第二章

悪夢の再会と、最悪の結末(上)

 フルーゲル王国の夫婦の掟

 一、夫婦は二人揃って王であるべし

 一、夫婦は互いを支え合うべし

 一、夫婦は互いを愛し合うべし

 一、夫婦は同じ寝室で寝るべし


「アンナ様、こちら本日の書類でございます」

「アンナ様、こちらがシュガルツ家からのお祝い、こちらがカカオッティ家からのお祝いでございます」

「アンナ様、父上様からの祝辞はどちらに飾りましょう?」

「アンナ様、昼食の後にはダンスレッスンがあります。それまでに書類は粗方片付けましょう」

「夕食前にはマナー講座も御座います。昨晩のテーブルマナーはそれはそれは酷かったとか」

「アンナ様」「アンナ様」「アンナ様!」


 何度ハイヒールを脱いで逃げ出したいと思ったか!

 日の出前に寝室になだれこんできた侍女と執事達は、キングサイズのベッドで爆睡するレジーナとアデルを引きずり出したのだった。

 夫婦は同じ寝室で寝なければならぬ。フルーデル王国の夫婦掟とやらは守らなければならないらしかった。

 これは夕食の際に皇太后(アデルの父親)が言ったことだった。レジーナにはよくわからなかったが、とにかくこのルールを守らなければならないらしい。それを拒否する必要もなかった。アデルは乱暴な男性ではない。レジーナが嫌そうな顔をするとすぐさまに、ハグもやめるような人である。

 アンナの母親、父親も同席しており、それはそれは楽しい夕食会だった。アンナの幼少期の話を聞いてアデルと共にクスクス笑った。

 レジーナは両親のことを心から好きになっていた。本当の父親と、母親のようだった。抵抗なく「お母様、お父様」と呼べた。ローランとは一緒に暮らしたい気持ちは本物だが、あの夕食が楽しかった事実も紛れもない本物だった。


 夕べはお楽しみに――というわけではなく、アデルの熱烈アタックを受ける前に気を失ったように眠ってしまったのだ。めまぐるしい一日に心はいっぱいいっぱいだったのだろう。

 目が覚めてもアンナの姿のままだったことから、何もされていないことにホッとした。でも、こんな毎日が続くとも限らない。何かの拍子で魔法が解けてしまうかも知れない。

 でも、魔法が解けても、もしかしたらアデルはあたしの事を愛してくれるかも知れない……そう考えては首を振った。アデルは、運命の出会いをしたアンナが好きなのだ。ちくりと胸が痛み、その痛みがなんなのか分からないまま、あっという間に寝間着からドレスに着替えさせられ、大広間に通された。


 そこからは、書類の山や献品のチェックなどの怒濤の仕事量に襲われた。城下町の、各支部の食糧の配分の決定。商人への税金の徴収の認定。国民の改善案リスト……。

 アデルは別の仕事は任せられているらしく、別室に移動している。「また昼食の時に会おう、アンナ!」ここからは一人で頑張るしかないようだった。

 広間といっても、両手を広げたくらいのサイズの机に向かわされているから広さなんて感じる余裕もない。机に積まれた書類を片付ければ少しは広く感じるのだろうか?

 羽ペンを持たされ、読んだ書類にサインを書いていく。

 時折投げかけられる執事からの嫌味に耐えながら、自分の(アンナの)サインを記入していく。

 アンナ・ミルククラウン。アンナ・ミルククラウン。アンナ・ミルククラウン。アンナ・ミルククラウン……。読み書きが出来て良かった。

 

「アンナ様、お目見えです」

「はい?」

 突然のいかめしい声に顔を上げる。ふわふわの絨毯の手触りを確認しながらお礼状に一言添えている最中だった。「この毛織物はとてもふかふかで、お昼寝しちゃいそうで……」(侍女は渋い表情を浮かべていた)。

 顔を上げると、老獪な執事が、片メガネを光らせて礼をしていた。お目見え、とは一体何なのだろうか。

 その執事の後ろからおずおずと出てきた人物には、見覚えがあった。


「母さん?」


 体のラインがぴったり浮き出る妖艶なドレスを身に纏った美女。それは紛れもなくローランだった。ちょっと俯いた顔からは、昨日の優しい母の姿ではなく、目にはギラギラと野望が燃えているのが分かった。

 あたしに内緒にしていた、作戦?


