ココドコ
@takasho_ouka
第1話 どこかの世界
秋の日が傾き、空を薄く朱色に染め始める。
とぼとぼと歩く男の影は、葉の色が褪せてきた街路樹の根本へと伸びていた。
はぁ、と思わずため息が出てしまう。
いつもと変わらない日常。
いつもと変わらない自分。
何かを変えたいと願ってもどうにもならず、ただ漫然と日々を過ごしているだけ。
気がつけば三十路になっていた近づいていた。
順調な人生のはずだった――大学までは。親や教師に言われたとおり勉強を頑張って、それなりの結果も残してきた。このままどこかに就職し、平凡で退屈な人生を送っていくのだろう。そんな風に漠然と考えていた。
安定したのは就活がうまくいかなくなってからだ。いや、最初からうまくいくはずもなかったのだ。
自分にその気がないのだから。
心のどこかに“本当にこのままでいいのか”という気持ちが潜み、その種はいつの間にか勝手に大きく育っていった。
そのせいか、就職活動を失敗したことに対して落ち込むどころか、少しほっとした自分さえいた。
それからというもの、“自分が本当にやりたい何か”を見つけることもなく、ただ時間だけが過ぎていった。
順調に前へ進む周りから目を背けて。
「はぁ」
と、今度はあからさまに嘆息すると、男――
腹が立つくらいに空は晴れている。唯一の慰めは、今が夕暮れ時で日が傾いていることくらいだろうか。
「相変わらず景気悪そうね」
「……なんだ、麗奈か」
「大丈夫? ちゃんと生活してる?」
この口うるさい女は、“一応”幼なじみの
細身のくせに出るところは出ていて、顔も悪くない。挙句の果てに頭がよくて要領もよくて、仕事もうまくいっているときている。
苛立たしいことこの上ない。
「歩く媚薬め」
「あんた、セクハラで訴えるよ」
「褒めてるんだぞ」
「ボキャブラリーが貧困すぎる」
「誰が貧乳か」
「はー」
呆れるのを通り越して、憐れみに満ちた目をこちらに向けてくる。
視線が、痛い。
「すまん、俺がどうかしていた。罵ってくれて構わない」
「あんたがどうかしてるのはいつものことでしょ」
「ひどい言われようだ」
「事実じゃない――って、そんなことより今日はどうするの?」
「どうって何が」
「夜」
「俺はいつもどおりだ」
「今夜は行ってあげられないから、自分でなんとかしてよね」
随分と上から目線だが、何も言い返せない。麗奈は時おり、何それとなくこちらの世話をしてくれている。
なぜそこまでしてくれるのかは、未だもって謎だ。こちらを異性として意識していないことは、普段の態度からはっきりとわかるのだが。
「フッ。どうせ合コンだろ」
「そう。あんたも来る?」
「イレギュラーが行くと悲惨なことになるから行かない」
「まあ、そう言うと思ったけど。どっちみち席の空きがないけどね」
だったらなぜ誘ったと殺意を込めた視線を送るが、相手はどこ吹く風であった。
――そういえば、最後に合コンに誘われたのはいつだったろう。
寂しい思いを振り払うように麗奈の横を通り抜けて再び歩みを進める里都の背中に、もう一度だけ声がかけられた。
「ねえ、あんたこれからどうするの?」
「どうもしない。俺は俺だ。そもそも、いちいち他人に言うようなことじゃない」
突き放すような物言いに、気配だけで相手がムッとしたのがわかる。
それでも構いやしない。いつものことだった。
どこかに居心地の悪さを感じながらも、里都はついに振り返ることはなかった。否、振り返ることができなかったといってもいい。
答えなんて、自分自身ですら持っていない。
さっきよりも余計に憂鬱になった気分を余計に萎えさせるがごとく、日が沈みはじめ、辺りは確実に薄暗くなっていく。
ちょうどいい、とムキになって考え出した彼の目に映ったのは、夕日の無駄にまぶしい輝きではなく、むしろ青白い不思議な閃光だった。
ありきたりな住宅地にある、ありきたりな道の先に、まるで夜の花火のように強く光る球体状のものが浮かんでいる。
「え、目の錯覚?」
何度か目をしばたいてみるが、見え方に変化はない。誰がどう見ても明らかに光の球が宙を漂っている。
不思議な体験をしたことは今までに何度かあるが、こんなものは目にしたことがない。
――なんだろう、妙な感じがする。
惹き込まれるような、誘われているような。
とりあえず近づいてみることにしたのは、普段慎重な里都からすれば珍しいことだった。
――やっぱり、なんかおかしい。
どう見ても輝いているというのに、まぶしさを感じない。強い光なのに、周りを刺すような様子は見られなかった。
よく観察すれば、その光球は周囲を照らしておらず、ゆえに影がない。太陽はすでに、西の丘の向こうへと沈んでいるからだ。
冷静になって考えれば考えるほど不自然だ。目の錯覚なのかと思い、周りを見回すとその違和感はいや増した。
誰も気づいていない。
ちらほらと通行人はいるのだが、その誰も光る玉に目を向けようとしない。
――ついに、俺の頭がおかしくなったか?
