呪縛 ……1
女が残した呪詛が、頭のなかで反響する。強いのろいの言葉となって、動けなくなる。
なんて言った?
よく聞こえなかった。
いっそ、——ばよかった、繰り返し重なって聞こえる女の声。
シュウ、とアカネに呼ばれて、我に返る。とたんに照準が合ったかのごとく理解した。
し ね ばよかった。
いっそ、死ねばよかったのに。そう言ったのだ。
梶山を恨んでいる。死を願うほどに。
あいつ、もしかして。
厭な想像が浮かぶ。脳裏に光景が
その隙をうかがっていた。階段の一番上に、あの女が逆光の
身体の姿勢が保てない。落ちる。宙に浮く不快な危機感が、腰のあたりから全身を包む。なにかをつかもうとした右手は、むなしく空を
階段の上に女が立ち、今まさに突き落とされた瞬間。
梶山の姿――身体は頭を下にして、段差に浮く。不自然に上体がよじれている。手すりをつかもうとして失敗し、受け身を取ろうとしても秒の刹那では間に合わない。
女は、さっき目撃したのと同じ表情をしていた。嫌悪と憎悪を露わにする。
修哉は吸った息を、細く吐き出した。
おそらく、あの女が梶山を階段から突き落とした。
しかし、梶山自身はその事実を覚えていないのか、覚えていても生き霊に声を奪われて口に出せないのか。それとも訳があって、言わずにいるのか。
修哉は、ベッドの上にいる梶山へと目を向けた。
梶山は女が出て行った扉を、じっと見つめていた。下手を打ったと悟り、しまった、と言葉を漏らした。
右手で額を抱え、痛みをこらえているようだった。
「失敗した……瞬時に判断つくかよ、難度高過ぎだろ……」
「梶山、さっきの子——」
「ああ、シュウ、見舞いに来てくれたのか」
先ほどまでの魂が抜けたかと思わせる様相は消え失せ、ありがとな、と拍子抜けするほど明朗に言ってのける。
はぐらかされている気がした。
「あの子、知り合いか」
再度、訊ねる。答えるまで訊いてやる。修哉の意地を察知したのか、梶山は腹を
「ああ、同じ学部の顔見知りだよ」
「顔見知り?」
「あの子の名前は水沢遙香。俺が階段から落ちたときに偶然居合わせて、助けを呼んでくれたんだ」
梶山は言った。あれは自分が勝手にバランスを崩して落ちたんだ。まるで、おのれに言い聞かせるような口調だった。
「俺は、もうひとりのほうと仲良くなったんだ」
もうひとり。修哉は頭の中で繰り返した。もうひとり、そっくりの容姿をした女がいる。マサキという名の、梶山の知人——
そうか、と腑に落ちた。なるほど、双子の姉妹か。
ならば納得もいく。嫉妬の意味も。マサキと梶山が仲良くなって、双子の片割れは面白くない。ともに育ってきた同じ顔の分身が、ろくに知らない他人に盗られる。
双子ではなくとも、複雑な気分を抱くのは経験上知っている。ふだん問題の無い兄弟間でも、競争心はある。理不尽に焦る気分は解らなくもない。
たとえば弟の和哉に彼女が出来た時。おまけにその子が可愛いとくれば。どうしたって、兄として先を越された悔しさはある。
だが。
よく知らない側が梶山につきまとって、もうひとりの片割れは一体なにをしてるんだ?
それに——
生き霊はまだ梶山に取り憑いたままだ。
修哉は梶山を見た。アカネの目を借りないと、その姿までは修哉には視えない。だが不安を誘う色の、ぼんやりとした影が梶山に覆いかぶさっている。
生き霊を飛ばしているのはどっちだ? あの態度からして水沢遙香の可能性が高いが、マサキである疑いも消えない。
本人の特定ができたと思えば、ふたりのうちのどちらなのかを見定めなくてはならなくなった。だが、どうやって確かめればいい?
