北極星と逃走劇
「外に出られた。後は森に戻るだけだ」
深夜とはいえ、城の周りは衛兵だらけだ。少しの物音でも油断ならない。城から出る時は、門番二人をなんとかやり過ごし、小窓から庭へ飛び出したレジーナはきょろきょろと辺りを見渡す。この庭を抜けて城門を出れば、衛兵の数も減るだろう。
窮屈なコルセットを二度と着なくてもいい喜びが今更やってきた。姿勢を低くしたまま肩を回す。ちょっとしか着ていなかったドレスの感覚がまだ体中に残っていた。豪華な庭は、立派な樹木がたくさん植えられている。その木の影に隠れて移動しながら、出口を探す。
「母さん……」
頬に木の葉があたるたび、森の中での幸せな日々を思い出してしまう。けれど、もうあの優しかった母親はどこにもいない。
知らぬ間に恐ろしい魔女になっていたのだ。
いや、元々恐ろしい魔女だったのかも知れない。レジーナが知らないだけで、ローランはずっとずっと悪い魔女だったのかも知れないのだ。
「いや! 違う! 母さんも迷っているんだ!」
ぶんぶんと首を振って、暗い気持ちを追い払う。今まで見てきたものをなぜ信じられない? レジーナをアンナにし、自分がその母親に鳴ればずっと傍に居られる。なぜ姿を変える必要があったのかはわらかない。けれど、きっと母さんの中には作戦があるんだ。
やはり、一旦城に戻ろうか?
いやいや、待て。何故夜中に城を飛び出したのか忘れたのか、レジーナ! しっかりしろ!
ローランのことを考えるとぼんやりと思考が甘ったるくなってしまう。頬をぴしゃりと叩き、心を落ち着かせる。
「アンナを見つけるために、あたしは家に帰るんだ!」
アンナを見つけ、アンナの母親を救い、ローランと一緒に森に帰る。当初の目的を見失いかけていた。マサエの顔が浮かぶ。
冷たく光る月は糸のような細さだ。
アンナの母親は次の満月に処刑される。遅く見積もっても十日後といったところだろうか。一刻も早く森へ向かわなければ。
木から木へと、気配を殺しながら駆ける。体が軽い。アンナの体が贅肉に包まれていなくて良かった。と、なんとも失礼な安心をしてしまう。
ようやく城壁だ。あとはこの巨大な門を通り抜けるだけ。レジーナの背丈(体はアンナだが)の何十倍もある高い壁がそびえ立っているのだ。ここを馬車で通過したのを覚えている。出入り口は一カ所だけか?
辺りを見渡して衛兵の数と、出入り口を探す。
あった。門番専用の小さな出入り口。しかしそこを見張る衛兵が二人。
「仕方が無いのか……」
レジーナには戦闘経験が無い。しかし、「万が一のため」とオオカミに教えてもらった護身術を心得ている。不意をつけば二人くらい簡単にいなせるだろう。
アンナの体でそれができるかは不安だが。レジーナの体よりも華奢で、白く、傷一つない体に怪我を負わせたくない。
しかし、背に腹は代えられない。
一刻も早く森へ! 物陰から飛び出そうとした次の瞬間だった。
「全衛兵に告ぐ! アンナ王女を探せ。全衛兵に告ぐ!」
けたたましい大声が敷地内に響き渡った。激しい怒号とトランペットの音。警報だ。
「ローラン皇后陛下が悲しんでおられる! 探せ! 探せ!」
バタンと城の門が開き、そこからぞろぞろと衛兵がなだれ込んでくる。その先頭はあのけたたましい大声を出した男だ。彼が伝令役ということか。
長く考えすぎた。ここで二の足を踏んでいる場合ではない。門の近くにいた衛兵達が中央に向かって駆け出す。城の扉から流れた兵達と隊列を組もうとしているみたいだ。「しめた!」
音を限りなく立てず、門に近づく。森の中で妖精達と鬼ごっこをしていた要領で扉を素早く開いて体を滑り込ませた。
「そこのもの――!」
扉の向こうで声が聞こえた気がしたが、気が付かない振りをした。扉さえ閉めればこっちのもんだ。中は簡易的な事務室になっていた。机の上には紙の束が散乱している。三歩、四歩歩かぬうちに反対側の扉には辿り着けそうだ。
近くにあった木刀(護身用だろうか?)を背後の取手に差し込む。長い刃先が机の隙間に挟まる。これで強い力を加えないと扉は開かないだろう。それが大きくバウンドするのを横目で捉え、反対側の扉目指して駆けた。
ちょっとの時間稼ぎにはなるだろう。
思いっきり扉を開き、勢いそのまま外へ倒れ込む。
これでひと段落、だ。まだまだ気を緩めちゃいけないけれど。
