で比較的緩やかだけど、そこを一直線に急降下するんだから。

 これじゃ坂っていうか、崖じゃないの!


「きゃあっ、助けてぇっ!」

「木でも枝でもなんでもいいから掴まれ! 転ぶなよっ!」


 准君の声に、無我夢中で両腕を伸ばして木や枝にしがみつきながら斜面を駆け下りる。でも後ろからはサトリが追ってくるからあんまりスピードもゆるめられない。

 転ぶななんて無茶だっ!

 でも転んだら最後、サトリに食べられちゃうかもしれない!

 とにかく必死で、ひたすら必死に走り続け――しがみついた枝の内の一本が、太い枝かと思ったら、柔らかいツルだった。


「きゃあぁぁーーつ」


 ツルはつかんだ次の瞬間にぐんと伸びて、支えを失ったわたしはそのまま地面に思い切りしりもちをついた。


「いったぁぁぁぁいっ!」


 お尻に走る衝撃に、思わず手からツルが離れる。

 それよりも――後ろにはサトリがいるはず!

 捕まる!

 とっさに振り向いた次の瞬間――、


 バチイィィィィン!


「痛あぁっ!」


 派手な音と、びっくりする程大きな悲鳴が響いた。

 見ればサトリが顔の辺りを押さえて地面をのたうち回っている。

 どうやらわたしの手から離れたツルが、反動で後ろを追いかけてきたサトリの顔面に直撃したみたい。


「ああ、これだから人間てな、恐ろしい。考えてもいねえことをすんだからな」


 サトリはよろめきながら起き上がると、うめくように言ってあっという間に山の奥へと逃げ去ってしまった。

 しばらく呆然とサトリの消え去った方向を見つめていたわたしたちだったけど、誰からともなく我に返り、顔を見合わせてふき出した。

 だってわたしも准君も、山道を転げまわったせいで体から顔まで泥だらけだった。

 でも良かった、無事に助かって。

 そう思うと妙に笑えて仕方がなかった。さっきまで命の危機が迫っていたなんて嘘みたい。

 この時わたしは初めて、准君が笑った顔を見た。

 のぞいた八重歯が、チャーミングだった。

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