夜10時の鼓動

 試合が終わったのは9時前、まつりさんと連絡がついたのはその更にその1時間後だった。


 私が送った長文の試合の感想メッセージの返信が来たのは、10時前。


『もう帰っちゃいました?』


 それを受信したのは、新宿駅近くの居酒屋で遅めの夕食をとっていたときだった。


 職場から直接会場に向かったために、空腹だったせいか、それとも、はじめてのプロレス観戦の余韻だろうか、無性に酒が飲みたくなったのだ。

 自分の中で何かがたぎっていた。


 リングから聞こえた、選手たちの叫ぶような声とそれに鼓舞された拍手がまだ耳に残っている。

 こういうものを見て、これまで心の奥底で突き放して生きてきた。それが今度は違った。

 できることならああなりたい。

 ああいう風に、自分をむき出しにして、それを人に肯定されて、生きてみたい。


 外食で飲酒なんて、何ヶ月ぶりだろう。……いや、思い出すのはやめよう。元カレと出掛けたのが最後とかだったら、忘れるために必要以上に飲みそうだ。明日も仕事があるし。


 そう思いながら返事を打つ。


『駅の近くでご飯食べてる』


『今から合流できませんか?』


『そっちはいいの? 打ち上げとかないの?』


『ないです。感染予防で、撤収が終わったら即解散』


 なるほど。


『それなら帰ったほうがよくない? 私いま飲み屋』


『新宿三丁目のほうまで出れますか? よく行く半個室のお店があるんで』


『いいよ』


 すぐに店を出て、先に合流予定の駅口についたのは私の方だった。

 待っている間に短文系SNSを見ると、早速試合の画像が上がっている。


 まつりさんの試合は第3試合、男女混合ミックスドタッグ戦だった。


 相手選手は身長190センチを超えた背の高い外国人男子、ジョン・テラー選手と筋肉の上にきちんと緩衝材のように薄く脂肪のついたタイプの竹下ユキ選手だった。


 試合はまつりさん対テラーで始まった。

 テラーはまつりさんを全く存在を無視してリング中央に仁王立ちで、青コーナーに控えたまつりさんのタッグパートナーの三浦剣選手に向けて、お前が出てこい、と口論をふっかけていた。


 身長150センチもないまつりさんはテラーの真正面に立ちはだかり、跳ねて体当たりをするというパフォーマンスをするも、テラーは一切無視。

 ジャンプしても視界にすら入らないという有様で、客席の笑いを誘っていた。


 その、大の字で飛び跳ねているまつりさんとテラーの画像に、こんな言葉が添えられている。

『身長差40センチの悲劇』


 この後、まつりさんはキレて相手の足を踏み、それにキレたテラーはまつりさんをあっさり持ち上げて裏返して背面を叩きつける形ボディスラムでマットに落とした。


 さらにまつりさんのお腹を踏んづけて青コーナーの際まで来て、しびれを切らした三浦選手が出張った。

 そして男二人でつかみ合いをしている間に、まつりさんがテラーの足を両足で挟んレッグシザースで転ばせ、そのまま丸め込んで最初の抑え込みピンフォールで2カウントを取っていた。


 ……合流地点に現れたのは、帽子にマスク姿でキャリーケースを引きずった先日会ったのとは別人のように地味な格好をした彼女だった。

 黒のフーディーの襟元は、竹下選手と打ち合ったチョップの痕がコスチュームのネックラインの形で真っ赤なアザになっている。


「それ、痛そう」


 そういうと、彼女はえへへと笑って襟元をつまんだ。


「まあ、ユキさんと撃ち合いになったらこのぐらいいくかな、とは思ってましたから」


 それを聞いて、私は自分の携帯のカメラロールから一つの画像を出して差し出した。

 

 そこには、まるで重量挙げのバーベルのように宙に寝そべる形で高々とテラーに担ぎ上げられたまつりさんが写っている。

 この画像の直後、リング下の客席最前列前に立っている三浦選手及びセコンド陣めがけて、まつりちゃんはまるで巨大な石かなにかのように投げつけられていた。


 それを見て、彼女は苦笑した。


「……ああ、最近のジョンの定番なんですよ」


「見ててびっくりした。あんなひどいことする人間いるんだ、と思った」


 それを聞いて、またまつりさんはけらけらと笑う。


「ですよねー。私もあの技受けるのイヤです。持ち上げてお客さんに見えるように真上でしばらく溜めるじゃないですか、下手に動くと危ないんでじっとしてるしかないんですけど、その間こわくてこわくて、そこからドーンって」


