第2話 不意の覚醒

 周囲から届く奇異の視線にも気づかないままに、とりあえず上体を起こす。

 目に見える風景はあまりに異質で現実感がない。映画や何かで見たそれらに似ている気がしないでもないが、その違和感は強く、とてもこれが現実とは思えなかった。

 一言でいえば西洋的にも思える建物が多いが、いつの時代のものかはさっぱりわからない。

 夢ではないかという最初に抱いた思いは、例のイノシシが足にぶつかった明確な痛みが否定してくれる。

 ――他の可能性はなんだ。

 意外に冷静な頭でよく考えてみる。

 ひとつは、瞬間移動か何かで別の地域へ一瞬で飛ばされた可能性だ。ここは現実世界の別の地域、またはどこかのテーマパークで、あのトカゲ人間や魔法のようなものはただの手品なのかもしれない。

 別の可能性もある。

 やはりこれは夢で、感覚がリアルすぎて現実だと思いこんでいるということだ。

 だが、自分にはこれが夢や幻とは到底思えなかった。今までと変わりのない実感は、その可能性をはっきりと否定している。

 もうひとつの想定できることもあったが、それはあえて考えないことにした。もしそれが真実ならば、もはや考えても意味がないからだ。

 ――もう、仕方がない。

 里都は、覚悟を決めて立ち上がった。

 真実がなんであろうと自分が今ここに存在していると感じている以上、行動するしかない。たとえこれが夢であっても適切な行動をとらなかったとき、あとで嫌な思いをするのは自分自身だからだ。

 目の前のものを現実と受け入れようとした途端、緊張感が増してくる。今、自分はおそらくかなりマズい状況にある。頼れる人はおらず、そもそもこの辺りの基礎的な情報すらない。

 そうだ、まずはなんでもいいから情報を集めないと――と、近くにいた栗色の髪をした男にあえて自分から声をかけた。

「すみません、ここってなんていう名前の地域ですか?」

 声が少し震えていることを押し隠して尋ねると、相手は驚いた様子ではいたものの、幸い逃げ出すことも無視することもなかった。

 だが、より根本的な問題があった。

 何を言っているのかまったく聞き取れない。英語や中国語とも違う、少なくとも自分の知っている言語の発音ではけっしてなかった。

 相手の声から不快感は感じられなかったが、これではコミュニケーションのとりようがない。

 そうだ、ここは日本ではなかった。おそらく、周りの誰に話しかけても結果は同じだろう。

 こういったときに採るべき方法はただひとつ。ジェスチャーだ。

「ここの言葉、話せない。どうしたらいい?」

 口や耳を指差したり頭を抱えたりして、なんとか自分の現状を相手に伝えようとする。

 相手の男も言葉が違うのはわかっているようで、無駄にしゃべるようなことはせず、腕組みして思案を巡らせている。

 こういったときになって初めて、通訳のありがたみがわかる。辞書もない現状では、ひたすらに身振り手振りで対応する他なかった。

 しばらくして男は何かを思いついたように、後方の建物を指差した。見やると、そこには石造りの背の高い建物が鎮座している。

 その方向を頻繁に指し示していることからして、『とにかくそこへ向かえ』ということなのだろう。

 里都は片手を胸に当て、軽く会釈することで謝意を伝える。どうにか意図は通じたようで、相手は笑顔で去っていった。

 ――本当は、あの建物についての情報が欲しいんだけどな。

 自分自身が置かれた状況の断片さえわからないのだから、ここでは何が起きても不思議はない。彼に騙されたとは思わないが現状を鑑みれば、そう安易にあちらこちらへと自由に動いていいとも思えなかった。

 といっても、手がかりはそこしかない。途中、何人かに同じようにしていろいろなことを尋ねたが、ジェスチャーだけでは限界があった。

 あからさまな失望と緊張感とともに、目的の建物の前に着いた。

「うわ、入りづら」

 思わずつぶやいてしまう。遠目にも大きな建物であることは認識できたが近くから見ると、壁に彫られたレリーフは見事で、両開きの扉はいったい誰のためのものなのかと思うほど巨大だ。

