終章

夏の終わり

 閉店時間が近づいて、修哉と真咲は退店すると駅までの道すがら話をした。

「実はアパートを追い出されて、夜の間に過ごす場所に困っててさ。数日、梶山さんの病室に泊まらせてもらってたんだ」

「あいつと、ふたりきりで過ごしてたのか」


 なにげなく修哉が問うと、真咲はしみじみと「なんだかひさしぶりに、なにも考えずにすごく安心してすごせたんだよね」と答えた。


 若い女性が安心して過ごせる場所は、家庭以外だとそう多くないだろう。外で遅い時間にひとりでいたりすれば——、目立つ容姿をしているなら尚更、思わぬトラブルに巻き込まれる可能性がある。

 声をかける側は気軽でも、気が変わって力づくとなれば、女の身では男の全力にまず逆らえない。いくらでもそんな犯罪の前例があるから、常に周囲を警戒し続けるのが女性の常識だと聞く。


「これからどうするんだ?」と訊ねる。

「伯父に明日、会いに行くんだ」


 そう言って、笑う。「叔父はね、あまり母と折り合いが良くなかったから。それでもたまにおみやげ持って訪ねてきて、僕たちのようすを確認してくれてたんだ。最近母に電話したらしくて、事情を知って心配して、慌てて遙香に連絡してきた。スマホの契約を切ってなくてよかったよ」


「そうか……」

 気にしてくれる身内が、ひとりはいたと言うことか。


「これからバイトに行って、早朝に上がったらそのまま行くつもり」

「忙しいな」

「ま、自分がやれることはやらないとね。若いうちは踏ん張って、ちゃんと根を張って、安心して暮らせる自分の居場所を見つけるよ」


「平気か?」

「心配してくれんの?」


 いたずらっぽく笑う。「叔父は一人で暮らしてるから、部屋は空いてるって言ってくれてるんだ。ほら、母の言いつけで家事はずっとしてきたし、できるから。それを込みにして叔父に、どこにいるか心配せずにすんで助かるって言われたし。あとは学費を貸してもらえれば、大学を続ける希望もあるかも」


 屈託無く、明るい口振りだった。


「たぶんいい人だよ、信用しきってるわけじゃないし慎重にようすを見ていくつもりではあるけど、第一印象って意外に間違わないものだし。母よりはずっと親切、っていうか、責任感がある人だと感じた。同じ家庭に育った姉弟でも性格って違うもんなんだね」


 そこまで言うなら下衆げすな勘ぐりはやめよう。水沢遙香の生い立ちからすれば、慎重さを欠いているとは思えない。

 血が繋がった親族と暮らせるなら、きっと良い未来への道が続く。そう信じるしかない。


「真咲がいれば、妹も安心だな」

「うん、人付き合いは好きだよ。妹の苦手は僕の得意だから」

「そっか」


 もはや水沢遙香を責める気持ちは失せていた。実際、あの生き霊がしたことといえば、梶山の発言をさえぎるていどだった。


 あとは梶山と水沢遙香、両人のあいだで解決すべきことであって、修哉がどうこう口を出す問題ではない。梶山も大ごとにするつもりはないだろうとわかっていた。


「なにかあれば、梶山でもオレでもどっちでも構わない。連絡して」と言って、メモ書きのアドレスを差し出す。

「相談に乗るよ。ないよりはマシだろ?」


「そんなことない、すごく嬉しいよ。お守り代わりに受け取っとく。ありがとう」


 駅前まで戻り、改札機の手前で真咲は修哉に向き直った。

「ねえ、ひとつだけお願いしてもいい?」


「——なに?」


 この流れはなんとなく想像がつく。修哉は左側にアカネ、背後にグレの気配を感じとっていた。


「修哉さんのイマジナリーってどんな人?」

「……」


 修哉は気づいた。真咲が下の名を伝え、こちらにも訊ねた理由。


 自分は誰であるか、相手も誰であるかを確認したかったのだ。それぞれの名前をはっきりさせ、を知りたがった。


「あ、嫌なら話さなくてもいいんだ」


 ちらりと修哉は左側に目線を流した。アカネが伸び上がって、こちらを見下ろしている。興味津々の顔つきが視えた。

 本当は違うんだよな、と考える。真咲にしてみれば、さほど変わらない存在かもしれないとは思う。でも、説明は——できればしたくない。話し始めれば長くなるのがわかってるから。


 修哉は小さく息を吐いた。


「面倒見はいいけど怖いお姉さんと、人情派のヤクザなおっさん、どっちがいい?」


 アカネとグレ、両者の思惑が突き刺さって、身体の芯が急激に冷えていくのがわかる。なんだよ、文句あんのか。まんまを伝えただけじゃないか。


 え、と真咲が身構える。「じゃあ……お姉さんのほう」


 またずいぶん高いほうの要求をされた、と思った。

「わかった。見ても驚かないでほしい。……あと、梶山には内緒な」


 うん、と真咲の顔がほころんだ。


 目を伏せ、呼吸を深く、下肢に力を入れて倒れないように備える。するりとアカネが入りこんでくる感覚に、目の前が淡く霞んで、真咲の姿が違って視える。


 大丈夫だ、こんなにも真咲——目の前の生者は生命力に満ちている。光り輝く生命力を放ち、悪いものを寄せつけない。きっと自分で未来を切り拓いていけるだけの気力を保っている。