『ついに』と言ってしまうあたり、自分も大概だな、と思う。
急に嫌な予感が増してきた。目の前で光りつづけるそれは、目を凝らすと光源の中心に向かって渦を巻くようにして光の揺らめきが流れているのがわかる。
あたかも、こちらを手招いているかのように……
「だ、ダメだダメだ」
一瞬意識が飛びそうになったのを自覚し、あわてて頭を振って目を覚ます。
俺はこんなところで何をやってるんだ、と急に意識が冴え、いつもは慎重派でならしているくせに思いっきり危なそうなことに首を突っ込もうとした自分をたしなめる。
すぐにその場を離れることにした。こういった変なことにみずからかかわっていいことなんてほとんどない。
光球、というより光の渦に背を向け、足を速めて元来た道を戻る。なぜか、後ろ髪を引かれるような思いを抱えながら。
だが、その歩みはすぐに止められることになった。
何かの気配を感じる。飼いならされた生き物にはない、野生独特の気配。それはもはや、男にとって日頃から感じている殺気に近いものであった。
振り返ればアイツがいた。
全身を剛毛に覆われたその姿。口には鋭い牙が目立ち、その足は短いものの鍛え抜かれた様子がはっきりとわかる。
人はそれをこう呼ぶ。
――イノシシと。
「ええい、中途半端な田舎め」
店がない、というほど寂れているわけではないが、周囲を山や林に囲われ、野生生物も多い。猿、鹿、キジと、さまざまな動物が存在し、時にはそれらが街中まで出てくることもある。
数が増えすぎたのだ。狼や猛禽類などの天敵がいなくなったせいもあるが、それ以上に大きいのが“温暖化”。冬の寒さを乗り越えてしまう個体が増えたことで、各種野生生物が年々増えていくことになった。
だから、こうしてアスファルトの上に森の生き物がいることも珍しくない。自治体も対処することが難しく、事実上、放置している状態だった。
――やべえ、イノシシだけはシャレになんねえ。
大半の野生生物は臆病だ。音や匂いなどで人間の気配を察すると勝手に逃げていく。
しかし、イノシシは別だ。逆上して、むしろ真正面から猛スピードで突っ込んでくることもある。もしはねられたら、バイクと激突したのと同じくらいの衝撃がある。
里都は相手に気取られぬよう、ジリジリと距離をとっていく。相手は我が物顔でしっぽを振りながら道の奥へと歩いていった。
――人間様が逃げなければならないとは。
妙な屈辱感を覚えながら、それでも安全な距離になるまで気を抜かずに移動した。
まったく無駄な疲労感にひとつ息をつきながら、里都は再びトボトボと歩きだした。
家まではすぐだった。特別古いわけでも新しいわけでもないワンルームのアパート。そこが、今の自分のすべてだった。
いつもの扉を、いつものようにして開く。中は、ほどよく散らかった“男の部屋”である。
「はぁ」
訳もわからずため息をつき、床へ直に敷いたマットレスの上へ身を投げ出す。
また、なーんにもない一日だった。何もないのだから平和な時間だったともいえる。だが退屈で、刺激も、潤いもないのはまぎれもない事実だ。
それだけに、先ほどの光景が勝手に蘇ってくる。
イノシシではない。
謎の光、謎の渦――
これまでにも似たようなことがあった気もするが、なぜかまるで思い出せない。そこにわずかな違和感を覚えながらも、里都はもう一度“アレ”について考えてみた。
見たことも聞いたこともないはずだった不自然な物体。いや、そもそも物体なのだろうかという疑問がつきまとう。
そんな不確定要素が多い中でも、ひとつだけはっきりしていることがあった。
どこか、懐かしい感じがする。
理由は判然としないものの、似た印象を受ける何かを直に体験しているはずだ。見た目は異なっているにしても。
「どうにも気になるな……」
本来、自分にかかわりのないことのはず。気にしなければいい話だし、考えたところで無駄に疲れるだけだ。どうせなら、美女のことを妄想したほうがはるかに建設的だ。
「ああ、もう」
焦れた里都は結局もう一度立ち上がり、扉へ向かった。
単に気になるというのもあるが、あそこへ行かなければならないという強迫観念めいたものがある。
我ながら酔狂だなとも思うが、外に出たときにはもう迷いは吹っ切れていた。
――あれ? もうこんなに暗くなってる?