 気後れしてしまい、しばらく立ち尽くしていると突然、背後から声をかけられた。

 文字どおり飛び跳ねそうになってあわてて振り返ると、そこには赤毛をひとつにまとめた若い女性が立っていた。細いその体には、スーツというより軍服に近い雰囲気の黒服をまとっている。

「あー、あの」

 女性が一気にまくし立ててくるが、なんと返答したらいいものか迷ってしまう。

 そんなことより、相手がその暇を与えないほど凄まじい勢いでしゃべってくる。これぞマシンガントークだ。

 どこの世界にもこういう奴っているんだな、と冷静に思いつつ、声に出して言ったのは別の言葉だった。

「うるせー奴だな」

 そのたった一言で、相手の口がピタリと止まる。あからさまに眉間にしわが寄り、目に剣呑な光が宿る。

 マズい、と己の失言をすぐさま悟った里都は反射的に頭を下げていた。

 麗奈に怒られつづけた影響である。

 相手の機嫌が直ったことを確認し、今度はこちらからここの言葉を話せないことを身振りで伝える。

 あえて日本語で声に出したこともあり、その女性は意図を察してくれたようだ。しばらく考え込む様子でウンウンうなっていたかと思えば、次には周囲を歩き回る。とにかく落ち着きのない人だった。 

 ――手もうるさい人だな。

 今度は、けっして声には出さない。自分には学習能力がある。これ以上相手を怒らせて得るものなど何もないのだ。

 しばらくして、はっと何かに気づいたように顔を上げた。その視線の先には、別の若い女性がいた。

 日本人でもめったにいない、長い漆黒の髪は美しく、服の上からでもわかるその肢体のラインは魅惑的というより蠱惑的だ。

 だが、服装に違和感を覚える。くすんだ黒のマントをしっかりと羽織り、手には“魔法少女の杖”に似たものを持っている。

 ――あれじゃコスプレだ。俺は、やべえとこに来ちゃったのか。

 里都が怪訝な表情をしている横で軍服の女がサッと動き、黒髪の人物の元へと駆け寄っていく。

 二言三言、言葉を交わすと、黒髪の女性がこちらを一瞥し、すぐに納得したようにひとつうなずいた。

 歩み寄ってきた彼女は何も言わず、ただ胸の前に軽く片手を掲げる。

 それを『じっとしていろ』という意味に受け取った里都が大人しくしていると、女は例の魔法少女の杖を掲げ、何事かつぶやき始める。

「お、おい……」

 里都がうめいたのには理由があった。

 女が一言発しただけで、杖が突然光を発する。その輝きは、あの光の渦とまったく同質のものだった。

 本能的に身の危険を感じてとっさに飛び退こうとした瞬間、その動きは完全に止められることになった。

 いつの間にか軍服の女が背後に回り込み、プロレスラーもかくやというほどの膂力でこちらをガシッと羽交い締めにしている。

「こっ、この女……!」

 見れば、マントの女まで薄い笑みを浮かべているではないか。

 騙された、と思ったときにはもう遅い。全身が再び光りに包まれたのを感じ、何かサラサラとした水のようなものが体内に入ってくるような気がした。

 ――あれ? これって、かえってよかったんじゃね?

