6.ただ、知りたかっただけ
我儘を言ったのはあれが初めてではないかと、今でも思う。
当時頭角を現していたクレヴァー家に父は興味を懐き、支援というものも含めての婚約だった。その家の長女であった女性と顔を合わせ、この人と将来夫婦になるのだなと思いつつトイレに立った時だった。
クレヴァー家の屋敷は実用性重視だったため装飾品なども極端に少なく、正直に言って、初めて来る人間にとってはまさに迷路そのものだった。だからといって誰かにトイレに付いてきてもらうのも何だか嫌で、一人で向かったのだが……トイレから出た後、方向がわからなくなった。どこもかしこも同じで、どっちから来たのかわからなくなったのだ。
そこで出会ったのが、彼女だった。
クレヴァー家にはもう一人子どもがいることは聞いてはいたが、しっかりとした印象のある長女と比べその子は声もまだ幼く柔らかな印象だった。そしてその雰囲気と同様に、心根の優しい子でもあった。
深く追求してくることもなく、また失礼に何かを聞いてくることもない。必要最低限のことだけを聞いて、必要最低限のことだけをしていた。けれど最後別れ際に、まるで迷子になっていたことは黙っていると言わんばかりの笑顔に。俺の心臓はドッと激しく脈を打った。
それからずっと心臓は慌ただしくて正直それから何を話したのか覚えていない。ただクレヴァー家から去ろうとした時、見送りにやってきた彼女を視界に入れて、無意識に身体は動き口は言葉を零していた。
『婚約者』となって、俺は間違いなく浮かれていた。恐らくだが、あれが俺の初恋だったのだろう。そんな相手が隣りにいて、ずっと一緒に生きていけると思うと喜ばない人間はいないのではないか。
子どもの頃はまだよく顔を合わせて一緒に遊んでいた。バシレウス家に呼んだこともあればクレヴァー家に遊びに行ったこともある。色んなことを喋ってお互いを知っていこうとしていたはずだった。
けれどなぜかそれが徐々になくなっていった。成長するにつれて彼女はどんどん美しくなる。けれど誰かと楽しくお喋りをすることがなくなった。俺の隣に立つことが少なくなった。子どもの頃のように手を繋ぐこともなくなった。
所詮政略結婚だ、愛がないのが当たり前だと言う貴族だっている。けれど、俺には楽しく過ごしていた幼少期の記憶があるから、とてもじゃないがそうとは思えなかった。
それとも、そう思っていたのは俺だけだったのか?
次第にそんな考えが頭を埋め尽くすようになる。その頃には彼女との会話はほぼなくなっていた。笑みを浮かべていたとしても、それは社交向けの上辺だけのもの。彼女が楽しく笑っているのを見たのはいつなのか、それも徐々にわからなくなってくる。
ただ苦しかった。俺の隣にはもう立ちたくないのだろうか。そもそも、婚約事態が嫌だったのだろうか。俺の独りよがりで、彼女には無茶な思いをさせていただけではないだろうか。
とにかく彼女の心が知りたかった。彼女が嫌だというのであれば、婚約破棄も視野に入れなければいけない。
本当は、嫌だけれど。成長し色んな人間と会うようになったけれど、それでも俺は彼女以上に心奪われる女性に会ったことがない。彼女以外の女性が隣を立つだなんてまったく想像できなかった。
「ん……?」
社交パーティーがある時は、必ず彼女をエスコートし一曲だけ踊るようにしている。本当ならば付きっきりで傍にいてあげたいが、彼女がどこかそれを嫌っているような気がして自然とそうすることになっていた。けれどエスコートをするのも、一曲だけ踊るのも俺の意地だ。せめてこれだけでもしてくれと心の中で懇願している俺がいるからだ。
一曲踊り終えれば彼女は姿を消す。どうやら壁の花になっているようだが、見事に気配を消すものだからいつも見つけるのに苦労をする。俺はパーティーが終わって彼女から話しかけてもらわないと、彼女の姿を探すことができない男だ。
だが意地でも探し出したくて辺りを見渡していると、俺と同様に辺りをキョロキョロしている女性の姿が目に入った。あまり見慣れない姿、そして……こう言ってはなんだが、そのドレスだと他の令嬢たちから色々と言われるだろうなと思うような装いだった。
そんな女性とパチッと目が合い、向こうが慌てて頭を下げてきた。俺も軽く会釈をしようと思ったがなぜか女性がこちらに向かって歩いてくる。
「あ、あの、アリス様の婚約者の方ですよね……?」
俺ではなく彼女のほうを認知しているのかと内心苦笑を漏らす。確かに彼女は美しく、まさに社交界の花だ。あまり喋ったり他の令嬢と群がっていることもしないため、高嶺の花として憧れを抱いている者も多々いた。彼女もその一人だろうか。
「わたしアリス様にお礼を言いたいんですけれど……姿が見当たらなくて……」
「ああ。俺も探しているところだが、彼女を探すのは至難の業だぞ」
「えっ、そうなんですか? で、でも、あんなに美しい人ならすぐに見つかりそうなんですけど……」