 レジーナが口を開こうとした瞬間に、ローランは大げさな身振りで泣き崩れた。

「ああ! アンナ! 私の最愛の娘! 本当に会いたかったわ!」

 広間いっぱいに響き渡るローランの声にギョッとするレジーナ。アンナ。確かに今アンナと呼んだ。レジーナ、ではなく。


「聞いたでしょう、執事様。母さんだと呼んでくれたわ。アンナは私の娘なんです。あの女が全ての原因です。魔女なんです!」

 あの女? 侍女達も戸惑っている。

 一体何が起こっているのかさっぱりわからないようだ。状況を理解しているのは、事の発端であるローランと、その付き添いをしている執事だけ。開いていくローランとそれ以外の温度差を、感じ取ってしまった。

 ローランは涙を流しながら執事に顔を向け、こちらまで悲しくなるような声で執事の上半身にすがりついた。執事は少々たじろいたが、表情は殆ど変えず、ローランを立ち上がらせた。


 一体、何が起こっているんだ? レジーナは驚きで声すらも出てこない。怒濤の展開に付いていくのが精一杯だった。

 立ち上がったローランのドレスの皺を直しながら、執事は再びいかめしい声を出した。

「ああ、ローラン様。貴方がアンナ様の本当の産みの親なのですね」

 その口調はどこかぼんやりしていて、どこか夢心地。心からそう思っているとは思えない声にレジーナは眉を潜める。

 ローランは演技がかった動作でレジーナに近づいた。ふらふらと、最愛の我が子と十年ぶりに再会したように。

 硬直するレジーナを抱き締め、みんなに聞こえるような声を張り上げた。

「アンナ、会えて本当に良かった。あの女にずっと騙されていたのね」

「母さん、何のことだかあたしにはさっぱり……」

 レジーナが口を開くと、ローランは凄まじい表情でレジーナを睨んだ。初めて出会った狼の表情を思い出した。恐怖で体がすくむ。しかし、ローランの言いたいことは分かった。(いいから黙って、私の言うとおりにしなさい!)


「アンナ様……あのう、お母様が……」

 レジーナの肩に顔を埋めて泣き真似をするローラン、ぼんやりしている執事、すくむレジーナ。そこに駆け込んできた侍女は一体何が起こっているのかもわからないような表情で、後方を見た。衛兵二人に引きずられながら連れてこられたアンナの本当の母親がそこにいた。

「一体、どういうことなの……」

 その光景に唖然とした。喉が渇き、水が欲しくなる。頭がぎゅううとしまり、一点を絞ったような視界になって、夢を見ているような気分になった。夢だったら、どれだけ良かったか。


 昨日まで煌びやかなドレスを着ていた母親の面影はまるでない。スカートの裾は破れ、頬に青あざがある。疲れ切った表情にほつれた髪の毛。一日で一気に老け込んでしまったようだった。


「アンナ、私が貴方の母さんだと言っておくれ」

 蚊の鳴くような声で、母親が縋る。レジーナはどうすればいいのかわからない。ローラン本当の母さんが傍にいるんだ。ローランはレジーナに抱き付いたまま、囁いた。誰にも聞こえないような声で。


「黙っていなさい。あの女は私達の幸せのために死ぬの」「死ぬ?」「アンナ、お願い。母様と呼んで……」


 ローラン、レジーナ、アンナの母親の声が重なる。ローランはレジーナあたしの母親だ。でも、アンナの姿のままみんながいるところでそれを主張したら、それは嘘になる。だってアンナの母親は衛兵に囲まれているあの女性だもの!


 あたしは今、どっちなの?