 あの光の渦にのみ込まれたから、ここへ飛ばされたのだ。だったら、同じように光を受ければ、元いた位置へ戻れるのではないか。

 そんな淡い期待は、すぐに打ち砕かれることになったが。

 光が収まったのを察してゆっくりと目を開くと、残念、そこに広がる光景は従前のものとまるで変わらぬものであった。

 マントの女がただ静かに微笑んでいるだけだ。

「……なんだったんだ?」

 声を出しても意味がないことに気づく余裕すらなく、反射的に言葉を発していた。

「魔法だよ。《翻訳》の魔法」

 背後からの声に、驚いてあわてて振り向く。

 こちらを力任せの強引な拘束から解き放った軍服の女が、少し呆れた様子で腰に手を当てている。

「言葉がわかる……。魔法……?」

「ああ、やっぱり知らなかったんだ。これは大変かもしれないですよ、レスリア師」

 視線を向けられたレスリアと呼ばれた黒髪の女性は、ひとつうなずいてから口を開いた。

「“跳躍者”のようだね、ミリア。この世界ではどんな田舎でも。魔法を知らないなんてことはまずありえない」

「じゃあレスリア師、この人お願いしてもいいですか? うちは、あくまで冒険者のための組織ですので」

「わかった、任されよう」

 二人だけで妙に納得した様子で、ミリアという名らしき軍服の女はさっさと建物の中へと入っていってしまった。

 状況がわからないまま、レスリアに手振りでぞんざいに招き寄せられた里都はそれに従う他なかった。

「あのー、何が何やら」

「まあ、無理もない。その格好や訳のわからない言葉を話していたことからして、君は来たんだろう?」

「そう、それ!」

 さっさと歩きだしたレスリアの前に回り込み、とりあえず最も気になっていたことを聞く。

「ここはいったいどこなんだ? さっきの光といい……魔法? どういうことなんだ」

「順を追って話そう。まず君は、こことは似て非なる場所で光の渦に包まれた――そうだな?」

 反射的に激しくうなずく。今ここでわざと嘘をついてもなんら益はない。

「そして気がついたらここにいた。言葉も通じないところに」

「いったい何が起きたんだ? ひょっとして、俺は夢でも見てるのか?」

「その答えは確定できない。そもそものだから。君の世界ではどうなんだ?」

 レスリアからの優しい口調での問いかけに、首を縦に振る。確かに、現実を現実として証明することはどんな偉大な哲学者にも不可能だ。

 ということは――

「これを現実として受け入れて生きていくしかないってことか……」

「そうだ。現実の可能性があると君が感じる間は、な」

 もちろん、自暴自棄になるのも自由だが、と、わずかに皮肉げな笑みを浮かべて言う。

「じゃあ、ここがどんなところなのか教えてくれ。さっき、魔法がどうとか」

 こちらからの問いに黒衣の女性は一拍置いてから、わずかなため息混じりに答えた。

「本当にまったく魔法のない世界から来たんだな。初心者にもわかるように単純化して言えば、この世には“マナ”と呼ばれる魔力の源があって、それを使ってさまざまなことを可能にする手法のことを、我々は魔法と呼んでいるんだ」

