第4話 戦闘少女

「何なんだ、アレは……!」

 今、目の前で見た光景が信じられず、長く艷やかな黒髪を頭の両サイドできれいに縛った華奢な少女は一連のことに戦慄した。

 ひとりの奇妙な服をまとった男が、無詠唱・無動作のままに魔法を発動したことまではわかる。

 だが、その術のなんと強力なことか。

 話には聞いたことがあるが、周囲の地形を変えてしまうほどの魔法なんてこの目で直に見たのは、これがもちろん初めてのことであった。

 その威力は凄まじく、中型の魔物を数体、そしてドラゴン級のそれを一体、問答無用で消し飛ばしてしまった。

 文字どおりのだ。相手を“倒した”のではない。その存在を――否、周囲の地面までをもまとめて――消滅させてしまった。

 跡形も一切残らないほどに。

 魔法が使えるユナには、対する魔物の魔力量が離れた位置からでも正確にわかっていた。簡単な相手ではない。特にドラゴン級は、好調時のウェイランであってもすぐに勝つことは難しかったろう。

 ――それを、あんな適当な魔法で……

 もうひとりの男は、魔術の構成を理論どおりに綿密に構築した様子は微塵も見られなかった。むしろ、自身の膨大な魔力をただぶつけただけのようなものだ。

 呆れると同時に、一方では自分が彼の監視役を命じられた理由もこれでようやくわかった。

 アレは、放置しておいていい存在ではない。場合によっては、この国=カーディリア王国に仇なす存在になるやもしれぬ。

 最初は嫌々の任務ではあったが、自身が任命されたことに納得せざるをえなかった。

 ――若手のホープであるこの私が。

 自分でホープと言ってしまうあたりこの娘の性格も相当にアレなのだが、それはさておき、地面に伏せていたユナは白い服についたホコリを静かに払いつつ身を起こした。

 命じられたのは監視だけではあるものの、まさにこれだけのことが起きたからにはすぐに“本部”へ報告しなければならない。《念話》の魔法が使えるといいのだが、ここで余計なことをして相手に気づかれたら今後のことに差し支える。

《瞬間移動》の魔法も論外だ。

 そこでユナは短い詠唱のみで《加速》を発動させ、普段の倍以上のスピードで街へと引き返すことにした。現在いる“北の荒野”から有力騎士ケイディン伯の領都コーンウェルまでは、普通ならば馬でも半日かかるのだが、これならば数刻で到着するだろう。

 走っている間にいろいろな思いが込み上げてくる。初めは、なんで訳のわからない任務で見ず知らずの相手に密着しつづけなければならないのかと疑問ばかりがあったが、今は自分に相応しい、難易度の高い任務だと感じはじめていた。

 それにしても、なぜ突然あんな人物がこんな辺境の地に現れたのだろうとも思う。王都メイディルから離れているものの他国との交通の要衝であるだけにそれなりに発展しているのは事実だ。

 だが、あれだけの人物に特別な用があるとも思えない。あくまで通りすがりなのだろうか。あんな“嵐”のような人間が身近な場所を通り過ぎるというのもぞっとしないが。

 だが、疑問はケイディン伯にも向けられていた。いったい、どうやってあの男の動向を察知したのだろう。

『北の荒野で、ウェイランのそばにいろ。そうすれば奴は来る』

 伯の密偵部隊“暁”を率いるコウイーはそう言った。思えばおかしな話だ。なぜ、対象があの場所に《瞬間移動》でやってくるとわかったのか。

 ユナはかぶりを振って、余計な思考を振り払った。内部の詮索をすることは密偵の本来の役割ではないどころか、明確に禁じられていることだ。

 ただ淡々と任務をこなす。それが一流のやり方であった。

 ふと気がつけば、すでにコーンウェルの近くまでやってきた。ユナは息が上がった様子もなく、そのまま跳ね上げ式の正門のほうへは向かわず、誰もいない簡素な壁のほうへ突っ込んでいく。