「けど、お客さんの反応はすごかった」


「そうなんですよねー。だから仕方ないんです」


 私はなんとなく気の毒な気がして、まつりさんのキャリーケースを持とうとした。


「あ、大丈夫です、慣れてますから」

「やだ、あんな試合観た後にしんどい思いさせたくない」


 そう言うと、彼女はにこっとして


「とわさんだって、仕事終わりで試合観に来てくれたじゃないですか。見えてましたよ」

 そう言われて、何も言い返せなくなった。彼女はぴりっと背筋を伸ばして、道の先を指さした。

「……とりあえず、お店行きましょ。お腹ぺこぺこで」


 そういわれて、私はまつりさんについて行った。


 連れられて入った店は、可愛らしいカフェだった。

 店員はまつりさんの顔を見ると、何も言わず一番奥の物陰のテーブルに導いてくれた。


 カフェらしく甘いものやプレート系が多いが、ディナーメニューもあり、ワインとビール程度のアルコールも置いている。


 彼女はメニューも見ずにチキンサラダプレートとアイスティラテを頼んだ。

 私は少し考えて、酔いざましにミントアイスとルイボスティを注文した。


「いいとこだね。初めて来た。デートに使えそう」

「えへ、新宿で試合があるとよく来るんです。最初は先輩に連れてきてもらって……。観に来てくれた人は試合と物販終わったら、そのまま歌舞伎町のレスラーや団体がやってるお店に行っちゃうし。ここなら他のお客さんの顔とかもあんまり見えないんで、試合帰りのお客さんと遭遇して気を使ったりしないで済みますから」


「なるほど……」

「それで、初めてのプロレスはどうでしたか?」

 わたしはにこりとした。


「いやあ、びっくりした。私ね、スポーツとかあんまり見ないし、ハマらない人だと自分のこと思ってた。けど、今日は違った」


「楽しかったですか?」


「うん、すっごく。なんていうか、顔の毛穴が開く感じってわかる?」

「わかります。興奮して、なんか油っぽい汗出てくる感じですよね」


「そうそう……なんていうか、すごいどったんばったんやってるのに、みんなすぐ起き上がってすぐに走ったり相手に向かってったりするでしょ? なんか見てて途中から痛そうなんだけど、痛そうだけじゃない何かを感じ始めちゃって」

「わかりますわかります」


「特に最後の試合はすごかった。なんか、4人とも、人間って言うより、そういう種類の猛獣同士が戦ってるみたいに見えた。けど、なんていうか、殺し合いって感じじゃないの。もっとスマートで、ちゃんと相手を見てるっていうか……」


「うちの団体の一番先輩同士のメインですからね。それに、あのうちの二人は、来週の週末にタイトル戦もありますし。今日はその前哨戦で、そういう意味で冷静にやってたっていうのはあると思います」


「ああ、なんかそんなこと言ってたね。試合終わった後に、マイク持って。大田区だっけ?」

「ええ、すごく広い会場での試合なので、一人でも多くのお客さんにつきあってほしいんですよ」


「つきあってほしい……」

「うん……夢のないこといっちゃうと、チケット買って見に来てほしいんですよ。試合は動画配信もしますけど、生の席が埋まれば埋まるほどやる気出ますから」


「私も、見に行ったほうがいい?」

 まつりさんはすこし考えて、首を傾げた。

「さあ、好きにしたらいいと思いますよ」

「え、そうなの?」

「ええ、私も出場しますし、席は埋まってほしいと思いますけど、それと友達を売るのは別ですから」


 それをきいて、思わず微笑んだ。


「友達と思ってくれてるんだ」

「え、とわさんは違うんですか?」


「え、ううん……友達作るの、久々だから、ちょっとびっくりしてるだけ」

「そうなんですか?」


「うん、仕事の仲間や同期はいるけど……このご時世でしょ、それぞれバラバラに出社で、固定で顔合わせるのは上司くらいだし。連絡も社内のインフラで十分、わたしの働いてる部署はそういうの取り扱ってるところだからなおさらそう」


「私も、プロレス関係者以外の友達、いないです」

「え、大学は?」

「プロレスラーやりながら、友達作る余裕なんかないですよ」


「ゼミは?」

「まだ2年ですから」

「ああ、来年からか……ごめん」


「いえ。高校の頃も代表から『高校出たら即デビューね』ってずっと言われてたんで、それまでに強くならないと、って気合い入れて、普通の高校なのに一人だけスポーツ推薦みたいな調子で」