 魔法、と相手は確かにそう言っている。しかし、それを自分たちの概念の魔法と同じ現象と考えていいものか。

「その魔力ってなんなんだ?」

「いい質問だ。物事が変化するとき、なんらかの力が加わっているだろう?」

 炎が発生する際には熱が生じ、逆に熱が炎を生み出すこともある。

 風が吹けば旗が揺れ、風車が回る。

 そういった変化を起こす力の集合体のことを魔力と呼び、それを生み出すのがマナだとレスリアは語った。

「一種のエネルギーの塊か……」

「魔力が他の単純な力と決定的に異なるのが、水や体といった“物”に依存しない、純粋な力であることだ」

「マナに魔力が宿るんじゃないのか」

「違う。マナを消費して魔力を発生させる。マナがそこにあるだけではなんの力も生み出せない」

「じゃあマナさえあれば、いつでもどこでも力を生み出せるというのか?」

「そうだ」

 ――媒体を何も必要としないエネルギー源? そんなものが存在するのか。

 風でさえ気体の粒子が動くことで生じている。粒子の存在を無視ししていきなり力を生じさせるのだとしたら、その力は――

「まさになんでも可能になるな」

「ああ、それが魔法と呼ばれるものだ。我々はマナが魔力を生じさせる理論を魔導学、その魔力を具体的に使う方法をまとめた理論を魔法学と呼んでいる」

「物理学は?」

「物理……? 単純な物の動きのことだろう? それは魔法学に含まれる。元々の作用を知らなければ、魔法によって再現することもできないからな」

 わかったような、わからないような気がして里都は眉をひそめるしかなかった。

 そもそもマナってなんだ? マナが実際には一種の媒体になっているということか。

 こちらの思いを悟ったか、レスリアは先手を打って口を開いた。

「その辺のことはおいおい話してやろう。その前に、君にはやるべきことがある」

 と、悪気はないのだろうが彼女が横柄に顎で指し示したのは、先ほどの建物とはまた別の、背の高い構造物であった。塔のように見えなくもない。

「ここは?」

「役所だよ。君の世界でも役所くらいはあっただろう?」

「ああ――そうか。俺の身分は、ここではまだなんにもないから」

 そういうことだ、とばかりにレスリアは大きくうなずき、マントに隠れていた白い腕を建物の簡素な扉へと向けた。先ほどの冒険者ナントカとは異なり、ここは質実剛健を旨としているようだ。

「さっき言いかけたが、君のように他の世界から突然やってきた者は多くはないが珍しくもない。そういった人々を受け入れる制度もあるから、さっさと登録をすませてしまったほうがいい」

「そ、そうか。でも……」

「なんだ?」

「なんでそこまで親身になって助けてくれるんだ? 縁もゆかりもないのに」

 一呼吸置いてから、彼女はあっさりと答えた。

「それが魔術師の義務だからだ。こちらで使った魔法の反作用で、他の世界に影響が出ることもあるからな」

「な、に?」

 里都の顔色が変わり、華奢なレスリアににじり寄った。

「おいおい、あんたらのせいで俺がこんな風になったっていうのか?」

「可能性の話だ。《強制転移》の術が自然発生することも珍しくない」

「へえ……って、そんなことまで起こるのか!?」

「だから可能性の話だ。ただ、元の世界に戻りたいのなら原因を究明するしかないだろう」

「それが俺の当面の目的になるのか……」

「戻りたいのか?」

「え?」

 サラリと聞かれて、思わず言葉に詰まった。

 ――自分は戻りたいのか、あの世界へ?