 まだ《加速》の魔法が有効であることを自身の魔力の流れから感じ、壁の手前で一気に下肢に力を入れた。

 硬い地面がえぐれるほどに強く蹴り上げた少女は一瞬で空中に浮かび上がり、軽々と城壁を飛び越えていく。

 見張りの衛兵らは気を抜いていたわけではなかったが、ほんの刹那のことに誰も気づいていない。

 ユナはそのまま路地裏に入ると見すぼらしい一軒家にサッと入り、周囲に誰もいないことを確認してから床板の一画を外して地下道へと入った。

 そこは、密偵と領政府の一部の者しか知らない秘密の抜け道だ。ここを伯領政府の庁舎でもあるコーンウェル城へ向かえば、自然と暁の本部のある塔にたどり着く。

 慣れた道はあっという間だった。通路とは異なり重厚な石段が設置された突き当りを勢いのままに駆け上がると、そこには一部の同僚と、隊長であるコウイーがいた。

「やっぱり、すぐ戻ってきやがったか」

「やっぱり? どういうことです」

 横柄な態度で、手入れのされていない髭をかきながら言うコウイーにユナは問うた。

「何かあったんだろ? 対象に」

「ええ、まあ。実は――」

「いや、報告はいい。どうせまた魔力を暴走させたんだろ」

「また?」

「そんなことより、出るぞ。“表”の仕事だ」

「表?」

「くわしいことは道々話す」

 そう言って颯爽と立ち上がったコウイーを見て、ユナが年相応のかわらしい悲鳴を上げた。

「ズボンくらいちゃんとはいてください!」

「おっと。ちょっと暑かったからな」

 少しは恥ずかしかったらしく、あわててベルトを締める。

 両手で顔を抑えつつ指の間からチラチラ様子をうかがっているユナはともかく、盛大なため息をついたのは後ろで控えていた細身で金髪の男、クートーであった。

「そんなことしてるから、女性の隊員が減っていくんですよ」

「これも訓練のうちだ。この程度のことで動揺していたら密偵として問題があるだろ」

「くだらない詭弁はよしてください――まったく、そんなんでよく結婚できましたね」

「男の価値は、中身とで決まるんだよ。ついでに、ベロの使い方な」

「はー、またスタッフが減りそうだ」

 呆れ果てた様子でうなだれたクートーは主を置いて、さっさと外へ行ってしまった。有能な副官は、先に準備を進めておくつもりなのだろう。

 遅れて、のっそりと動きだしたコウイーに従いつつ、ユナが口を開いた。

「で、どういうことなんです?」

「股間の話か」

「違いますっ!」

「なんだ、ベロのほうか。ディープキスというのはだなぁ――」

「蹴り飛ばしますよ。奥様の許可は頂いております」

「わかったわかった、悪かったよ。まだ《加速》が効いてる足でやられたらたまったもんじゃない」

 コウイーは机の上に置いてあった書類をまとめて、器用に投げて寄越した。

「これは……?」

「まあ、読んでみろ」

 言われるまでもなく、ざっと目を通していくユナの表情が目に見えて険しくなっていく。彼女と付き合いの長いクートーがこの場にいたら、真っ先に逃げ出していただろう。

ですか」

「そう、また“独立派”の連中だ」

「独立派というより共和派でしょう」

「同じことだ。国が認めるはずないんだからな、共和制を。必然的に独立するしかなくなる」

 ため息をつきつつコウイーは歩を進め、やや狭い通路を抜けていく。

 今現在、ここカーディリア王国では各地で“民主化”を求める人々のデモが頻発していた。元々は貧しい者たちがその不満から騒いでいただけであったが、そこへ一部の貴族やら学者やらが合流し、しかも政治的に厄介なオーディ教の神官たちまで加わるようになった。

 正直、最近は歯止めが効かなくなっていると感じる。それほどまでに、この国は多くの問題を抱えすぎたのだ。

 へたに弾圧をすれば爆発しかねない。だから、自分たちのような下っ端が駆り出されて、現場で人々をなだめすかすしかないのだ。

「相手の言い分に一理あるだけに難しい」

「隊長でもそう思うんですね。かといって認められない」

「一度認めてしまったら『自分も自分も』って連鎖していくからな」

「じゃあ、今日はどうするんです?」

「いつもと同じだ。なんとかごまかして帰らせるしかない」

「不毛なことを」

「じゃあ、他に手があるか?」

 返事はない。こういったときに打てる策が乏しいことは、誰もが理解していた。

 二人で外へ出ると、予想どおりクートーがすでに一連の手筈を整え、他の者たちも準備を終えていつでも出立できる状態であった。

 外套の位置を少し直したコウイーは余計なことを言わず、ただ『行くぞ』とだけ声をかけて馬に飛び乗る。ユナをはじめ他の隊員もそれに従った。

 目立つわけにはいかない存在だ。総勢15名ほどとなったコウイー隊は衛兵や騎士しか使えない狭い門を通り抜けて城壁の外へと出て、進路を一路、北方の町レゴスへと向けた。

 レゴスはここコーンウェルとは異なり、農業や植林が盛んな土地柄だ。本来なら争いや暴動とは無縁の平和というより平凡な地域であったのだが、そんなところにまで“変化の波”は訪れているのだった。

 不穏な空気を感じているのは、もはや役人だけではない。多くの者が危険を察知し、中でも商人はすでに販路を変えはじめているという。致し方がないとはいえそれらの対応が結果として特定の地域を苦しめ、さらに人々の不満を高めることにつながっていく。

 最悪の悪循環であった。

 知らずしらずのうちに眉根を寄せてしまっていたユナは『いけない』とつぶやきつつ、眉間を指先で撫でてしわを消そうとした。

「ところで、今回はどれくらいの大きさなんです?」

「俺の股間がか? そうだな、前腕の長さを基準にすると――」

「なんの話ですかっ!」

「なんだ、ベロのほうか。いろんな意味で“馬並み”とだけ答えてお――」

「……集会の規模です」

「馬上で器用に蹴るんじゃない――そうだな、まだ小規模なはず、だが」

「やけに歯切れが悪いですね」

 コウイーは、器用に片方の眉だけ上げてみせた。

「各地に放った密偵には、少しでも何かあったら報告するように伝えてある。今回も早馬を出しておいた」

 つまり、詳細を確認する前に出発している。こういったことは早めに対応しないと手遅れになるからだ。

 それについてはわきまえていたユナであったが、表情が一気に険しくなっていく。

「まさか、その早馬って……」

「そうだ、スクーザだ」

 ユナは頭を抱えたくなった。否、抱えた。

 よりによって奴がこちらへ来ているというのか……

「それで、アイツは……?」

「すぐに折り返して戻っていったよ。俺たちが着く前に情報を集めてまとめておくつもりなんだろう」

 根はまじめだからな、と付け加えたコウイーの言葉は顔をしかめるユナの耳には届いていなかった。

 とにかく近くにいないのならこれでよしとすべきか。しかし、あとで“問題児”が確実に待ち構えているかと思うと、ひたすらに憂鬱ではあった。

 悶々とした思いを抱えたまま馬を進めるうちに、一行は目的地の町の一角が見えるところまで近づいていた。景色とは裏腹にまだまだ現地までの距離はあるのだが、隊がそこまで近づく必要はなかった。