「あいつはすこし不思議なやつでさ、何度か講義のときに席が近くになって、気になって話をするようになったんだ」
梶山の言葉が引っかかる。気になって……? それは違うだろう、梶山が気づく以前に向こうが狙いをつけたに決まってる。
「それは彼女のほうが先に、おまえに関心を持って近づいてきたからだろ」
え、と梶山は不思議そうな目でこちらを見た。
「それはないよ」
梶山は確信の口調で言い切った。いつもなら切れるほどに洞察力の高い梶山が、この件にはやけに
もどかしくなる。だが、なるべく軽口に聞こえるように明るい調子で訊ねる。
「本当にあの子、おまえの彼女じゃないのか? オレさ、松田に言われたんだよ。あいつがここで梶山の彼女っぽいのを見たから、見舞いに行くならぜひ確かめてくれってさ。オレはその確認をしに、わざわざ来たようなもんだぞ」
修哉の真意に気づいたのか、梶山はあいまいに笑い返した。
「そんなわけないだろ。水沢さんは俺を心配してついていてくれたんだよ。なにをそんなに勘ぐってんだ」
「さあなあ、でも松田はえらく気にしてたからな。髪が長くて、すらっとした子がそこに座って、おまえをじっと見てたって」
修哉は、窓側のベッドサイドに置かれた椅子を指さした。
「まあ、隠したいんならそれでもいいけどさ。ただ、オレらは長い付き合いだってのに、今さら教えないってのは、ちょっと引っかかるって言うていどの興味はある」
「言い分が長えよ」
口調は明るいが、表情は冴えない。迷いがある。小さく息を吐いて、梶山は言った。
「座れよ」と、さっきまで水沢遙香が座っていた椅子を指差す。
修哉はベッドサイドを回り、梶山の横に腰を下ろした。
こう言ったらなんだけど、と梶山は前置きして話し始めた。
「俺はなぁ、シュウ」
呼びかけておいて、こちらを見る。言葉に迷ってから言い放つ。
「昔から、特別と大切の差がよくわからない」
「——?」
言われた言葉の意味が飲み込めず、その思いが顔に出たらしい。梶山は修哉を見て、頼りなげな笑みを浮かべた。
「なんて言えばいいかな、なんとなく他のやつとズレを感じてた。どうしても話題になるだろ。好きな子とかさ」
俺にはそれがピンとこない、と言った。
「たとえば家族。大切だってわかる。自分のできることはやらないといけないし、やる価値のあるものだってわかってる。ずっと昔から、家族同然にしてきたおまえもそうだ」
シュウ、と再び梶山に呼ばれた。まっすぐに見られている。
無意識のうちに、修哉は左側にいるアカネへと気を向けていた。そして、出入り口の扉からすこし離れた場所で待機したままのグレにも、ちらりと視線を流す。
大事なことを言われる予感があった。それなのに、オレの
修哉の視線の揺れを認め、梶山はつられてグレのほうを確認するかのように目を向けた。だがそこに立っている死者は、梶山の視界には映らない。出入り口の、白いスライド式の扉が閉まっているだけだ。
とまどいがちに梶山は顔をこちらへと戻した。
もしかしたら梶山は、さっき出て行った水沢遙香か、飲み物を買いに行った
「だけど、特別なものとなると俺にはわからなくなる。いずれ皆、たったひとつの特別と一緒になるものだろ。選ばないと、次の家族にはなれないしな」
「オレだって、まだ……よくわからないってのは同じだよ。そんな未来なんか、この先どうなるかまったく予測つかないからな。それに恋愛とか結婚とかの、その先に家族を作るってのは、最終的には大切も特別も一緒になるってことだろ」
違うわよ、とアカネがつぶやくのが聞こえた。うるさいな、そんなのはわかってる。梶山が言いたいことはそんなことじゃないことくらい、本当はわかってる。
だけど誰だって、ひとつやふたつは悩みを抱えてる。一生かかっても解決できないと思える、深刻なものですら。
俺にだってある。この他人に視えないふたりはどうなる?
オレのことをよく知っていて、生死を預けるくらいには信用している。ときには生者以上に頼れる存在。死者が友人であるなんて——、いないはずの者と関わり合うだなんて、深く考えると重大な矛盾で行き詰まる。
いっそしゃべってしまおうかと思うが、こいつらは他人には視えない。視えない生者には死者からの実害はなく、いなくてあたりまえの存在に過ぎない。言っても誰も信じないだろうし、存在の実証もできない。
なのに死者と共にいるせいで、時にふつうならできないこともやれてしまう。現にさっき、アカネやグレの力を借りたばかりだ。他人からすれば有り得ない、本来ならすごく気持ちの悪いことに違いない。話せるわけがない。
近しい者の、共感を得られない孤独は理解できる。
オレはどうすりゃいいんだ。自分だけ秘密を隠し、公平な立場のままでいられるのか。一方的に梶山の悩みを知ってしまったら。打算だけが頭をよぎる。
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