 未練は、ある。まだ何も成し遂げていないし、歳も三〇代。やれることはまだ残っているはずだ。

 しかしそれは逆を言えば、何も実績を残していないということ。失うものは何もないということは、未だ何も得られていないということでもあった。

 ――今さら帰ったところでどうするんだ、あそこで。

 そんな思いが込み上げてくるのを無理やり抑え込み、今はあえて目の前のことに意識を向けた。

「あそこへ行けばいいんだろ? 《翻訳》の魔法もまだ効いてるしな」

「待て」

「なんだよ?」と、振り返る里都。

「この世界の常識を知らない君がいきなり行ったら、かえって混乱する。私が先に行って話をつけてくる」

「あ、ああ」

 こちらの返事も待たずに、レスリアはさっさと行ってしまった。

 それにしても、と思う。いくら魔術師の義務とはいえ、ここまで親切にするものだろうか。ふと、さっきの言い訳は実のところ照れ隠しだったのでは、と思ったりもする。

 あのビジュアルだ、もしそうだったら、かわいくてしょうがないが。

 そういえば何歳なのかな? 自分でもまだ全然チャンスはあると思う、いや思いたい。

 ――余計なことを考えても意味ないか。どうせ長くここにいることはないだろうし。

「おい、おめえ」

 やけにあきらめの早い自分をこころの内で自嘲気味に嗤うと、不意に背後から野太い声が響いてきた。

 振り返るとそこには、大柄な男たちが立っていた。歳は自分と同じ三十路くらいだろうか。三人の男がその目に剣呑な光を宿し、こちらをめつけている。

 そのうちのひとり、軽装の鎧らしきものをまとった戦士風の輩がさらに一歩、詰め寄ってきた。

「おめえ、奴とどういう関係だ」

 と相手が喋った瞬間、里都は顔をしかめた。

 まただ。また相手の唇がぶれたように歪み、声という音声とタイミングが合わなくなる。ちょうど音ズレした動画のような感じで、見た目と音が一致しない。

 だが、それもわずかな間だけで、今ではもう違和感は消えていた。

 ――なんなんだろうな。あとでレスリアに聴いてみよう。

《翻訳》の魔法の副作用なのか、それとも別の理由か。そもそも魔法の仕組みがよくわからないのだから、考えても意味はなかった。

「……おい。――おい!」

「ん? ああ、なんだ?」

「てめえ、人の話聞いてんのか!?」

「いや聞いてない」

「こいつぅ」

 きっぱりと言い切った里都に真ん中に立つ細身の男は拳をわななかせるが、肝心の里都はまったく別のことを考えていたのは言うまでもない。

「妙な口の動きしやがって。なんだ、この感じ」

「あれ? そっちもなのか。どういう魔法なんだろうな、これ」

 翻訳するということは、両方の言語の意味を知らなければならない。それはすなわち、各単語の意味だけでなく文法やスラングまですべて把握する必要があるということだ。

 今のところ、普段どおりに話せていて破綻はない。こちらの世界の言語はともかく、いったいどうやって日本語を解析しているのだろうか。

 脳の動きを直接調べて真意をつかみ、感情に合わせて情報を相手に伝えるとか。

 ――まさかな。

 とは思うが、唇や表情筋の動きまでうまく合わせていることからして、おそらく上っ面の文法ではなくもっと深いところで解析しているとしか思えなかった。 

「あッ! おめえ、また俺のこと無視してやがんな! 妙な魔法を使ってるだろ! なんだ!?」

「唇の魔法」

 誤解を招きそうなことをサラリと言ってのけ、里都はもう一度扉のほうを見た。人の出入りはいくつかあるものの、未だ目的の人物の姿は見えない。

「お、おまっ、レスリアと……?」

「唇についていろいろ教えてもらったんだ、直接」

「――――」

 相手は、完全に沈黙した。背後に控える二人の男、巨人のような大柄な奴とやけに背の低い中年風の男が、なぜかあわてふためいている。

 それを気にかけることなく、すべてを察した里都はここで核心を突くことにした。

 先手必勝だ!

「ははぁん、さてはレスリアとかいう女に気があるんだな」

「違うわ! 勝手に決めつけんな!」

「わかる、わかるよ。あれだけいい女だもんな。誰だって惹かれるさ」

「違うっつってんだろ!」

 あわてふためく様子を見て、唇の端を釣り上げる。

 ――ふふ、かわいい奴。

 からかい甲斐がある。里都の悪い部分が首をもたげ、もっとこの男を困らせてやろうと妙なスイッチが入った。 

「いいのか、早くしないと他の男に獲られるかもしれねえぞ。そうなってから後悔しても遅いんだぞ。あれだけ魅力があると、他の男が放っておかないだろうからなぁ」

「……それならそれでいいんだよ」

 ――あれ?

 意外な反応の悪さに拍子抜けしてしまう。どこかあきらめたような顔をする相手に引っかかりを覚え、さらに突っついてやろうかとも思ったが、後方の二人が複雑な表情になったのを見てやめておいた。