 人々の集団がその手前で騒いでいるからだ。

 コウイーは無言のまま、サッと片手を上げた。すると、音もなく全員が同時に馬の歩を止め、次の命令を静かに待った。

 隊長が目配せで馬を降りるように指示したのは、ベテランの隊員であるウォードと、隣りにいるそしてユナであった。

“相手”を刺激しないためであろうとその意図を汲み取った二人は何も言わず、そのまま前方へ進む。

 視線の先にいる者たちは興奮しているのか、ユナたちに気づいた様子はない。

 少し躊躇した様子の髭面のウォードにかわり、ユナがさらに接近する。

 周囲の声に耳を傾ける。

『領主の横暴を許せない……』

『東方のケインズでは蜂起が成功した……』

『共和制こそが真の法……』

 声高に叫びつつも、結局はいつも同じことを言いつづけている男たちに心底うんざりし、わざとらしく盛大にため息をついた。

 ――この人たち、本当に自分の頭で考えているのだろうか。

 実際は、受け売りの言葉をくり返しているだけ。それを考えたに利用されているだけなのだろうと思うと、少し憐れに感じる。

 ――きっとこういう連中は、最後まで自分が何者か気づかない。

 もう一度あえて嘆息すると、ようやく大柄な若い男が振り向いた。

「あぁん? なんだ、オメェは?」

「あんたたちこそ、ここで何してんの? 迷惑だから、さっさとおうちに帰ってくれる?」

 かわいらしい娘の、その顔に似つかわしくないトゲのある言葉に場は一瞬静まり返り、そしてすぐに爆笑の渦が巻き起こった。

「なっ、なんで嗤うのよ!?」

「おうちに帰るのはお嬢ちゃんのほうだろぉ? ほら、暗くなる前に帰りなちゃ~い!」

 再度、男が言うとさらに笑いの波は周辺に広がっていく。

 気がつけばユナの白いはずの顔は、あっという間に真っ赤に染まっていた。

「もう! いい加減にしないと、強硬手段に出るよ!」

「強硬手段んんんんン? いいねえ、見せてくれよ。力づくって奴をよぉ」

「……わかった」

「待つんだ、ユナ」

 本当に魔力を高めはじめた少女に急ぎ声をかけたのは、ずっと隣にいたはずのウォードだった。

 顔に似合わず小心者の彼は、あからさまに動揺している。

「何よ、ウォード!?」

「戦いに来たんじゃないだろう。本来の役目を思い出すんだ」

「こういうバカどもには、一度痛い思いさせてやればいいのよ」

「どうしてそういう思考になる……。とにかく、ここは任せて。今は話し合うべきときであって、争うときじゃない」

「僕もそう思うよ」

 ウォードのもっともらしいが弱気な主張に同意したのは、ユナでも後方の味方でもなく群衆の中にいるほうの人物であった。

 前に進み出て先ほどの男の腕を掴んだのは、端正な顔立ちをした男だった。

 ――おっ、イケメン。

 反射的に相手の姿を値踏みするユナは、冷静に分析もしていた。あまりこの辺で見かけないタイプだ。異国の出身かもしれないが、もうひとつ別のことを感じてもいた。

 ――あの男、ターゲットと雰囲気が似てる?

 造形のクオリティと存在感は段違いだが。

 一方的に里都のことをディスったユナはそのまま、じっと男に目を向けていた。

「みんな、争いを避けるためにここに集まったんだろ? 一時の感情に流されてどうする。それに――僕たちじゃ彼らに勝てないよ、正規の兵士には」

「リック……」

 そう呼ばれた男が少し語りかけただけで辺りは静まり返り、皆、次の言葉を待っている。

 ウォードとユナもまた、我知らず黙って彼に注目していた。

「王国の方ですね。我々は“青旗団”の者です」

「やっぱり……何が狙いなの? どうせまた暴れたい口実に独立がどうとか――」

「それで、今回の集会の目的はなんです?」

 再びケンカ腰の少女の口を無理やり塞いで黙らせ、二人の会話に割って入った。

 なんで短気なユナを使者にしたんだと恨めしい気持ちを抱えたままチラリと後ろを見やると、隊長のコウイーはニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべている。

 余計に腹が立ちつつ、ウォードは相手の言葉を待った。

「目的も何も、お返事がまだなのですが」

「返事も何も、独立に関しては領主は何も交渉しません。正当な支配権があるのですから、それに異を唱えるほうがおかしいでしょう」

 ウォードの冷静な言葉にも、周囲にいる民衆は色めき立つ。

 それを片手を上げただけで制し、リックと呼ばれた男はこちらも表情を変えないままに応じた。

「それについてですが、過去にこのソリュードの民やその長がカーディリア王の権威を受け入れたことはありません。かつてこの地を支配した隣国から譲渡されたときも同様です」

「そういったことを言い出したらキリがないでしょう。事実上の支配です。あなた方がそれを受け入れたからこそ、税の支払いにもこれまで応じてきたのでは?」

「同意したのではなく“恐怖”のためです。あなた方が行ってきたことを我々は忘れません」

「……堂々巡りですな。統治を妨げ、他の民の迷惑になったからこそ動いただけなのですが」

 互いにしゃべればしゃべるほど険悪な空気が広がっていく。それは周囲に伝播し、確実に人々の怒りの炎をたぎらせつつあった。

 ウォードのおかげで頭が冷えたユナは、ひとつ咳払いをしてから間に割って入った。

「無駄だよ。お互いにどうしても相入れない部分があるんだから、話し合いでどうにかなるもんじゃない。こういうときはね、要求だけはっきりと伝えればいいの。『早く家に帰れ』ってね」

「しかし……」

「そうしなければ、私たちもここを動かない。すると、何も変化がない。それであなたたちがいいなら勝手にすればいい」

 眼前の民衆が色めき立つ――ことはなかった。彼らもわかってはいるのだ、ここで暴れるだけではたいした変化は得られないことを。

 それでも、ユナは肝心なことを失念していた。

 

 つまりは、もはやあまり理屈が通じなくなっているということ。感情的になった存在に冷静な判断などできるはずもなかった。

 異様に静かになった周囲にウォードが異変を感じたときにはもう、人々の様子は一変していた。


 敵意、敵意、敵意。


 未だ動きはなくとも、ひとつの塊となった憎悪があたかも奔流のごとく押し寄せてくる。

 反射的に剣の柄に手をかけようとしたベテラン兵士をそっと押さえてみせたのは、少女のユナではなくリックという名の男だった。

「少し話があります。よろしいですか?」

 静かな声音ではあったが、そこには不思議と有無を言わさぬ一定の迫力があった。それを感じたのは当のウォードとユナだけではない、仲間であるはずの民衆も無言の圧力を感じ、誰一人、不満の声を上げる者はなかった。

 腕を掴んでいるわけではないというのにウォードを引っ張るようにして男は先へ進む。ユナが気になったその先には、コウイーたち他の隊員らがいる。

 ――自分から敵の真ん中へ行こうというの?