「確かにな」
あれだけ美しいのならば何もせずとも目立ってしまいそうなのに、と俺も今まで何度思ったことか。
だがこの時、俺の頭は最低な計画を思い浮かべていた。ただただ、彼女の心が知りたい、その一心で。
知りたかったんだ。俺のことをどう思っているか。好きなのか、嫌いなのか、それだけでも教えてほしかった。彼女は、何一つ俺に言ってはくれなかったから。だからこんな愚かな計画を立てた。
他の女性と一緒にいれば、嫉妬してくれるだろうかと。くだらない噂を信じ彼女を疑ったら傷付いてくれるのだろうかと。もし、一方的に婚約破棄をすれば、彼女は涙を浮かべてくれるだろうかと。
最低なことをしているのはわかっている。けれどそうでもしなければ俺は自分を保ってはいられなかった。自分でもまさかここまで女々しい男になるのかと驚いている。けれどどうも彼女のこととなると不甲斐なくなる。
彼女に礼を言いたいと言ってくれたハンナ令嬢には、悪いが手伝ってもらった。純粋に彼女を慕っている令嬢は彼女のことを貶めようとはしないはずだから。俺の考えを彼女に伝えた時、迷った様子を見せたもののそれでも手伝ってくれると頷いてくれた。
結果はどうだ。
乾いた笑いしか出てこない。別の令嬢と一緒にいたところで彼女はまったく嫉妬を向けてはくれなかった。噂で彼女を追い詰め、正式な婚約破棄をしてみればどうだ。
彼女は喜んだではないか。それはもう綺麗な笑みを浮かべて。
こんなにも笑みが美しくなっていることに俺はその時初めて知った。そんな笑みを浮かべることもできたのかと。綺麗なカーテシーを身に着けていた彼女は後ろ髪を引かれることなく、休憩室から出ていく。
「ライラック様……」
捕まえることができないはずなのに、手を伸ばしていた。空振りして、パタンと静かに閉じられたドア。
「は、はは……」
「あの……」
「俺は所詮、その程度の男か……」
俺に対し未練も何もない。婚約したのだって彼女の意志ではない。俺が、彼女がいいと我儘を言っただけだ。
「ごめんなさい……わたし、余計なことを……」
「……いいや、協力してほしいと言ったのは俺の方だ……感謝する」
ただ、一人にしてほしいと告げれば、ハンナ令嬢は遠慮がちに休憩室から出ていった。
空回りとはこのことか、と手で顔を覆い隠す。嫌という感情はあったのだろうか。嫌々に婚約者をやっていたのだろうか。それとも、そもそも何も思っていなかったのだろうか。興味すら、なかったとすれば。
虚しさばかりが募っていき、力なく笑うことしかできなかった。
けれど、これで彼女は自由になった。婚約破棄は正式なものだ。バシレウス家もクレヴァー家も婚約破棄したところで双方の繋がりはなくならないよう、事前に書面を交わしている。
「悪かった、アリス」
今まで俺の我儘に付き合わせてしまって。ただ、優しく笑う君の隣にいたかっただけなんだと、きっと彼女には伝わらなかっただろう。
しかし後日、事態は更に俺に追い打ちをかける。
「どういうことですか?! オリヴィア嬢!」
急ぎクレヴァー家に馬車を走らせ、執務室にいるオリヴィア嬢のところへ詰め寄った。彼女は机から顔を上げ、小さく息を吐き出し窓の外へ視線を向ける。
「ご報告したとおりです」
「なッ……!」
「こちらですでに確認が取れています。あの子がこうなった責任は、私にあります」
それは、彼女が僻地へ移動している最中、盗賊に襲われ命を奪われたというもの。護衛していた騎士二人も彼女を守って亡くなったらしい。
彼女は婚約破棄をされたため、家のために僻地へ追放するというオリヴィア嬢からの手紙が来た時はそこまでしなくてもと強く反対したつもりだったのだが。どうやら彼女の意志は変わらなかったらしい。よりその力を発揮するようになったオリヴィア嬢は常に手を抜かない。寧ろ僻地へ追放した程度に留めたのは彼女のその手腕があったからだ。
「葬儀はこちらで執り行います。貴方との婚約は破棄されている。その手を煩わせることは致しません」
「っ……俺、は」
「『アリス』などと言う妹はいなかった。その存在を忘れ、自分の幸せを生きてください。ライラック殿」
またしても遮られるかのように、目の前でパタンと虚しくドアが閉まる。まるで俺の前を阻むかのようにそびえ立つ壁のようだ。
結局、何が正しかったのだろうか。彼女を試そうとしたことが悪かったのだろうか。婚約破棄をしていなければ、彼女が道中に盗賊に襲われるだなんてこともきっとなかった。いや、そもそも、最初から俺が我儘を言っていなければ。
クレヴァー家の執事から労るように背中を撫でられた。その優しさが、幼い頃に見た彼女のもののようで。ただただ虚無感と、やるせなさに襲われるしかなかった。
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