 触らぬ神に祟りなし、だ。そもそも、他人の事情に無礼に立ち入るほど自分は下衆じゃない。

 先ほどまでまさに下衆なことをしようとしていたのをすっかり忘れて、里都は少しだけいい人ぶった。

「まあ、いいや、それよりマジメな話、なんの用――」

 言いかけたその刹那、はっとして右側面に目をやる。

 ――なんだ、今の感じ。

 刺すような、押し付けられるような圧力を一瞬だけ感じた。

 だが、周囲は落ち着いたままで、込み入った建物の多い風景に変化は特になかった。

「どうした?」

「いや……ああ、レスリアか」

 男たちが怪訝な目を向けてきたそのとき、例の大扉を開けながらようやくマントの魔法使いが帰ってきた。

 前方にいる三人の男たちにすぐ気づいたのは言うまでもない。 

「フィーロ」

「レスリア……」

「どうかしたのか?」

「あ、いや、別に……」

 さっきまで威勢がよかったというのに、レスリアを前にした途端、急に大人しくなってしまう。

 沈黙が流れる。

 後ろに控える大柄な男たちは、なぜかドギマギと視線をさまよわせていた。

 ――なんだ、この空気。

 こういった雰囲気に耐えられない性格の里都は、反射的に悪ふざけしようとしてしまう。そんな気性のせいでこれまで何度も失敗てきたせいもあって、今はそれが許されない状況であることもさすがに理解していた。