そこは寝静まった城下町があった。石畳で作られた道。石で作られた大きな家々。色とりどりの看板。大きな噴水。全てが夜の闇に落とされてグレーに染まっている。絵本で見たような景色が目の前に広がっていた。
そんな幻想的な景色に色が加わり始める。城の騒ぎを聞きつけて民家に光が灯り始める。何人かは通りに出て様子を伺っているではないか。
ダメだ、見惚れていては。
ここはあたしの居るべき場所じゃないのだ。
体勢を立て直して、空を見上げる。アンナの視力でも充分夜空の星は見られる。
「あった、北極星!」
北を常に指し示す北極星はすぐに見つかった。カシオペア座とおおぐま座の星から延長した先にあるそれを確認した。
「アンナの家は……ここから南だったはず。あそこから何が見えた?」
必死に思い出す。あのミルククラウン家の窓から見た景色を。確か、山が見えたのは――、
「東の方向だ!」
北と南さえわかれば、残りの方角は簡単に分かる。弾かれたように飛び出したレジーナを止める者は誰も居ない。
「あれ?」「今のって」「いやいや、まさか」「お姫様があんなに早く走れるなんてナ」「城の警報は何だったんだろう」「ローラン皇后陛下?」「さぁ、明日になればわかるさ」「寝よう寝よう」
後ろの方で城下町の住民がざわざわと家に戻っていくのが分かった。波のようだ。
こんな風に王女の存在も簡単に諦めてくれれば良いのに。城の方はまだあの男の叫び声が聞こえてきた。
「ローラン皇后陛下が悲しんでおられる! ローラン皇后陛下が悲しんでおられる!」
あれもきっと、魔法で操られているんだ。レジーナは走りながら胸の置くの柔らかい部分が痛んでいるのがわかった。決して疲れではない、何かが押し寄せているのだ。
☆
「はぁ、はぁ……一休みだ」
一晩中走り続けるわけにもいかない。アンナの体が悲鳴をあげていた。やはりお嬢様の体のままでは走り続けるわけにもいかなさそうだった。ここで立ち止まるわけにもいかない。休める場所を探さなくては。
城下町を囲う柵を跳び越え、暫く進むと川が流れているのが見えた。城がさっきよりも小さく見える。
川を越えるまでの辛抱だ。追っ手が来たときの時間稼ぎだ。
ざぶざぶと膝まで入って、ようやく気持ちが良いと感じた。案外、底は足が取られやすい。用心して歩かなければ。太ももまで浸かる水は火照った体を冷やしていった。
川は山から城に向かって流れている。この流れに逆らって進んでいけば方角を見失わずに済みそうだ。
どのくらいの距離があるのかは分からない。二日で山を越えられれば御の字だろう。少しだけ歩いて、後ろを振り返る。手の平くらいの大きさになった城が見えた。ああ、遠いなぁ。でも、まだまだ近いなぁ。
「お腹減ったぁ」
夕食は喉を上手に通らなかった。無理してでも食べておけば良かったと今更になって後悔の念が押し寄せてくる。けれど、鳴る腹を抑えることは出来ぬ。
とりあえず川の水を少しだけ飲んで、それから考える。
「木の実とか野草とかがあれば完璧なんだけれど」
見晴らしの良い、手入れの行き届いた草原には高い木一本も見つからない。まだまだフルーゲル王国の領土ということだろう。危険な生き物が見当たらないのは幸いだった。
「……母さん」
寝っ転がって夜空を見上げると、思い出してしまうのはローランのことだった。
ローランのことは未だに大好きだった。ここまでレジーナを育ててくれたのは彼女だったのだし。いつもの優しい表情も、時折見せる厳しい表情も、全部大好きだった。
「母さんの幸せは、あたしの幸せなのになぁ」
なぜだか、あの時の、アンナの母親に無実の罪を着せた時のローランからは少しも母の面影が見えなかった。今まで結ばれていたと思っていた繋がりがなくなってしまったかのような、寂しさがあった。
悲しい気持ちは振り払っても振り払っても追いかけてくる。まだまだ混乱は続きそうだ。
「考えていても仕方ないのは分かっているけれど、それでも考えちゃうな」
「そういう時もあるよ、思春期特有のものにも聞こえるけどね」
「そうは言っても、頭から離れないんだ。どうしたらいいん――は?」
レジーナの独り言に、誰かが返事をした。
気が付くと、寝転んだすぐ右隣に同じように寝転んだ男性がいることに気が付いた。カヒュ、変な音が喉から聞こえた。