 無茶なことをする、とも思うが、何かを企んでいる感じはしない。

 ――味方から離れたがっている?

 まさかとは思うが、その意外としっかりと鍛えられた様子の背中は味方の干渉を拒んでいるようにも見えた。

 待ち構えるコウイーらが口を開くより早く、リックが先に言葉を発した。

「あなたがコウイー隊長ですね」

「よく知っているな、会うのは初めてのはずだが」

「以前からお見かけてしていますよ、僕はずっと“コレ”に参加しているので」

「ああ、そういうことか。じゃあ、なんで今日は前に出てきたんだ?」

「危機的状況だからです」

「そういう状況をつくっているのは、そちらだと思うんだけどな」

 コウイーがあからさまに挑発するものの、リックという名の青年は取り合わなかった。

「そういうことを言っている場合ではないでしょう。今、この状況は必然だと思っています」

「ほう?」

「人々の不満が高まりすぎました」

 政治の失敗、重い税、人々の自立する意識――そういった物事が一体となって、大きな流れをつくった。

 それに抗えば、氾濫を起こすだけだ。

「このままでは最悪の事態を引き起こします。それだけは避けないと」

「最悪の事態ぃ? そんなの――」

「隊長」

 ふてくされたような態度を取りつづけるコウイーに冷たい口調で言ったのは、副官のクートーだった。

 気がつけば、他の隊員も静まり返っている。

「わかったわかった、相手は話の通じる奴だからちゃんと応対しろってんだろ? まったく、洒落の通じねえ奴ら……」

「この場に洒落なんて必要ありませんが」

「わかったって」

 渋々相手のほうに向き直ったときにはもう、リックは顔に苦笑を浮かべていた。

「有能な方を部下にお持ちで」

「そう思うか? 不遜なんだよ、こいつらは。全っ然、隊長を隊長とも思ってねえ」

「自業自得です」

「うるせえ、クートー。――ンなことより、あんたはこれから本格的な暴動になるかもしれねえって感じてるんだな」

 いきなり核心を突いてきたことに驚きながらも、リックははっきりとうなずいた。

「はい、この流れは止められません。一度火がつけばかならず被害は大きくなる、お互いにとって」

「それで、こちらに譲歩しろと」

「まあ、そうなんですが、厳密にはあなた方に決定権はないでしょう。領主、コーンウェル伯にかけ合ってもらいたいんです」

 馬から降りたコウイーは、盛大に嘆息してみせた。

 言いたいことはわかるが、根本的に無理がある。そもそも領主の側に問題を解決しようとする意識は弱い。否、問題とすら認識していないのだ。

 何を言ったところで無駄だろう。

「あんたは全部わきまえたうえで言ってるみたいだな」

「やはり難しい?」

「領主に交渉の余地はない。だから、俺たちがここにいるんだ」

「あなたも時間稼ぎしかできないとわかっておられるようだ」

「ああ、強硬策もない。たとえここでひとり残らず倒したとしても、次は十倍、二十倍と増えていく。へたしたら、国を揺るがす大事を俺たちがつくってしまいかねない」

「だからこそ、なんとかして領主、というよりその取り巻きを説得してください。見せかけだけの譲歩案だけでも構わない、とにかく時間をかせぐ必要があるんです」

「その取り巻きが厄介なんだけどな……」

 コーンウェル伯の判断を左右する高官たちは、実のところ民のことなどこれっぽっちも考えちゃいない。いつものように見下すだけだろう。そんな奴らが相手に譲るはずもないのだ――特に、自分たちが優位にあると思い込んでいる今は。

「そっちこそなんとかできねえのかよ」

「時間稼ぎしか無理です。元々、自分は他所者で、こころの底から信用されているわけじゃない。第三者の冷静な意見を聞くために都合がいいから置かれているだけです」

「そうか。じゃあ、これからどうするつもりなんだ」

「民衆を王都へ向かわせます」

「おいおい!」

 コウイーだけではない、隊の面々が色めき立つ。

 ユナもその例外ではなかった。

「ちょっと! そんなことしたら、それこそ大ごとになっちゃうでしょ!」

「時間稼ぎのためです」

 リックの口調は、これ以上ないほどキッパリとしたものだった。

「王都へ向かうという別の目的を与えれば、少なくとも到着までの時間は大人しくするはずです。そうでなければ、肝心の王都に着けなくなってしまうから」

「それはそうだけど、もし各地に飛び火したら――」

「そうなれば、次々と参加者が増えて大規模化しちまう。それこそ大変なことになるぞ」

「それは、あなた方の理屈です」

 ユナの指摘に同調したコウイーの言葉を容赦なく断ち切った。

「各地に飛び火するかどうかも、大規模化するかどうかも単なる憶測でしょう。それに、この集団が大規模化したとしても暴動につながるかどうかもわからない。もちろん、これも僕の単なる憶測ですけどね。ひとつだけはっきりしているのは、時間を稼がなければならないということ。その間に、状況が好転するのを待つしかありません――後ろ向きですが」

 あなた方の領主が交渉にさえ応じないというのであれば、とリックはあえて付け加えた。

 周りから反論の声はなかった。誰もがわかっているのだ、現状では打つ手がないことを。この場に集う民衆の目を見れば、事態は危険水域にまで達しつつあることは明白であった。

「わかった、わかった。コーンウェル伯には一連のことを伝えてみるから、少し待ってくれ。民衆が王都を目指すと言えば、さすがに伯も少しは動くだろう。領内の問題を国の問題にまで広げたくはないだろうからな。それこそ領主としての責任を問われちまう」