 もう三十路だ。子供じゃない。

「あ~、あの――」

 それでも何か声をかけようとレスリアに一歩近づいた、そのときだった。

 周囲に爆発的に広がった圧力を瞬間的に感じ、反射的にそちらを向く。

 真っ赤な炎がすでに眼前にまで近づき、それが役所前の広場を包み込むかのように拡大してゆく。

 ダメだ、と思った次の刹那、轟音が響き渡ると同時に空気の抜ける乾いた音も聞こえ、とっさに閉じていた目をゆっくりと開けると、周囲は先ほどと変わらぬままだった。

 だが、一連のことが幻ではなかったことは、地面に残る強烈な熱と残り火がそれを物語っていた。

 なんだったんだ、と周りに目をやると、皆が驚いた顔でこちらを見てくる。彼らだけではない、町中の人々が同様に視線を向けてきた。

「え? 何?」

 自分は何かやらかしてしまったのかと訳もなく不安になる。

「おい、ボーッとしてる場合じゃねえ。まだ相手はいるぞ」

 その声にハッと弾かれたように、フィーロとももに背後の二人が動きだす。

 里都にもわかった。今の炎は、正面左にある民家の窓から放たれたものだ。

 気がついたときにはもう、彼らに従ってみずからも駆け出していた。

「こら、へたに動くな」

「自分たちが狙われてるのに立ち止まっててどうするんだ」

 そんなのいい的じゃないか、と里都は反論した。そのもっともな意見にレスリアは仕方なくうなずき、自身も皆のあとを追いかけた。

「ちくしょう、けっこう速ぇな」

 フィーロが悪態をつきたくなるのも無理はない。前方にいる普段着の襲撃者は思いのほか素早く、もはや建物の陰にチラチラとその姿が見えるだけだ。

 このままでは逃がしてしまう。それは素人の里都にも自明のことであった。

「レスリア!」

「わかってる、フィーロ。彼のことは頼む」

 黒衣の魔法使いは一声何かを唱えると、すっとその美しい肢体を宙に浮かび上がらせた。

「え」

 驚いて見やる里都をしり目に、レスリアはそのまま前方に向かって真っ直ぐ飛んでいく。

 あれも魔法の一種なのだろうかと思いつつ、里都はまったく別のことを感じていた。

 このままレスリアを行かせてはいけない。

 漠然と感じるだけなのに、なぜか確信できる。昔から嫌な予感だけはなぜかほぼ当たっていたが、今回の“予感”はその比ではない。ほとんど確定した未来といってもよかった。

 だが、彼女は呼びかけてももう届かないであろうところまで行ってしまっている。

 急がないと。

「あっ! お、おい!」

 隣から驚きの声が聞こえてくる。それは急速に遠ざかり、かわりに風を切る音がうるさいほど耳に響く。

 里都は、いつの間にかレスリアに追いついていた。

「どうやって……!?」

「俺が行く」

 冷静に言い放ち、言葉のままに上空のレスリアを追い越していく。

 驚く様子の彼女に気づかぬままに、里都は前方に意識を向けた。

 すでに襲撃者と思われる人物の姿は見えない――直接には。

 だが、なぜだろう、里都には相手の位置がわかっていた。

 気配のようなものを感じる。その印象はひどくぼんやりとしたものだが、けっして気のせいですませられるものでもなかった。

 己の感覚を信じ、狭い路地を高速で駆け抜けながらそのまま突っ込む。

 いた。

 低い屋根の上を、ほとんど音も立てずに駆け抜けていく。その様子はまぎれもなく手練のものであった。

 ――そっちの道の人か。

 いつもの慎重な自分なら、相手にせずむしろ逃げていただろう。しかし、今は自然とという意識になっていた。

 自分にはレスリアのような魔法を使えないし、弓のような飛び道具もない。距離を詰めて戦うしかないのだ。

 だが、先手を打ったのは襲撃者のほうだった。

 振り向きざまに先ほどと同じと思われる炎の玉を放ってくる。

 それでも、里都はあわてない。それを横っ跳びで簡単にかわし、さらに相手に接近する。

 直後、真後ろから響く轟音に気を取られてしまったのは経験のなさゆえか。

 思わず振り返ってしまった里都に、反転した敵が一気に迫ってきた。

 なぜか、その手には炎球。

「あ、あ……!」

 やられる。

 そう思うより早く、体が勝手に動いていた。

 相手を押しとどめるように両手をかざすと、次の瞬間、熱気が爆発した。

 大音声とともに熱い風が周囲に吹き荒れ、大地は地震のごとく激しく揺れ、壁が、石畳が弾け飛び、目の前でそれらが砂の如く粉々になっていく。

 それらが収まったときにはもう、周囲には何も残っていなかった。

 辺りを支配するのは、未だ鳴り響く爆音の残響と土煙だけだ。

 呆然と立ち尽くす里都のはるか前方で、何者かが動く気配があった。

 さっきの男だ。よろめきながらもようよう立ち上がり、そのまま遠くへと振り返りもせず逃げていく。

 もう、追うつもりはなかった。自分のしでかしたことにみずからが最も驚いてしまい、今は他のことをやる気力はなかった。

 気配で、レスリアが隣に下りてきたのがわかる。

「派手にやったな」

 その声に毒気も皮肉も感じられなかったが、どう返したものかすぐには答えが出ない。

 出てきたのは、震える声で発せられた一単語のみだった。

「……こ、これ」

「君がやったんだよ。《爆発》の魔法の一種だ」

 冷静に返答しつつも、レスリアには信じがたいことだった。彼は魔法を『知らない』と言った。ならば一連のことは直感で、すなわち生まれ持った才能だけで反射的にやったことになる。