「お遊びナシだったんだ」

「はい。文化祭の時とかちょっと仲良くなったかな、ってくらいがピークで、卒業したらみんな音信不通です」

「今2年ってことは、コロナ始まったの高校3年とか?」

「はい。修学旅行なかったです」

「だったらなおさらだよね……まあ、私も高校時代の友達なんて、家庭持ってるか、あっちの都市部で仕事しててみんな疎遠だけど」


「逆に、今連絡してくる子はプロレスが好きな男子とかで、友達というより私から直にチケット買ってくれる最古参のファンって感じで、それはそれでありがたいですけど」

「仕事から離れた友達ではないわけだ」


「……理解があるのは嬉しいんですけどね。ただ、なんていうか、プロレスって人に夢を見てもらう仕事なところがありますから」

 私はうなずいた。

「それは今日見ててわかった。お客さんたち、みんな楽しそうだったし。……ヘタに裏話とかできないでしょ。うちも他部署だけどお客さんが接するものに係わる企業だから、漏らしちゃいけないハナシとか結構あるし」

「そうなんですよね……」


「私なら、話せそうと思った?」

「……というより、そういうの関係ない友達になれたらな、って」


 これをきいて、私は少し笑った。


「それはどうだろう」

「え、ファンになっちゃった感じですか?」

「というより、羨ましくなった」


「え?」

「私の今やってる仕事、直接客の顔なんか見えないから。特に喜んでる情報なんか何も入ってこない」

「なるほど」

「なにかの不具合が出ると、誰かが夜中でも会社にかけつけて、徹夜して、会社は謝罪出して、利用者さんは不満をSNSに垂れ流して……それを私の立場じゃ見守るしかできなくて」

「それは、つらいですね」


「けど、一番つらいのは、その責任とって入社してすぐに世話になった上司が異動させられたり、丁寧な仕事するなあと思ってた人がうつ病になって仕事休んだりするようになったとき……ごめん、さっきまでべちんべちん殴られてた人にする話じゃないね」

「いえ、いいですよ。聞きます」


「ううん。そっちはどう?」


「うーん、上下関係と練習の身体的な苦痛、あとSNSがしんどい、ってのはありますけど、ある程度わかってて入ったところがありますからねえ」

「ああ、体育会系の部活みたいな?」

「そうです。先輩に、あれやって、これやって、って言われたら自分のこと脇にやって秒で対応する感じの。……まあ、その分、焼肉とか奢ってもらったりしてますけどね」


「SNS、そんなひどいの?」

「直接顔が見えなければ言ってもいいと思ってる人とか遭遇すると、結構傷つきます。というか、先輩も代表も裏方さんも、他団体の人も、多分みんな傷ついてます」


「SNSの運営は?」

「差別的なのとか、脅迫とか、そういうのはマメに通報してますけど……また太ったとか、もっと鍛えろとか、そういうのは追いつきませんから。それに傷つけられた記憶までは消えるわけじゃないですし」

「そうだよね……」


「けど、楽しいんですよね」

「楽しい?」

「楽しいです。多分今夜もアドレナリン出すぎて寝れなくて、寝不足で大学行く感じだと思います」


「そんなに?」

「ええ。入場してリングに上がると、嫌なこと全部帳消しになるんですよ。試合は痛いし、負けると悔しいし、試合終わってもやること多いけど、そういうのひっくるめて楽しいんです。今も、怪我をして引退したときに備えて、大学には通ってますけど、できるだけ長く続けたい」


「いいなあ」

「いいですよ。大変ですけど」

「……はあ、私もあと5つ若ければなあ。プロレスやるの、考えたかもしれない」


「今いくつでしたっけ」

「26ちゃい、四捨五入で三十路」

「まだ若いじゃないですか」


「そう?」

「はい、なんか運動とかしてます?」

「高校時代はバスケ部で毎日動いてたけど、今は週1でジムに行ったり、家で毎日ストレッチしたり程度かな」


「ふむ……」

「なあに、週4でジム通ってゴリゴリに鍛えてたら誘ってくれたの?」

「いえ、ゴリゴリでなくても、今から始めても入れる団体とかありますよ。ワークショップから始めて、練習生になって、そこから1年か2年でプロデビュー」


「そうなの?」

「ええ。平日昼間普通に働いて、プライベートの時間でトレーニングして、週1で試合に出る人とかいますもん。ほら、この選手とか」


 そういって携帯画面にプロレス団体の選手一覧のページを見せてくれる。

 生年月日から見て、今は30代前半。画像はきれいな顔でやや筋肉質な健康的なお姉さんといった感じの人が写っている。


「ほんとだ。……え、マジで?」

「……紹介しましょうか? ワークショップの指導やってる子と去年試合したんで、連絡取れますよ」


 私は生唾を飲んだ。

 まだ試合の余韻と酒の酔いでぐるぐるしてるのだろうか。

 頭の中で、なにか悪魔と天使のささやきが心臓の鼓動のようにばくばくと響いているのを感じた。


 こうして、私の人生は少しだけそれまでの軌道から反れ始めた。


 ……けれど、それは、また別の話。

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『私』の夢が始まった夜まで たけすみ @takesmithkaku

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