10.それは君だと言いたい

 今でもあの時は本当に情けない姿を見せたと思っている。けれどまさか自分でも安堵のあまりに腰が抜けるとは思いもしなかった。

 自分の情けなさや非力さに打ちのめされ酷い有様だった時、社交界で会ったハンナ嬢から話を聞いた時も腰を抜かすかと思ったのだ――まさか、彼女が生きているだなんて。

 いや、そもそも『彼女』すらなかったとは。予想だにできないことだった。

 だが予想できなかったのは、ただ単に俺が相手のことをきちんと知ろうとはしなかったせいでもある。向き合おうとはせず、話し合おうともしなかった。ただ向こうは嫌っているのだと思い込み尻込みし、最悪な形で逃げたそんな俺に、相手も本当のことを告げようとは思わなかっただろう。

 だから父に、婚約破棄をした本当の理由を知られた時は真っ先に呆れられた。情けない、それでもバシレウス家の男だと散々溜め息を吐かれた。

 惚れた相手の本当の気持ちを知りたいために、そんなぞんざいな駆け引きをしたのかと頭を抱えられた。

 そして何よりも父を困らせたのは、婚約破棄をした側だというのに俺の気持ちが変わっていなかったことだ。父は新しい婚約者を連れてくるものとばかりに思っていたそうで「まだなのか」と言われ続けていたが、隠し通すのも難しくなった俺は正直に思いを口にした。

 そしてめでたく、バシレウス家から追い出されたというわけだ。


「一緒に鍛錬してくれるの?」

「ああ、俺で良ければだが」

「助かるよ! 貴方は剣の腕も一流だからね」

 そして相手の安否確認をするために転がり込んできた俺は、こうして相手の厚意によって屋敷に住まわせてもらっている。最初はただただ気まずさに襲われていたものの、ここ最近は穏やかに会話ができるまでになっていた。

 最初こそは驚いた。置いてもらう身として、それ相応の働きをするべきだと思い彼の手伝いを買って出たものの……俺の想像を遥かに上回るもので戸惑いしかなかった。

 だって社交界で高値の花と言われていた彼女、ではなく彼が、泥まみれになりながら村人の手伝いをするとは思わないだろう。

 それに彼が行っているものはほとんどの貴族が嫌がることばかりだ。誰も好き好んで庶民の手伝いをしようとは思わない。会話をしたいと思う輩だってきっといない。貴族たちは自分たちが上流階級だということを知っている、自覚している。だからこそ下流階級の人間をぞんざいに扱う節だってあった。

 けれど彼はそんな素振りを一切見せない。普通に村人たちと笑顔で会話し、まるで家族のように触れ合い接していた。

 ここに来てからは、驚きばかりだ。

 いつも無表情で、人と関わるのが嫌なのだと思っていた『アリス』。けれど『アリステア』はよく笑う人だった。感情表現豊かで、美味しいそうに食事を取り嬉しそうに剣の鍛錬をしている。彼が人と話をする時はいつも笑顔だ。

 そんな彼を見ていて、俺は今まで相当無理強いをしていたのだと思い知らされた。

 きっとこうして、誰かと笑顔で話したかったのだろう。ドレスを着てダンスの練習をするよりもパンツを履いて剣の鍛錬をしたかったに違いない。窮屈な社交界よりも、自然豊かなこの場所のほうが心が安らぐのだろう。

 そんな彼がしたかったことを、俺はすべて封じ込めさせていた。俺が『婚約者』に指名したばかりに。やりたくもないことばかりさせてきた。

 彼の新たな一面を見る度に心苦しくなる。俺はどれだけ独りよがりの人間だったのか、思い知らされる。

 ただ一つだけ。彼女の気持ちを知りたいがために婚約破棄という手を使ったが、彼のことを思えばあれは何よりも最善の方法だったのだと今では思うことができる。

 もう一度、彼にはしっかりと謝罪したい。ただ自分の罪悪感を少なくさせるためだけの謝罪かもしれないが、それでもしっかりと頭を下げたかった。そうしたところで彼の『令嬢』で失われた時間が戻ってこないと、わかっていながらも。