すでに日が落ちていたのは気づいていたが、ついさっきまでまだ薄暗い程度だったはず。少し横になったときに無自覚のうちに眠ってしまったのだろうか。
懐中電灯を持ってこなかったことを少し後悔しながらも、里都は先ほどの道を急ぎ足で進む。
自分の前方に人影を認めたのは、交差点を左に折れたときのことだった。
「あれは……」
その先に見える男の姿に、反射的に顔をしかめる。
「なんだ、
「なんだよ、その言い方。久しぶりに会えたのに」
そう言って苦笑したのは、細身の男だった。
ラフな格好をしているはずなのに、どこか気品と落ち着きを感じさせる。表情を見るだけで『この人は信頼できる』と思わされる。そんな人物だった。
「何しに来た、成功者。お前はいろいろうまくいきすぎて忙しくなりすぎて自分の時間がとれなさすぎる愚か者のはずだ妬ましい」
「本音が出ちゃってるぞ、里都……」
ほぼ独学で勉強を進め――塾や家庭教師に頼らなかったということだ――実力で奨学金を勝ち取り、いきなり米国へ留学し、しかも現地の
そう、いわゆる宇宙飛行士というやつだ。
日本ではまさに知らぬ者のない有名人で、本来ならこんなところをほっつき歩いていていい人物ではなかった。
「珍しいじゃねえか、こんなところで」
「やっと休暇がとれたから帰ってきたんだ。それで、せっかくだからみんなと会おうって」
「それはいいけど、そういえばお前、今度月面基地のミッションに行くんだったなうらやましい」
「まあ、ね」
六星の端正な顔立ちが一瞬だけ曇ったことを里都は見逃さなかった。
「あん? なんかあったのか」
「ちょっと気になることが……でも、すべてが自分の思うようになるわけじゃないから、世の中」
「なんだ、そのあきらめの言葉、俺じゃあるまいし腹立たしい」
「ISAは大きい組織なんだよ」
「自分がエリートであることをそんなに自慢したいのか!」
「いや、そういうわけじゃ――でも、そうだよな。あれもこれも求めるのはぜいたくか」
そんな言葉の割に納得した様子はなく、宵闇のせいか六星の顔はさらに暗くなったように見える。
あえてこれ以上触れることはやめ、里都は自分の本来の目的を思い出した。
「そうだ、ちょっと調べておきたいことがあって。あとで連絡してくれ」
「ああ、
もうひとりの幼なじみの名前を出したあとで、六星も本当に別の用事があるらしく足早にその場を去っていった。
久方ぶりの再会よりも例の光の玉を優先する自分自身に違和感を覚えながらも、里都も同様に動きだす。
どうせあとでまた会うのだから、となぜか己を納得させるかのように心中で独りごちた。
大事な友人ではある。だが、強いコンプレックスの対象でもあった。
相手は、何をやっても成績優秀。スポーツも集中してやれば、どの競技でもプロになれただろうと言われている。そのうえ人望もあり、ムカつくことに女にまでモテる。
子供の頃からこれまで“ずっと”だ。そう、ずっとなのだ! これが嫉妬せずにいられようか。
――やめよう。めっちゃこっちが惨めになってきた。
自分だって何もしてこなかったわけではない。むしろ常に目の前のことをがんばり、周りからは秀才と呼ばれていた。
遊びたいのを我慢して勉強に打ち込み、親や教師に言われるままにやってきた。その努力は大人になって報われる、そう信じて。
だが、その結末は……ただのフリーターだ。
――本当にやめよう、また悪い癖が出てる。
周囲から不審がられない程度に頭を振って、余計な思考を追い払うようにする。
考えてもどうしようもないことは考えない。それが、これまでの人生で強く学んだことだった。
ひとつ息をついてから角を曲がる。その先が、例の光のある場所のはずだった。
「あれ……」
近くに人がいるというのに思わず声が出てしまう。
視線の先には相変わらずその光の球があった。しかし、驚いたのはそこではない。
見慣れた人物がその前に佇んでいた。
――遥大?