 だから民にも表向きは、領主が交渉に応じるかもしれないと伝えてくれ、とコウイーが言い終える直前、変化は突然起きた。

 前方での爆発音――

 驚いて見やると、民衆が集う一画が吹き飛び、大きな土煙がもうもうと舞い上がっている。

 一同が唖然としている間に続けて起こったのは、人々の怒号と悲鳴。

「奴らが攻撃してきたぞッ!」

 そのたった一言が、状況を一変させた。

 民衆の怒りと憎しみが一気に束となり、そのすべてがコウイー隊へ向けられる。

 それぞれが“マズイ”と思ったときにはもう、憎悪という名の塊が一斉に動きだしていた。

 「迎え撃つぞ! ただし、できるだけ抑えろ!」

 腰にいた剣を反射的に引き抜き、それでも一定の冷静さを保ったままコウイーが味方に向かって叫ぶ。

「そんな無茶な!」

 という声がユナたちから飛ぶのも無理もない。乱戦の中、しかも相手が圧倒的に多い状況で手加減をするのがいかに難しいことか。

 それは言うまでもなく、コウイーも理解していたことだった。だが、ここで配慮しなければ、それこそ暴動という名の“反乱”は確実に本格化する。へたをしたら、自分たちこそが革命の火を点けることになりかねないのだ。

 とはいえ、暴徒の勢いは圧倒的だった。武力に優れるのは隊員たちとはいえ、相手の熱気、戦う意志は凄まじく、何よりもその数の多さはもはやそれだけでひとつの暴力ですらあった。

 民衆らに武器を手にしている者は少ない。それだけに兵士たちは自らの得物を振るうことに迷いが生じ、余計に後手に回ってしまう。

 怒り、憎しみ、そいて恐怖――

 それらが渾然一体となって全体を覆い尽くし、あたかも背中を押されるかのようにして焦燥をつのらせる。

 コウイー隊の面々ですら、その例外ではなかった。ここで食い止めなければならない、自分がやられるかもしれない……そんな思いがあっという間に冷静さを奪い、隊列を乱し、ある者は過度に引き、ある者は過度に前進してしまう。

 気がつけば、それぞれはそれぞれの立ち位置を見失っていた。

「隊長! 隊長はどこ!?」

 そんな中、孤軍奮闘する影があった。

 ユナだ。

 本能的に危険を感じ取った彼女は反射的にもう一度加速の魔法を自身にかけ、武器を使わずとも次々と暴徒を打ちのめしていく。

 相手も小柄な女性と戦うことに引け目を感じるのか一瞬躊躇するが、ユナがそんな隙を許すはずもなかった。

 一撃ごとに確実に己の拳を相手の急所に当て、一人、二人とその場に打ち倒していく。

 彼女の周囲には早くも、気を失った人々がまるで防塁のごとく積み重なっていた。

 だが、当のユナの焦りはつのる一方であった。

 ――まずい、隊長を見失った。

 それどころか、近くに味方の姿がまるで見えない。自分が無意識のうちに離れてしまったのか、それとも自分以外が予想以上に相手に押されているのか。

 いずれにせよ、このままでいいはずがない。ここで自身が暴れていても埒が明かないと感じたユナは、回し蹴りで周囲の敵を薙ぎ払っていったん距離をとると、己の拳に魔力を集中させた。

 直後、裂帛の気合いとともにその豊富な魔力で氷の魔法の構成を編み上げ、それを一気に地面へ叩きつけた。

「氷槍牙ッ!」

 鋭い声で魔術を発動させると同時に、自身は大きく上へとジャンプする。

 ガラスが弾けるような甲高い音とともに四方八方へと鋭い氷の刃が乱立し、暴れる民衆の側では、ある者は弾き飛ばされ、ある者は氷で動きを封じられて無力化されていく。

 まるで羽が生えたがごとく、その最も大きい氷槍にふわりと舞い降りたユナは、周囲を確認してすぐにその場を離脱しようとした。

 次の瞬間、自身がつくったはずの氷の山が光の粉となって弾け飛んだ。

「!?」

 訳がわからないままに、戦士としての本能でわずかに残る氷を踏み台に飛びすさった。

 ――何者!?

 暴徒に致命傷を与えないよう手加減をしたとはいえ、完全に魔術の網を構築し、それなりの魔力を注いだものだったのだ。己の体に魔力をまとわせて戦う《魔闘士》でなければ、そう簡単に壊せるものではないはずだった。

 驚いているのは民衆の側も同じで、ユナと同じように距離を置いたまま警戒している。

 その答えは、すぐにわかった。

 熱気が――のような存在が近づいてくる。

“それ”は、ひとまず人の形はしていた。上半身には何もまとわず、脚は革製の硬そうなズボンを履いている。

 何よりも特徴的なのは、その波動だ。炎の魔力をその身に宿し、魔法を扱える者ならば実際に体から朱色の輝きを放つ火が目に見えただろう。

 深い闘志がにじみ出た鋭い目を見るにつけ、ユナは厄介な相手に遭遇したことを自覚せずにはいられなかった。

 ――私と同じ魔闘士。

 それも、対立属性である炎と熱気の魔術師だ。すなわち、互いに本気でぶつかり合えば互いにただでは済まないことを意味していた。

 ――なんでこんな奴が暴徒の中にいるの?

 その不自然さに内心、舌打ちしつつ、それでもすぐに攻撃の構えをとる。

 相手は混乱の最中にあるというのに敵意をむき出しにするような様子もなく、ただ静かに一歩一歩、確実にこちらへ向かってくる。

 最も厄介なタイプだ。

 常に沈着冷静で、こうした戦いの場に慣れているのは明白だ。ゆえに、ごまかしもはったりもきかない。

 結論は、“戦うしかない”。

 男もこちらがプロだと察したか余計なことも言わず、ただ臨戦態勢をとる。

『行くしかない』

 そう悟ったユナは、先に動いた。数では圧倒的に不利。であるなら、自分から仕掛けなければ時を追うごとに事態の深刻度が増していく。

 両足に物理的な力と魔力の両方を込め、一気に相手との距離を詰める。

 己の属性から生じる氷のきらめきが軌跡となって残り、右手に宿す魔力が冷たい刃を形成していく。

 できればこの一撃で致命傷を、と狙いすました氷剣の一閃は敵の喉をとらえたかに思えた。

 激しい音と衝撃――

 周囲にいた者たちは何が起きたのかまるでわからず、ただ白い輝きと冷気と、そして熱い蒸気を一部に感じ取ることしかできなかった。

 風が吹き、視界が晴れたその先に見えた光景に、一同は息を呑んだ。

 屈強な男の右半身が氷に覆われ、足元には折れたのであろう氷の剣が斜めに突き刺さっている。

 だが、そのもう半分の体には、見るからにそれとわかる激しい熱気と赤い炎が宿っていた。

「見事だ。この俺に攻撃を当てるとは」

 発せられたその声は、見た目からの予想どおり低いものだった。

「ハッ、あんたみたいのでも戦闘中にしゃべることもあるんだ」

 いつもの憎まれ口を叩くユナであったが、男と十分な間合いをとった位置ですでに膝をついていた。

 服の左半身が焼け焦げ、黒のブーツからは今も煙が上がっている。

 ――かわしたはずなのに……!