 自問自答しても、わからなかった。レジーナはレジーナであるはずなのに、それと同時にアンナであった。


「アンナ様! 奥様!」

 衛兵の肩口から、マサエの悲痛な声も聞こえてきた。今まで仕えていた主人がボロボロの状態になっていれば、それは心配にもなるだろう。心配どころか、もっと強い感情だ。不穏な、嫌な予感がする、そんな気持ち。短く呼吸を繰り返し、マサエは平静を保とうとしていた。


「アンナ、私が説明するわ。私はあなたを産んでから、ずっと森の奥に追いやられていたの。この女のせいで! 彼女はあなたの母親だと偽り、今までのうのうと暮らしていた。でも貴方の結婚式でようやく私は貴方に会おうと決心したの。これ以上あの女を、この子の母親としてのさばらせるのは我慢ならない。ああ、可愛いアンナ。私をもう一度母さんと呼んでくれ……」


 ローランは涙ながらに語り、そしてレジーナに縋ってくる。誰もがその話を信じ込んだ瞬間だった。マサエは口元を抑え、わなわな震えている。アンナの母親は力なく項垂れ、否定することすらしなかった。


「そんな」

「アンナ、いつも通り私を母さんと呼んで」

 ローランの囁き声。レジーナはそれに反応するように「母さん」とぽろりと呟いた。勝手に舌が転がって、勝手に喉に空気が送り込まれた。魔法で言わされたんだ。こんな風に魔法で強制されたのは初めてだった。

 怖い。母さんローランが何を考えているのか分からない。母さんは、あたしレジーナの母親であるはずだ。


 アンナの、じゃない。それなのに、ローランの口ぶりは、まるで元々アンナの母親だったみたいじゃないか!

 本当は、そうなのかもしれない。アンナの母親が魔女なのかも知れない。ローランは、偶々魔女だったのか。


 じゃあ、あたしは誰?


 短い時間で考えすぎて頭が痛くなってきた。いくら考えても答えが出ない。答えを出したくない。アンナは、レジーナは誰の子供で、誰の幸せを生きているのだろう。

「ほら、アンナは私の娘です。執事様も聞かれたでしょう?」

 勝ち誇った顔で、ローランは執事を見た。油の切れたロボットのように、執事は鷹揚に頷いた。

 それを見た侍女達は驚きで息を呑むのが分かった。一人、二人と広間を抜けだし、とうとう侍女全員が広間からいなくなった。アンナの母親の話は噂話となって城中を駆け巡るだろう。


 わかったぞ。執事も、衛兵も魔法で操っているんだ。その証拠に、執事の片メガネの反対側の目と、衛兵の兜の置くから覗く瞳が全く同じだったから。同行が広がっているのに暗く淀んで、光が入っていない。特徴的な目だった。

 アンナの母親は衛兵に囲まれながら悲しそうな表情でレジーナを見つめている。

「アンナ、お願い、騙されないで」

 母親の悲痛な声。しかし、彼女が口を開く度に、衛兵は「黙れ!」と強く彼女の身を引き上げた。小柄な母親は、背の高い衛兵に引き上げられ、苦しげな声を漏らす。痛そうだ。


「あの女は魔女よ! 私とアンナを引き離して……おお、恐ろしい!」

「そうか、ミルククラウン家は魔女によって惑わされていたのですな」


 ローランの言葉にいちいち頷く執事。全部操られているんだ! そんなことを言うなら、魔女はローランの方じゃないか! レジーナが口を開こうとする度にローランが凄まじい顔で睨んでくる。恐怖で否定すら出来なかった。胸がぎゅううと痛む。もうここにいるのはほとんど魔法に掛かった者ばかり。レジーナが何を言っても、その声は届かないだろう。


「……ご主人様はどちらに」

「ここだ」


 ここで動いたのがマサエだった。意を決したマサエの声にすぐさま応答したのは低い男の声。父親だ。あの豪快に笑う顔とは別人のような冷めた表情。

 沢山の勲章を揺らして登場した彼は、衛兵の間にいる妻には目もくれなかった。

「辛かったでしょう。ずっと魔法にかけられていて」

「ああ。余もそれに気付いたのは昨晩だ」

「貴方!」

 ローランがレジーナから離れ、父親にしなだれかかった。ローランの腰を抱く父親。その動作にはまったく躊躇も見られなかった。

 ガシャンガシャンと大きな音がして、アンナの母親は衛兵の固そうな鎧に挟まれる音がした。レジーナの心はぎゅうと痛んだ。

 アンナの母親は紛れもなく、鎧に挟まれた彼女だ。父親も執事と同じような目つきをしている。とろんとして、ローランの言葉にうなずき続ける傀儡。魔法だ。

 こんなことをして、一体何になるというのだろうか。ローランはアンナから母親を奪い、何がしたいのだろうか。

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