見間違いでなけばそのはずだが、こちらが声をかける前に当の本人はその場から立ち去ってしまった。
なんだったんだと思いつつ、今度は逆に自分が光球に近づく。
気のせいか、先ほどより大きくなっているようにも思えた。
そして、渦の回転は確実に速まっている。
――招かれているような気がするんだよな……
なぜだろう、こちらへ来いと、君は来るべきなんだといった思いが明確な意志として伝わってくる。そんなはずはないと否定しても、こころは逆のことを感じていた。
『おいで、おいで』と言っている……
「ちょっと待て! これはやばいだろ!?」
知らずしらずの間にその誘いに頭が傾きかけていたことに衝撃を受け、さっと後ずさる。
それに合わせて相手も近づいてくる。
離れれば近づき、右へ行けば右へ動く。
こちらを狙っているのは明らかだった。
自分らしくなく厄介事にみずから首を突っ込んでしまったことに激しく後悔しながらも、里都はすぐに踵を返して走り出した。
背後に“何者か”の気配を明確に感じたまま。
《早くこっちへ来なさい》
「やっぱりしゃべってる!?」
気のせいだと思いたいが、頭の中に直接響くようにしてその声は確実に届く。
だが、この期に及んで周りはまったく光の存在に感づいてはおらず、突然走りだしたこちらを怪訝な表情で見やるだけだ。
とにかく今は全力で走ることに徹し、ひたすら足を高速に動かす。
ただの勘ではあるが、アレはヤバすぎる。このまま捕まっていいはずがなかった。
二つ分の区画を走り抜け、勢いのまま橋を渡る。それでも背後に異質な気配を感じ、危機感はいや増していく。
「なんでこんなことにっ!」
叫んだところで状況がよくなるわけでもなく、無駄に疲れるだけ。それでも言い知れぬ恐怖と違和感に、声に出さずにはいられなかった。
徐々に徐々に、自分の体が強制的に引き寄せられているのがわかる。もちろんこんな経験、今までに一度としてない!
「くぅッ」
思わず声がこぼれた刹那、前方に見知った姿を認めてわずかばかりに安堵する。
彼女に助けてもらおう……
――だ、駄目だ。何を考えているんだ、俺は!
このまま近づいたら、ほぼ確実に彼女を巻き込んでしまう。
「逃げろ、麗奈!」
「は!? あんた、何やってるの!?」
答えている余裕などあるはずもない。曲がり角を右に折れてできるだけ距離を取ろうとするが、いかんせん疲れがピークに達しつつある。ここまで全力疾走で来たのだから、持久走のように体力が持つわけがなかった。
「その光って……!」
背後からわずかに麗奈の声が聞こえてくる。何かを続けて言っていた気もするが、近くを通った軽自動車の音にかき消されてよく聞こえない。
――あれ? 周りの人には影響はないのか?
謎の光は少なくとも、今の車にはなんの反応も示さなかった。
自分だけが狙われているということか。
それは半分恐怖を、もう半分は安堵をもたらす考えだった。少なくとも周りに悪影響を与えないというなら、己の行動に余計な制約はないということだ。
逃げることに徹すればいい。
だが、集中力を落とす要因がまた現れた。なぜか大きな荷物を手に、六星が道を塞ぐようにして立っている。
「里都!」
「どけッ! どいてくれお願いだからっ!」
自分でも情けなくなるほど声が上ずってしまい、相手に届いたかどうかも怪しい。
それよりも気になったのは、六星がこちらよりも背後の光のほうを指差していることだ。
「それ!」
「は!?」
「その光、遥大から相談を受けてたんだ、最近変な光が見えるって」
切羽詰まった状況でも、その一言にハッとして思い出す。
そういえばさっきも、遥大は光の渦の前に立っていた――明らかに“それ”が見えている様子で。
「その光に吸い込まれると……」
「何っ!?」
肝心なところでサイレンの音が鳴り響き、聞き取れない。田舎特有の意味不明の有線放送だった。
「ちっくしょう!」
悪態をついてももう遅い。これ以上近づくわけにもいかず、道をそれ、六星からそのまま離れるしかない。
――どういうことだ?