 相手がカウンター気味に右の拳を当てにくることはわかっていた。だからそれより先に《氷剣》の魔法を強引にぶつけることで、結果的に敵の攻撃を潰すことを狙ったのだ。

 その狙いは八割方、成功したかに思われた。剣の切っ先は確かに男の首筋にヒットし、発動した。男の左半身が凍りついているのは、その何よりの証拠だ。

 だが、それに炎の魔闘士が怯むことはなかった。こちらの攻撃にほとんどびくともせず、右の拳による魔法を当ててきた。

 もしかわすのが一瞬遅れていたら、ここに立っていることはなかっただろう。

 すべては紙一重だった。

「ひとつ質問いい?」

「なんだ」

「どうしてあんたは、私の攻撃をくらったはずなのに平気なの?」

 男は一呼吸置いてから、はっきりと答えた。

「俺は、身にまとう炎の魔力を一点に集中させることができる」

「そうか、こっちの魔法は当たっててもあんたの魔力の鎧の上に氷をつくっただけか……」

 相手からの返答はない。しかしその沈黙が、指摘が正解であることの何よりの証だった。

 炎の魔闘士は、自身の体の上に薄い魔力の層を帯びている。それを突き破らないかぎり、相手に対してダメージを与えることは難しい。

 それにしても――

「ちゃんと教えてくれてありがとう、余裕のある戦士さん」

「余裕があるから教えたのではない。その歳でそれだけの力量を身に着けた使い手に敬意を表したまでだ」

 相手の言葉に嘘偽りや誇張は感じられない。ユナにとっても男の力の強さがわかるだけに、素直にその言葉を受け取っておいた。

 問題は男に引くつもりは一切なく、そして実力は拮抗しているか、もしくは負けているかもしれないことだ。

 ――いちかばちかの戦いになる。

 倒せないこともないかもしれない。だが、こちらもただではすまないであろうことは疑う余地もない。

 周囲を見回しても、もはや味方の姿は見えない。すでに引いたのか、それとも最悪の事態を招いたのか。

 どちらにしろ、もうまったく時間がないのは間違いなかった。

 ――早くしなければ隊長が危ういかもしれない。

 その思いが、心中の焦りをさらに強くする。引き際をわきまえている人だ。すでに逃げてくれていると信じたかった。

「勝負を決めよう、炎の使い手」

「仕方あるまい。なぜこんなことになってしまったのかと思う気持ちもあるが、互いに守らなければならぬものがある」

 そのとおりだ。個人的な恨みはないが、置かれた立場、状況が戦わざるをえない方向に動いている。

 そして、もはや猶予はない。

 決断したユナは早かった。すぐに脚部へと魔力を込め、間を置かず瞬間的に距離を詰めた。

 純粋なパワーと魔力量では相手に劣っているかもしれないという思いがあった。ならば、スピードで上回り、手数で相手を圧倒するしかない。

 元より、敵の出方を待つような性格ではなかった。

 男もどこかでその行動を予測していたのか、すでに身構え、上半身の魔力を明らかに高めている。

 邂逅は一瞬。

 周りで見ていた者には何が起きたのか理解できなかっただろう。

 少女は右の拳で行くと見せかけ、左足にありったけの魔力を込めて魔法を放つ。

氷杭蹴ひょうこうしゅう》と呼ばれる一撃――

 ただの蹴りではない、全身を一本の巨大な槍とし、足先に生じた氷を研ぎ澄まして対象を一度に撃ち抜く。

 外れれば無防備、窮地の状態に陥るがしかし、勢いに乗った分その威力は絶大なものとなる。

「!?」

 男は、なぜか動かない。

 半身に構えたまま左手を軽く掲げ、微動だにしない。

 違和感を覚えつつも、そのままの勢いで突っ込む。そもそもこの術は、途中で止められるようなものではなかった。

 防御とも思えない相手の左手をかわし、左足のつま先をその体の中央――胸の部分へ向けて突き立てる。

 だが、それでも男は動かない。そう、。正面から強力な一撃を受けたというのに、その上体が揺らぐことさえなかった。

 そのときになって初めて、ユナは己が敵の術中にはまったことを悟った。相手は待ち構えていたのではない、自分の術を発動させるためにみずからをおとりに使ったのだ。

 ユナの左足が男の体に触れようとする直前、その一点を中心に魔法陣が浮かび上がり、彼の狙いである術が発動した。

 少女の体に衝撃はなかった、不自然なくらいに。体がまったく動かず、声を発することもできない。

 ――“時空系”の魔法!?