「な、な、な!?」
慌てて立ち上がり、間合いを取る。追っ手か? そんなに長い時間留まってしまっていたのか? ヒュツと吸い込むばかりになってしまった呼吸をなんとか落ち着けて、じろりと男を睨む。
「ちょっとお嬢さん! 小生は怪しい者じゃありませぬ!」
レジーナの殺気に気付いたのか、飛び起きてぶんぶんと両手を前に突き出して無害であるポーズをとる。
無造作に伸びた髪と、その間から見える切れ長の目。ツンと尖った鼻。軽薄に歪んだ口元。
「信用できないな」
「酷い! 今顔で判断しただろう!」
レジーナの心の声も届いたようだ。武器があれば対等に接することができるかも知れないが、残念ながら何も持っていない。それにこのアンナの体では少々頼りない。
相手はどんな人物かも分からないし、自分よりも体格が良い。隙を付いて逃げよう。ぐ、と足に力を込めて様子をうかがう。
「いやね、さっきお嬢さんが城から飛び出してきたところを見かけた一市民でしてね。心配になって付いてきたんですよ。ほら、こんな夜中に娘さんが一人街の外へ。危ないでしょ? ね、ね」
男はこちらが催促していないのにもかかわらず、言い訳がましく弁明を始めた。しかし話せば話すほどうさんくささは増していく一方だった。
何も言わず、じりじりと後退して男との距離を取る。ああ、弓でも剣でもなんでもいいから城から持ってくるんだったなぁ。なんて思いながら、目の前に集中する。突然襲いかかられたら何の抵抗も出来ないだろう。
「母さ――ローランの手先か」
「ローラン? そりゃ一体誰の話でしょうか」
すっとぼけ声がレジーナの神経を逆撫でした。焦っているのだ。
この得体の知れない、正体不明の男から一刻も早く逃げ去りたい。けれど、ここで情報を少しでも得なければ。
「あたしを追ってきたんだよね?」
「ええ、左様で」
このわざとらしくへりくだった態度も気になる。何かを隠しているのかは事実だ。
ここまでの違和感は二つ。レジーナはゆっくりと冷静に一つずつ聞くことにした。間合いをとりながら。
「街での騒ぎを聞いて駆けつけたと言った。なのにも関わらずローラン皇后陛下と叫ばれていた声を聞いていないのはどうしてだ?」
威圧的に、腹の底から極めて低い声を出す。アンナの声帯では限界があったが、少しでも凄みを出すためだ。
「へ? そ、そりゃあ……小生、耳が多少悪くてですね」
城下町の人々はあの伝令役の男の声と、トランペットの音で何事かと起き出していた。それを聞いていないというのはいささか奇妙な話だ。
「へぇ、じゃあ質問を続けるぞ」
これ以上掘り下げても何も出てこないだろう。レジーナは大きく息を吸い込んで、吐く。いつでも真後ろに飛んで、走り出せるように。相手にその気配を悟られないように、極めて冷静に。
「なんで濡れていないんだ?」
レジーナは自分のある程度乾いてきた、でも水気をまだたっぷりと含んだズボンを叩いて、言う。
こっちの違和感の方が、大きいのだ。
男の顔が少しだけ、歪んだ。彼の衣服は完全に乾いていた。
「川を渡らなければあたしを追いかけては来れない。反対側の村から来たか、それとも魔法か何かで飛ばされたのか」
城から飛び出したレジーナを目撃している、ことにしているならば前者の可能性は消える。ならば後者。全部出鱈目の興味本位で寄ってきた可能性もあるが。
ローランの息のかかった人物か、ただの気のふれた男か。もうどっちでも良い。
意表を突けたのか、男が息を呑む音。今だ。
貯めていた力を一気に解解放する。土を踏みしめ、姿勢を下げ、腕を真っ直ぐ伸ばして山の方へ走り出した。最初の瞬発力が大切なのだ。ここでどれほど体のエンジンを爆発させるかでどれくらいの速さで走れるかが決まる。
「ちょ、ちょっと!」
男の声が遠くの方で響くのが分かる。一気に距離を離したのだ。これで少しジグザグに走れば弓矢だって届かないだろう。
「まぁ、お話だけでもしましょうよ。大丈夫、あんたさんの母さんの手先じゃないですよ」
男の声が耳元で聞こえた。顔を傾ければさっきの軽薄そうな笑顔。笑顔のままレジーナと並走していたのだ。
今度こそレジーナは叫んだ。
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