なぜ遥大はこの光について知っていたのか。それに、なぜ吸い込まれるとどうなるのかを知っていたのか。
荒く息をつき、意識が朦朧とする中でも答えを求めて考えた。
――ひょっとしてこの光は本来、遥大のために現れたのか。
《待ちなさいって》
「うわっ」
《私を信じて》
「いきなり信じられるか!」
再び頭に響いてきた声に、里都は悲鳴じみた声を上げた。
「なんなんだ、お前は! 何が目的だ!?」
《じゃあ、ちょっと落ち着いて話し合いましょう》
「ちょっとお茶しましょうみたいな調子で話しかけんな! 大体、止まったらその渦の中に引きずり込むつもりだろう!」
《はい》
「こいつぅ……」
いけしゃあしゃあと言う相手に憤りを覚えつつも、けっして足だけは止めない。こういったときに大事なのは、敵のペースにのみ込まれないことだ。
「なんで俺ばっかり追いかけるんだよ!?」
《そりゃもちろん、あなたに用があるからです》
もっともな話だ、と納得しかけた自分に腹が立ち、なけなしのスタミナを振り絞って少しだけ走る速度を上げる。
しかし、いっこうに相手との距離は開かなかった。
《あなたには役目が――》
「役目? なんのことだ」
《あなたの――と、約束の時――》
どうしてだろう、光から響いてくる声が突然とぎれとぎれになる。気にはなるものの、振り返っている余裕があるはずもなかった。
――やべえ、ガチでキツくなってきた……
意識が朦朧としてくる。思考力も集中力も落ちはじめ、自分はなんでこんなことをしているのだろうと不思議に思う感情すら徐々に込み上げてきた。
それを強引に打ち破ったのはやはり、光から届く“声”だった。
《止まって!》
「止まるかよ!」
《いやマジでっ!》
「いきなりフランクに話しかけてくんな!」
と言い終えた刹那、激しい衝撃とともに視界が突然空へ向く。
中途半端な暗さの夜は、ここが田舎ながらに街中であることの証拠だった。
――何が――
と、視界の片隅に例の奴がいた。
「な、ぜ、イノシシ……」
テンパった野獣が猛スピードでこちらの脇を駆け抜けていく。おそらく、奴は人を跳ね飛ばしたことにすらまるで気づかなかったろう。
反対に、今頃になって自分の下半身に痛みが走り、嫌でも己の身に何が起きたのかを思い知らされる。
――やべえ……
単なる息の苦しさとは次元の違う、根本から来る生命の危機を感じる。
このまま下に叩きつけられたら自分は――と考えた次の瞬間、視界が完全に白く染められていった。
同時に体が落下する感覚が消え、奇妙な浮遊感に全身が包まれる。
《あー、終わった?》
試しに声を出してみると、不自然なほどエコーがかかり、まるで粗悪なカラオケ用マイクのように響き渡る。
その感触はまた、先ほどまでの光の声にも似ていた。
身体をよじっても思うように動かせない。自分は浮かんでいるものとばかり思っていたが、どうもそれともまた異なるようだ。
それからいったいどれくらいの時間がたったのだろう。あまりにも変化がなさすぎて不安を覚えはじめた頃、唐突に声が聞こえだした。
自分の声とも光の声とも違う印象。
人々のざわめき――それに違いなかった。
周りが何を言っているかまでは聞き取れない。そのときになってようやく、自分はまだ街中にいておそらくは倒れているはずだと思い至った。
肝心なことを本気で忘れていたことに自身で驚きながらも、意識を集中して肉体の感覚を研ぎ澄ましていく。
そして霧が晴れるように周囲の白いベールが薄らいでいくと、やげて空が見えた。
それは、きれいなきれいな青空だった。
「――え?」
自分は確かに道路に倒れていた。しかし背中の感触は平らにならされたアスファルトのそれではなく、粗雑な石畳のものだった。
こういうときはすぐに動かないほうがいいなどというもっともらしい理屈は吹き飛び、すぐさま体を起こす。
どこかで見たことのあるような風景。だが、それは日本のものではなく、明らかに西洋風の町並みだった。
しかも、古い。
しばらく座り込んで呆然としていると、周りの人々も驚いた様子でこちらを見ている。その姿は、ヨーロッパ系の人々のそれに見えなくもない。
金髪、白い肌、そして質素な洋服。
よく見れば、空を人が飛び、トカゲのような人間が何かをしゃべっている。
極めつけは、まるでライターでも使うかのように、指先から炎を出してかまどに火を入れている人もいる。
里都は、思わずこうつぶやいた。
「ここ、どこ……」
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