走れ、チャカポコ
「アンナお嬢様、今日はどうかされたのですか?」
あっという間に馬車の中。あのシロツメクサのドレスのまま、レジーナは馬車に押し込められた。
マサエが向かい側に座り、今にも怒り出しそうな、でもちょっと心配しているような複雑な表情でレジーナを見つめていた。さっきよりも小綺麗にしている。
これから王子、という人物に会いに行くからだろうか? 馬車の中は案外居心地が悪く、馬が小石に躓く度に車体が大きく揺れた。
「あたし、いつも通りじゃない……かしら?」
ようやく「レディらしく」という言葉が脊髄まで染み渡ってきた頃。レジーナは強ばった表情のままマサエを見返した。レディらしくしなければ、アンナでないことがバレてしまう。そうしたら、どうなってしまうのだろう。ローランの魔法によってこんな事態になっているのだ。
それが彼女の耳に入ってしまえば、どうなるのか。
リーダーになるのは、どうやらレジーナの実力というよりかはアンナの外見のおかげらしいことがわかってきた。レジーナの粗雑な振る舞いでアンナの美貌を損なわせてしまうかもしれない。
そう思えば思うほど、行動はぎこちなくなっていった。あたしの、ありのままの姿でリーダーになるというわけではなさそう。今までの会話の中でそれがわかった。
「寝ぼけているのか分かりませんが、もっと堂々となさって下さい。……けれど、王子様の前では乙女らしく。乱暴な口調もプライベートな空間だけにして下さい。アンナお嬢様を見る全ての国民が、美しい、たおやかなレディであると思えるような行動をなさってくださいな」
「そんな、一気に言われても難しいなぁ」「弱音は人ではなく、日記に書くものです」
ぴしゃりとマサエに言い放たれて、レジーナは口を噤む。もう何をしても、何を言っても小言を言われそうだ。レジーナの行動・言動は、ただ背筋を伸ばして小さく微笑むくらいしか残っていなさそう。
窓から景色を楽しむこともままならない。締め付けられたコルセットで息が思うように出来ない。朝食の時は緊張や驚きでそれどころじゃなかったけれど、段々冷静さを取り戻してきたら、五感がどんどん蘇ってくるのがわかった。苦しい、もっと自由に動きたい。それが今のレジーナの心からの叫びだ。
馬が石につまづくたびに、車体が大きく揺れる。ぐわりと揺れるたびに、今朝の朝食が飛び出さないか心配してしまう。
「まず王都についたら、お召し替えをなさって下さい。その次に、婚礼の儀を行い、その後に国民へのお披露目会があります。わたしが同行できるのは婚礼の儀まで……残りは王都の侍女が引き継ぐ手はずとなっております」
すらすらと読み上げられる今後のスケジュール。レジーナは若干青い顔をしながら頷く。「ええ」なんて相槌を打てば、その吐く息で余計に肺が小さくなってしまいそうだ。
「あの中にオヒメサマが入ってるのかな?」「こらっ。聞こえたらどうするの!」「お母ちゃん、おんぶ」「今日は祝日だよー! 我が国の第二王子様の結婚式だ!」「町中でお祝いしよう! おめでとう、王子様! おめでとう、王女様!」「聞いた? 噂の王女様、舞踏会で王子を見初めたそうよ」「まぁ、ロマンチック!」「なんでも、貴族の出だとか」「ふうん。どんなに美しいのか、見物ね」
ざわざわと会話が聞こえてきた。会話なんて規模じゃない。もっとたくさんの人の、もっとたくさんの言葉のざわめきだ。
馬車が揺れる度に感じていた苦しみがだんだん和らぎ、呼吸の仕方も上手くなってきた。
アンナの体はレジーナほど頑丈ではなかったが、それなりに順応能力の高い身体のようだ。
馬車の側面に取り付けられた木の格子の向こうには、石畳と巨大な家家が見えた。
「なんだあれ? 石で作られているのか?」
思わず声が漏れてしまう。アンナの住んでいる屋敷ほどではないが、その半分くらいの大きさの家がずらりと立ち並んでいる。
その玄関付近にたくさんの人が押し合いへし合い馬車の中を一目覗こうと首を伸ばしていた。あの言葉のざわめきはそこから聞こえているようだった。
「アンナお嬢様!」
レジーナの呟きに真っ先に反応したのはマサエだ。きっと鬼の形相でレジーナを睨みつける。ああ、レディらしく、レディらしく。肩をすくめて返事をすると、そのままついっと目線を格子の外へ向けた。
まず目がパチリと合ったのは、マサエくらいの年齢の女性だった。布頭巾を被り、まんまるな目でレジーナを見つめていた。
「やだっ。目があっちゃった」「あんた、ラッキーじゃないか」
人だっ!
たくさんの人、人、人。馬車がぺしゃんこに潰れてしまいそうなくらいのたくさんの人!
妖精が、ローランが、言っていたあたしと、
こんなにも顔つきが違うのね。こんなにも体の大きさが違うのね。こんなにも、たくさんの声色を持っているのね!
感動で言葉が詰まってしまう。信じていなかった噂話が全部一気に本当になった気分。そこからは小さなため息が出るばかり。
瞳は輝き、全員の目を、顔を見ようとレジーナは身を乗り出した。
なにか、返事をしなくちゃ。でも、何か声を出したらボロが出てしまうかも。そう考えてレジーナが取った行動はちょっと微笑をたたえて軽く手を振るのみだった。
「マサエさん。こんなにもたくさんの人がいるの、あたし初めて見たよ」
「まぁ、お嬢様ったら」
レジーナの言葉にマサエも息をのむ。しまった。アンナはこんな人だかりなんとも思っていないかもしれない。言ってから後悔したが、マサエの表情を見てその後悔は無くなった。驚きは残ったが。
「お嬢様。アンナお嬢様。ああ、森の中の屋敷でさぞつまらない思いをしていたでしょうに。ああ、ちょっとでも街に連れ出していればよかった。ああ、お嬢様」
マサエのまんまるな目からぽろぽろと涙がこぼれ落ちていたのだ。自分の言葉の後悔は、アンナになりきれていないのではないかというものから、マサエを悲しませてしまったことに転換した。何か、悲しませることを言っただろうか?
「泣かないでくれ……泣かないでちょうだい。あたしまで悲しくなって、きちゃうわ」
たどたどしい、慣れない口調に苦戦しながら、レジーナはマサエと突き合わせた膝の頭をちょこんと触る。人が悲しい時、必要になるのは他の人の温もりだ。
「お嬢様。おやさしく育ったのですね」
どこからかハンカチを取り出して、ズビビと啜るマサエ。レジーナの手を取り直して、ぎゅうと握り込んだ。その手の皮膚は荒れて硬くなっているものの、暖かく、それでいて安心する。
「お辛いことがあったらいつでも手紙を出して。マサエはいつでも駆けつけますからね」
真っ直ぐな視線で言われ、レジーナの心はぽかぽかと温まりだした。素敵な家族を持っているのね、アンナは。それを取り上げてしまっているような気分になって、胸の奥がちくりと痛んだ。
「立派なレディになるわ。だから、いつでもあたしを見守っていてね」
でも、ごめんねアンナ。あたし、母さんと幸せになりたいからこの体をもらうね。
会った事もないアンナのことを考えて、レジーナは目を閉じた。きっと、アンナもどこかで幸せになっていることだろう。もしかしたら、レジーナの体に入っているのかもしれない。
レジーナは母との再会だけを夢に見ながら、マサエの手を握り返した。
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