 特殊魔導士。人々はそう呼んでいた。

 ――しかもこの威力。特級レベルじゃないか。

 無表情の中でも衝撃を受けるレスリアの横で、未だ事情がのみ込めない里都は落ち着かない指を周囲へ向けた。

「被害が……」

「ああ、安心しろ。この辺は空き家ばかりだ。君も人の気配を感じなかっただろう?」

「あ……」

 言われてみれば、逃げていった襲撃者以外に察知可能なものは何もなかったようにも思う。

 誰も巻き込まずにすんだという事実にほっと胸をなでおろし、里都はいったんみずからを落ち着かせてから改めて周りを見やった。

 破壊の限りを尽くされた一帯は、ここが街の一画であることを忘れさせるほどだ。建物が崩壊しただけでなく石畳ははがされ、土の地面がむき出しになっている。

 。爆圧で遠くへ弾き飛ばされたか、それとも粉々になったのか、少なくとも自分たちが立つ周囲にはほとんど何も残されていない。

「これ、本当に俺がやったんだよな……?」

「もう一度確認するが、君は本当に魔法については何も知らないんだな?」

 俺が君に嘘をつく理由がない、という答えを聞いて、レスリアは納得したようにひとつうなずいた。

「どうやってやったか覚えているか?」

「覚えてない。というか、反射的に行動しただけだから、自分でもよくわからん」

「だろうな」

 里都というよりも破壊された現場を注視し、鋭い目で周囲をうかがっていたレスリアは言葉を選んでから口を開いた。

「君のような存在のことを特殊魔導士という」

「特殊魔導士? 俺が魔法を使えるようになったってこと?」

「端的に言えばそうだ。今まで似たようなことは?」

 一瞬言葉に詰まり、里都はフィーロらがまだ追いついていないことを確認してから答えた。

「ない。というか俺が跳躍者だってこと、知ってるだろ? 元の世界に魔法なんてまったくなかった」

「魔法のある世界だって存在する。ここのように」

「それはそうだろうけど」

 そういえば以前、六星りくせいから『お前がライターを使うとなぜか火の勢いがいい』と言われたことが何度かあったが、あれはさすがに気のせいだろう。

 とにかく、わからないことが多すぎた。救いを求めるようにレスリアのほうを向くと、彼女は顎で元来た道を示した。

 いったん戻ろう、ということだ。まだ肝心の、役所での手続きが残っている。

 彼女に促され、今頃になって石畳は初めから荒れていたのだと感じながらも、そんなことはなんの気休めにもならないことを思い知らされた。

 それでも、歩を進める。

 自分が、とんでもない破壊行為をやったことは事実なのだ――どんな理由があれ。

 敵を撃退した達成感や優越感など何もなく、憂鬱な気持ちを抱えたままある程度戻ったところで、ようやく先ほどのフィーロたちが追いついてきた。

「レスリア。これはいったい……」

「フィーロ、ちょっと話がある。ロックたちはすまないが、彼を役所まで送り届けてやってくれ。あとですぐ行く」

「おで、わがっだヨ」

 どこか拙さの残る発音でやけに大柄な男がそう答えたが、里都はまったく別のことを気にしていた。

 ――翻訳しきれてないんかい。

 それとも、方言などの訛りがひどいことを滑舌の悪さで表現しているのだろうか。相変わらずよくわからない魔法だ。

 なぜかモタモタとする里都をロックらが引きずるようにして連れて行くのを見送ってから、レスリアはフィーロのほうに向き直り、再度口を開いた。

「見たか?」

「ああ、全部見た。なんだ、アイツは。とんでもねえ魔法を無詠唱、無動作で発動しやがって。それに《加速》まで使ってやがったな。まったく、とんでもねえ野郎だ」

「それは確率の問題だ。特殊魔導士の中には、彼のような力を持つ者もいることはいる」

「本来、その率が圧倒的に低いんだがな」

「それより、襲ってきたほうが問題だ」

「ああ、そういうことか」

 フィーロは、得心がいったように大きくうなずいた。

 癖でまずはいったん周囲を見回すが、彼らが去った今、他には誰もいない。騒ぎに気づいた街の衛兵がここへやってくるには、もう少し時間がかかるだろう。

 それはともかく――

「狙いは俺たちじゃなかった」

「ああ、最初の攻撃。あの軌道は明らかに“彼”のほうを向いていた」

 自分たちが標的だというならまだわかる。片や冒険者でしかも傭兵が本職、もう片方はどこにも所属しない独立魔術師だというのだから、特定の連中から敵視される理由などいくらでもある。

 だが、彼は跳躍者だ。自分と冒険者ギルドのミリア以外はその事実を知らないはずなのに。

「そもそも、奴は何者なんだ? いきなり俺にケンカをふっかけてきやがって」

「さっき、何を話していたんだ」

「あ、いや、それは……」

「まあいい。とりあえず、私たちも行こう」

 しどろもどろになるフィーロをしり目に、レスリアがさっさと歩きはじめる。

 彼らのはるか前方では、里都と小柄な男のメルクが大声で何事か言い争いをしていた。

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