 身体が動いた。真咲に歩み寄り、他者の興味を引かないよう間近で小声を発した。


 口が勝手に動いて、言葉が出てくる。

 喉の動きが違う。声帯が上がるような感じがする。ふだん使わない、高域の声音を放つ感覚があった。


「どうか元気で」


 自分の声とは思えない、透明感のある女の声が喉から発せられる。

 真咲の両眼が、驚きで見張られるのを修哉は見た。


「あなたたちの未来が、とても明るいものでありますように」


 おそらく、真咲はこれまでとまったく違う修哉の表情を見ただろう。やわらかな笑みをたたえ、雰囲気すら変わって別人となった姿を。


 真咲はまっすぐにこちらを見つめてきた。このときを逃したくないという思いをこめた声で訊ねてくる。


「お姉さん、名前は?」

「アカネ」


 言い終えると、すぐさまアカネは身体から抜け出した。


 修哉が自分以外の他者を宿す姿を目撃し、真咲はしばし呆けていた。そして、すごい、と漏らした。


「自分以外の人で初めて見たよ。なんか……とても感動しちゃった」


 ありがとう、と言い、深々と頭を下げる。

「誰にも言わないよ」と真咲が約束する。


 その時、修哉は思い出した。

 ひとつだけ、真咲に疑問を口にする。


「病院の時と今日、遙香が来てた服を真咲はいつ着替えたんだ?」


 意外な質問だったのか、真剣な調子で訊ねる修哉を見て、いきなり真咲が吹き出す。

「ちょっと待って、そんなことが気になるの?」


「荷物持ってないのにどこから服が出てきたのか、と……思って」


「やだなー、妙なところ気にするんだね」

 ツボに入ったのか、真咲の笑いが止まらない。

「病院の時はちょうど洗濯しててさ」と笑いを必死に抑えようとするが、かえって収まらずに涙まで流している。「部屋出たついでに乾燥機かけてたのを回収して着替えた」


 はぁ、と大きく息を継ぐ。ふふ、と笑い、「今日は、梶山さんと修哉さんが映画館入ってるときに、さすがに上映時間途中で抜け出してくるとは考えられなかったから、ロッカーまで戻って着替えた」

「わざわざ衣装替えしたのか」

「うん、遙香はスカート姿が好きだけど、僕は違うから」


 明かしてみれば簡単でしょ、と濡れた目元を指先でぬぐう。


「じゃあね、碓氷うすいさん」


 笑いの発作が落ち着くと、真咲は片手を上げた。修哉の荷物を指さす。さっき受け取った封筒を示している。


「梶山さんに、僕の伝言渡してもらえると嬉しい」


「ああ、わかってる。ちゃんと渡すよ」

「修哉さん、楽しい人だね」


 感想を残して朗らかな笑顔で真咲は改札をくぐり、振り返らずにホームへと続く階段を上がっていった。

 姿がすっかり見えなくなるまで見送り、ようやく修哉は改札に背を向けた。


 家路に向かう一歩を踏み出す。


「良かったんですか、アカネさん」

「——? なにが?」


 アカネは不思議そうな顔をしている。


「生者に存在を明かしたりして」

「別にいいんじゃない? 正体はわかってないもの」


 むしろ、とアカネが口にする。「あなたのほうが立場的にまずいんじゃない?」

 そう言って、修哉の顔を覗きこむ。


「真咲は誰にも言わないですよ」

「そうかしら」


 そのくらい分かる。他者に話せば、おのれの首を絞めるのは真咲も同じだ。

 やけにアカネの機嫌が良い。いまにも鼻歌でも歌い出しそうだ。


「アカネさんは真咲が気に入ったんですか?」

「あの子のなかでは、あたしはシュウの別人格の一部、つまり生者として記憶に残るんだもの。なんだか良い気分」


 はあ、と理解しがたい思いで、修哉は生返事をしていた。


「グレはお呼びがかからなくて、残念だったわね」

「私はあにさんとあねさんのお役に立てれば、それで満足ですから」


「なによ、真面目ぶってもつまんないわよ。もっと面白い返しをしなさいよね」

「いえあねさん、これは私の本心からの言葉です」

「やあねぇ、あんた本質はそんなお上品じゃないでしょ」

「それはお互いさまではありませんか」


 なんですってぇ、とアカネの声がうわずる。


「なによ、グレにしてはずいぶんと大きな口叩くじゃない」

「すんませんあねさん、勘弁してください」


 頭をひとつ下げ、あっさりとグレがアカネの背後へと身を引く。

 修哉の左肩に両手を置いて、空に浮かびながらグレのほうへ顔を向けているアカネも、本気で怒っているふうではない。じゃれあっているだけなのが伝わってくる。


 修哉は口を挟まず、ただ聞かぬふりをするしかない。

 他人には視えないふたりが背後で賑やかに話すのを聞きながら、修哉は苦笑した。


 まだしばらく、彼女らとの腐れ縁は切れなさそうだ。


 珍しく、周囲に人通りがない。すれ違う人もおらず、一級河川の上を渡る橋の上をひとり歩きながら、そう思った。


 いつまで、平穏な日々が続くだろうか。


 歩道の向こう側、車道を通り過ぎていくヘッドライトが、煌々とアスファルトを照らしながら光の列を作っている。


 川面を渡る夜風には、秋の気配があった。川岸でススキが銀の穂をなびかせる。星が見える夜空には、丸い月が浮かんでいる。

 秋を告げる虫の音が周囲に響いていた。




                        (了)

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