 単に体をしびれさせる《束縛》の術ではない。これは完全に対象の動きを止める、時空歪曲の術の一種だろう。

 自身の思考が停止していないことからして時間が止められたわけではないのは確認できる。おそらくは、空間を歪めてあらゆる運動が事実上できないようにさせているのだ。現に、指先を震わすことすらできない。

 視界の隅で、男が一切の油断なく掲げていた左手に魔力を込めていくのがわかる。


 このままではやられる。


 それを明確に認識しつつも、ユナはそれよりも視線の奥にある光景に意識を奪われていた。

 味方の鎧をまとった人物が汚れた姿で傷を負いながらも剣を振るいつづけている。周辺には若手の兵が複数立っているものの、ある者は倒れ、ある者は膝をついている。

 隊長のコウイーだ。部下を守るためにあえてこの場に残り、荒れ狂う暴徒をどうにかして受け流している。

 だが、多勢に無勢。力量では決定的な差がありながらも、敵の数に圧倒され、それでもまだ自領の民を傷つけることにためらいがあるのか、その剣筋は鈍い。


 このままでは危うい。


 その思いが、魔闘士ユナの気迫を爆発させた。

 対する男の手が自身に触れようとする刹那、少女はみずからの魔法をみずからの内側から破壊した。

 暴発する氷の魔法――

 驚いた男が防御態勢をとるよりも早く、弾けた冷気の魔力は周囲に容赦なく襲いかかり、彼を、暴徒を、そして術者である少女自身をも巻き込み、方方へと飛び散っていく。

 あちらこちらで小規模な氷の花が咲き、それがまた弾けて人々の体の一部を氷でからめ取る。

 ユナが着地したときにはもう、辺りにまともに動ける人は皆無に近かった。

「貴様……ここまでして……!」

 低い声にはっとして顔を上げると、あの男が左肩を押さえながらもなんとか体裁を保って二本の足で立っている。

 だが、その表情は苦悶に歪み、所々に傷を負っているのは明らかだった。

 相手が動けないのを見て取って、ユナがすぐさま立ち上がり、隊長のほうへ向かって駆け出そうとす。

 彼女とて無傷ではない。足はよろめき、息は荒く、氷の破片が目をかすめたせいで目を開けられない。

 それでも動くことをあきらめなかった。たとえ背後に気配があったとしても。

「待て。このまま行かせるとでも思ったか」

 男の声に危険なものを感じはしたが、ユナはそのまま走った。もう、構ってはいられない。ここで俺の保身のために立ち止まったところで、が倒れてしまってはなんの意味もない。

 背後からの敵意に恐怖を覚えながらも歩を進めようとしたそのとき――

 一瞬の風の揺らめきとともに、前方に立ちふさがる影があった。

「待てと言ったはずだ」

「まだそれだけ動けるの……?」

 男は、ユナがわずかに動く間に前へと出ていた。彼から感じられる魔力の波動は弱い。本来なら大きなダメージに体を動かすことができないはずだった。

 その表情は決意に満ち、揺るぎない。

 ――最後までやり合わないといけないというの――?

 なぜか理不尽な思いを感じるものの、その思いは偶然にも相手も同じようであった。

「お前に守るものがあるように、俺にもまもらなければならんものがある。これ以上、仲間を傷つかせるわけにはいかん」

「…………は?」

 相手の言葉に違和感を覚えたユナは、反射的にその動きを止めていた。

「何言ってんの? 先に襲いかかってきたのはそっちでしょう!」

「何!? どういうことだ?」

「あんたたちが襲いかかってきたから、こちらは仕方なく応じているだけでしょって! 初めから争うつもりなんてなかったのに! あんた、見てなかったの!?」

「俺は今、着いたばかりだ」

 ユナは、頭を抱えたくなった。てっきり相手が望んで戦いをしているかと思いきや、まさかそのつもりがなかったとは。

 貴重な時間を無駄にしてしまったことに恨めしい気持ちを抱えながら、すぐに歩きだす。背中を相手にさらけ出そうが、構いやしなかった。

「おい、待て!」

「好きにすればいい。私たちはこの騒動を止めたいだけ。そのためにはまず離脱しないと……!」

 そうだ。自分たちがこの場に留まっているから、狂乱した群衆が暴れ回るのだ。それを止めるにはまず領主側の人間こそがここから離脱しないことには、どうにもならない。

「待てと言っている」

「いや、いいんだ、アルト」

 困惑しつつも男がユナを引き留めようとしたそのとき、聞き覚えのある声がそれを押し止めた。

 リックと名乗っていた先程の人物だ。服の破れた左肩を押さえ、よろめきながらアルトと呼んだ男の前に立ち塞がった。

 その表情はすでに憔悴しきっている。

「どういうことだ、リック」

「お互いに戦うつもりはなかったんだ、。それなのにパニックになったみんなが暴れだしてしまった」

「なんだと……」

「みんなを止めようとしたけど無理だった。こんなに恐ろしいものだとは思わなかったよ、冷静さを失った人間の集団が」

 相手が一人二人であったならばなんとかなったかもしれない。しかし現実には数百人もいる群衆が一度に動きだすと、もはやそれは決壊した川の奔流のようなもので、個人でどうにかできるようなものではなかった。

 すでにこの場の状況は一線を越えてしまっているのだ。

「君の言うとおりだ。領主の兵がここからいなくならないかぎり、この騒ぎは収まらないだろう。もっともこ様子だと、そうなったとしてもすぐには終わらないだろうけどね……」

 リックが苦々しく周囲に目をやると、あちらこちらで民衆同士が――すなわち味方同士が殴り合っている。

 もはや敵が誰かは関係ない。ただ正気を失って何をしていいかわからず、その結果として暴れているだけなのだ。

「行ってくれ、ユナさんだったか。もうこうなったら、いったんここから離脱するしかない。アルト、僕たちもだ」

「わかった。俺が“彼女”から頼まれたのは、あくまでお前の護衛が前提だ」

 手を貸そうとするアルトという名の男を片手でやんわりと断りつつ離脱していくリックの背中を見届けて、ユナはすぐに動きだした。

 ――急がなければ。

 焦りとは裏腹に体が、特に足が思うように動かない。乱戦の酷さはいや増し、もはや隊長はおろか味方の兵の姿も見えない。

 だが、おおよその位置はわかる。無軌道に動き回る民衆の流れの中でもわずかにそれが淀むエリアがあった。

 行くべきところは見えているというのに、周囲の人々が壁となってなかなか前へと進めない。

「どいて……どけッ!」

 カッとなって相手が誰であろうとかまわないとばかりに魔法を発動させようとするものの、先程までに使い果たした魔力がすぐに戻るはずもなく魔術の構成が途中で解け、雲散霧消してしまう。