「ライ」

 想像していたものよりも少し低い声が俺の耳に届く。瞠目し、声の主へと視線を向ければ相手は小さくはにかんだ。

「ちょっと、呼んでみたかっただけ。友人同士って愛称で呼び合う時もあるんでしょ? 私はほら、友人と呼べる人がいなかったからさ」

 彼には謝罪しないと。そう考える頭を他所に、俺の心はまた別のところで暴れていた。

 徐々に距離を置き婚約者だというのに疎遠になっていったアリス。彼女はきっと変わってしまったんだと思っていた。だからこそ俺は一方的に色々と考え込みあんな行動に出た。

 だが、彼は何も変わってはいなかった。幼い頃、迷っていた俺を案内し最後は少し茶目っ気のある笑顔で見送ったあの時と、何も変わっていない。

 俺が心を奪われた時と変わらない、優しいままだ。

「……そう、呼んでくれても構わない」

「本当?! 嬉しいな、友達ができたのはこれが初めてだよ!」

 友達、と声に出すことはせず小さく言葉をこぼす。友達、友人……彼がきっと今まで欲していたものだろう。

 だが俺のこの気持ちは、きっと『友達』の枠には当てはまらない。

「……アリステアは、ずっと身体を鍛えたかったのか?」

「うん、だって格好いいでしょ? でも私はライみたいに筋肉がつくわけじゃなさそうだ……残念」

 肩を落としつつも自分の腕を触っているアリステアを眺めながら、恐らく彼は元より表に出にくい体質なのだろうなと思う。別にひ弱だというわけではないのだが、俺のようにがっしりした身体つきではなくスラッとしている。見た目ではわからないから実感もあまりないのだろう。

 今ではこうして普通に会話をしているが、この屋敷に来てから俺は言葉遣いを改めようとした。なんせ俺は勘当された身、もう爵位などなく彼のほうが上の立場だったからだ。だが彼は頭を思いきり左右に振って否と答えた。今更改められるとこちらが困る、そう言って。

 だから俺は彼を名で呼ぶことを許され、こうして気さくに話すこともできる。たまにここの使用人たちの視線が気になるが、敢えて気付かないふりをしている。それはなぜか。

 俺が今も昔も変わらず、ずるい人間だからだ。

 きっと彼は気付いていなくて、周りの人間が気付いている。だからこそ監視のような視線が俺に向けられる。優しい彼のことを周りの人間は大切に思い、そして傷付いてほしくないそう思っているからこその反応だ。彼らの気持ちが俺には痛いほどわかる。

 だが、痛いほどわかるくせに俺は引き下がろうとはしない。彼の厚意に甘えて、より一層距離を縮めようとしている。彼は友人の距離だと喜んでいるそれに、俺は更に足を踏み入れようとしている。

「アリステア」

「ああ、ありがとう」

 砂にまみれた手に自分の手を差し伸べれば、迷うことなく重ねられた手のひらを包み込み軽く引っ張り上げる。村人たちのためにと働き者の手を、汚れるから触れたくないなどとは一つも思わない。

 社交界のダンスで何度も重ねた手だけれど、布一枚で阻まれたあの時よりも今のほうがずっといい。節くれだっている手は間違いなく男の手、けれどあたたかな体温をしっかりと感じ取ることができる。

「なんだか不思議だね」

「何がだ?」

 剣を収め汗を拭っている姿に、同じように剣を収めた俺は視線を彼に向ける。

「私たちは長いこと『婚約者』だったのに、今のほうがずっと距離が近いような気がするよ」

 髪も短くなり、ドレス姿でもない。どこをどう見てももう『令嬢』の姿ではない彼は、小さく表情を綻ばせる。

「恥ずかしい話、私はライについて何も知らない。だから少しずつでもいいから教えてほしいかな――仲良くなるのに、今からでも遅くないよね?」

 もし、もしだ。俺が『婚約者』に指名していなかったら。お互い友人同士で楽しく過ごせる過去があったのだろうか。彼は秘密を抱えいつ知られてしまうのか怯えて過ごすことなく、昔からずっとこうして笑顔を向けてくれていたのだろうか。

「アリステアが……そう望むのであれば」

 なんだって教えてやる。俺のことを知りたいというのであれば――ただ一つだけ、教えるのに難しいことはあるけれど。

 アリステアの表情がパッと明るくなる。同年代の友人ができて本当に嬉しいのだろう。早速「好きな食べ物は?」と聞いてきて、苦笑気味に「なんでも」と答えてしまった。正直食に対して好き嫌いがない、というよりもそもそもあまり興味がない。腹に入ればそれでいいと思っている節があるせいだ。

 するとアリステアは「困ったな」と眉を下げ、ウンウンと悩み始めた。その姿を見ているとグッと胸が締め付けられる。それは決して嫌な痛みではない、どこか甘くて、優しいものだ。

 相手は勝手に男だった君を婚約者にした挙げ句、一方的に婚約破棄を言い渡した男だぞ。ろくなもんじゃない。そんな男のためにそこまで悩まなくていいと言ってしまいたくなる。けれど言ったところで、きっと彼は再びウンウンと悩むんだろうな。

「そしたら好きなものを見たら『これが好きだ』って教えてよ」

 そう微笑むアリステアに、つい目を細め小さく顔を俯けてしまう。ああもう、本当に。勝手に女性だと勘違いして婚約者にして、散々な目に合わせてきたというのに。俺は過去から何一つ学ばない。

 美しく流れる長い髪もない、透き通るような高い声でもない、目を合わせると視線は下には向かないし、手は俺と同じようにしっかりしている。もうそこに社交界の花だった彼女はいない。そのはずなのに。

 けれど女性ではなく同性だったとか地位は向こうのほうが上だとか折角向こうは友人だと思ってくれているのにとか。

 そんなことすべてどうでもよくなるぐらい、苦しいぐらいに俺は『アリステア』という人間が好きでたまらなかった。

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