 歯がゆさを感じながらそれでも少しずつ近づこうとしたそのとき、見たくもない光景が瞬間的に目に映った。

 コウイーが――隊長が沈んでゆく。

 周囲の暴徒に覆われ、視界から消えていく。

 このままでは危うい。そうした確信めいた思いだけがこころに残り、やがて焦りがすべてを消し去る。

 正気を失ったユナは、みずからを顧みず魔力を暴発させようとした。

 ――あのときと……あのときと同じにするわけにはいかない。

 目の前ですべてを失うことの恐怖が、あのとき展開された現実の光景が少女の内面を壊していく。

“あの”白い輝きを否定するかのごとく、己の魔力を一点に集中させた。

 隊長がいるはずの一点に。

 すべてを凍りつかせる最後の魔法を。

 それは、発動されたかに思われた。しかし、その直前――

 耳をつんざくような圧倒的な爆音が辺りに響き渡った。

 思わずこの場にいる全員がその音がした方向を振り返った。近くではなく、遠方からの猛烈な轟音だったからだ。

 先ほどまで激しく争い合っていたというのに、誰もが唖然とした表情で西側の一点を見つめている。

 なぜなら、遠目にもわかる、大地が深く、広く、えげつないまでにえぐられていたからだ。

 不気味なほどの静けさに包まれる一帯。

 またしてもそれを打ち破るように立て続けに音が襲ってくる。

 次の反応もまた劇的だった。

 立ちすくんでいた暴徒たちが今度は恐慌をきたし、何事か叫びながら猛烈な勢いで逃げ出しはじめる。

 しかし皮肉にも、今度は統率がとれているかのように同じ方向へ向かってひたすらに走る。無論、先ほどから続く爆発から少しでも遠くへ離れるためだ。

 まさに波が引くかのごとく、暴徒――というより民衆が去っていく。あとに、あっけにとられる兵士たちだけを残して。

 ユナはそれでもまだ散発的にしつこく続く暴徒の攻撃をかいくぐりながら、隊長がいるはずの地点へ急いだ。

 こちらが撃退するまでもなく、そこに群がっていた者たちは蜘蛛の子を散らすように逃げていく。

 ユナがたどり着いたときにはもう、その場に残るのはひとりだけであった。 

「隊長ッ!」

「……よぉ。おめえも、また無茶したな」

「そんなボロボロのくせに何言ってるんですか!」

 地面に仰向けに倒れているコウイーを抱き起こしたい衝動を抑えながら、さっと全身の状態を診る。

 幸い、大きな問題はないようではあったが、軽装とはいえ体の各部を覆う鎧がところどころ破損していることからして、ダメージがないはずがない。

 それでも、隊長は笑っていた。むしろ、強い決意をにじませた顔で。

「寝てる場合じゃねえよな……これから大きいことが起こるぜ、間違いなくな」

「寝ててください! まったく、いつもいつも無理を……」

 立ち上がろうとする男を強引に押さえつけ、ユナは周囲に人を探した。

 相変わらず混乱状態はつづいており、人は少なくなってきたもののまだまだ落ち着くには程遠く、敵味方を遠目に区別するのは難しい。

「すみません、私が回復魔法を使えれば……」

「まだそんなこと言ってやがるのか。 お前はお前の“武器”を磨け」

 何度も言われた言葉を再びくり返され、それだけに情けない気持ちになってくる。

 これまで幾度となく回復用の魔法を学ぼうとしてきたものの、なぜか基礎的な術すら発動させることさえかなわず、ことごとく挫折した。

 だから、こうなる。目の前で仲間が、大切な人が苦しんでいるというのに何もできずに、ただ見ていることしかできない。

「俺は大丈夫だ――」

「隊長の大丈夫は当てにならないんですよ、いつも」

 背後から聞こえた声は、聞き慣れたいつもの皮肉げな声だった。

「クートー!」

「まったく、いっつもいっつも先走って自滅する」

「ひどい言われようだ」

「事実ですから」

 と、冷たく言い放ちながらも、有能な副官はまるで世間話でもするかのように魔術の構成を組み上げてみせた。

癒しの風ヒーリングウィンド》と魔道士の間では呼ばれている。

 だが、それは並のものではない、巨大なマナを含有した極上の上級魔法ハイ・スペルであった。

 やっと安心した表情を浮かべるユナとは裏腹に、彼女たちの隊長はいつものように片眉だけ上げて顔をしかめていた。

「……あんまり魔法には頼りたくねえんだがな」

『贅沢言わない』

 二人から同時にピシャリと言われ、さすがのコウイーも肩をすくめるだけだった。

「そういやあ、スクーザはどうした?」

「それなんですが――」

 とクートーがいつになく困惑した様子で口を開こうとしたそのとき、またしてもあの凄まじい爆音が周囲に響き渡った。

 しかも今度は、近い。

「なんなんだぁ?」

「ち、近づいてくる……!」

 さしものユナも、戦慄せずにはいられなかった。

 南方で連続して大爆笑が起き、それがどんどん近づいてくるではないか。

 逃げなければ――それはわかっている。

 でも、間に合わない。

 諦念にも似た絶望的な思いを感じはじめた一同の耳に、爆音とは別の“音”が、それはなぜかはっきりと聞こえてきた。

「……まったく、なんとかならないのか」

「なるんだったら、とっくの昔にしているッ! か――」

「勝手に発動すると言いたいんだろう? だったら貴様だけ不毛の地に残ればよかった」

「貴様、助けてもらっておきながらよくもそんな――」

「お前は歩く爆弾だ。いや、恥辱だ。否、恥部と言い換えていい。貴様は人類の恥部だ」

「言ったな、こいつぅ!」

 一瞬の怒りで爆発が“白銀の騎士”の周囲に集中するが、当の男は予想の範疇なのか、ひらりと飛んでかわしてみせた。

 こんなことをあの荒野からずっとくり返しているのである、この二人は。

 そんな様子をどこか毒気の抜かれた様子で見ていたコウイーたちであったが、そんな中、ユナがポツリとつぶやいた。

「ウェイランと――ターゲット」

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