5.なくて、あります

「良い天気でよかったですね」

「そうだね。これなら予定通りに着くかな?」

「何事もなければ予定より早く着きますよ。アリステア様、すぐにドレス脱ぎたいんでしょう?」

「そうなんだよ。最後にノラが気合を入れたものだからちょっと苦しくて」

「はははっ、実はノラもアリステア様を着飾るのを楽しんでいたようですよ」

「そうなの?」

 道中、走り続ける馬車の中で御者とお喋りをしていた。クレヴァー家に仕えているみんなは私の事情を知っているから、私の気持ちもよく汲んでくれる。

 もう身長も声も手も気にしなくていい旅は、とても心を開放感で満たしてくれていた。向こうに行ったらちゃんと姉上に言われた通りのことをしなければならないけれど。でももう少しだけこの開放感に浸らせてほしい。

「わっ?!」

 と思った傍から。突然馬車が止まって、前のめりになった私は急いで体勢を整えて顔を上げる。

「何かあった?」

「それが、女性が一人馬車の前に飛び出してきました」

「え?」

 護衛でついていた騎士であるディーンがそう教えてくれたけれど、なぜわざわざ馬車の前に? と首を傾げている時だった。もう一人の護衛、フィンの声が聞こえて急いで視線をそちらへ向ける。騎士がこっちに駆け込んでこようとしている女性を遮ろうとしていた。

 けれど、なんだかチラチラ見える姿にどこか見覚えがあるような……グッと眉間に皺を寄せて目を凝らしてみたら、だ。

「アリス様!」

「あ、あれ?! ちょっと。ディーン、あの女性を通してあげて」

「お知り合いですか?」

「うん、そうだね。暴力は振るわないでほしい」

 私を守るために馬車のドアの前に立っていてくれていたディーンだけど、ちょっと退いてもらって急いで馬車から降りる。私と目が合った女性は泣きそうな顔をしながらこっちへ駆け込んできた。

「ア、アリス様! わたし貴女に言わなければいけないことがあって……!」

「落ち着いて、ハンナさん。話はちゃんと聞くから」

「えっ……わ、わたしの名前、知っていてくれたんですか……?」

「それはもちろん」

 なんたって『婚約者』を押し付ける相手だから、色々と調べさせてもらったけれど。でも彼女の中でそれがどう歪曲されたのかわからないけれど、なぜか感動したかのような面持ちになっている。

「わ、わたし、そんなアリス様になんてことを……!」

「う、うん? よくわからないのだけれど、いきなり馬車の前に飛び出すなんて危ないですよ」

「飛び出してでも止めないとと思って……アリス様が僻地へ追いやられると聞いて、居ても立っても居られなくなってっ……! わたしのせいで、アリス様がっ」

 いいや寧ろこうなるように仕向けたのが私なんですけれど。彼女が何を気にして自分を責めているのかわからないし、その必要もまったくない。

「実はわたしっ」

「――! シッ、静かにして」

 何かを言い出そうとしたところ悪いけれど、人差し指を口元に立てて周囲を見渡す。騎士の二人も異変を察知してそれぞれ剣の柄に手を伸ばした。

「何人いる?」

「十二人程度ですかね」

「意外にいるね。ハンナさん、危険だから馬車の中に入っていて」

「え、え……?」

「急いでください、アリステア様」

 彼女をグイグイと押し付けていると背後が唐突に慌ただしくなる。草木の間から一斉に飛び出してきた相手は迷うことなくこっちに剣を振りかざしてくる。それを騎士二人が応戦していて、こんな騒ぎに遭遇したことがなかったのか彼女の顔が可哀想になるぐらいサッと青くなった。

「ほら、出てきたら危ないから奥に行ってて」

「えっ……アリス様……? 一体何を……?」

「何をって」

 恐る恐る尋ねてくる彼女に目を丸める。馬車の椅子の下に隠しておいた剣を取り出して鞘から引き抜く。

「多勢に無勢でしょ? 加勢に行ってくるよ」

「か、加勢?!」

「鍵はしっかり閉めておくように。危険だから馬車から出ないで」

「アリス様?!」

 しっかりと馬車のドアを閉じて後ろを振り返る。普通の貴族なら「たった二人の護衛」と思うかもしれないけれど、寧ろ二人で十分、といったところだ。それだけ優秀な護衛をつけてくれたのだから姉上には感謝をしなければならないけれど。まぁ、そこは追々。

「ディーン、フィン、どう?」

「まぁまぁですね」

「でも気を付けてくださいね、アリステア様」

「うん、二人共怪我をしないようにね――って、おっと」

 二人の間をすり抜けてきた男がこっちに向かって走ってくる。振り下ろされる剣を自分が持っている剣で弾き返した。馬車の中から悲鳴のような声が聞こえたけれど、正直そんな彼女に気を遣ってあげられる状態じゃない。寧ろ相手の男を馬車の中に入らせないように私がここで食い止めないと。

「おいおいべっぴんさんが剣なんか持ってんじゃねぇよ。大人しく、斬られとけ!」

「随分と物騒なことを口に、するね!」

 捕まえる、なんてことはせずに殺すことが目的か。なるほどなるほどと思いつつチラリと男の背後に視線を走らせる。男はこんなこと言っているけれど、彼のお仲間はもうすぐ騎士たちが全員倒してしまうところだ。

「アリス様!」

 ガチャッと音が聞こえて急いで後ろを振り返ってしまった。まさかと思ったらやっぱり鍵を外してドアを開けようとしている。きっと私のことを心配して飛び出そうとしているのだろうけれど、でも申し訳ないことに今はそれは逆効果だ。

 後ろに気を取られている間に男が剣を振り上げて、私の胸を目掛けて真っ直ぐに振り下ろした。悲鳴と、目の前で勝ち気に笑う男の顔。そしてその男の背後では騎士二人が……普通~に様子を眺めていた。なんて騎士たちだ、どうしてそんなところばかり当主に似てしまうのだろうか。

 やれやれと一度軽く息を吐きだして、斬られた衝撃で半歩後ろに下がった足を前に踏み出し今度はこっちが思いきり剣を振り下ろす。短く何かが潰れたような声を上げて男は仰向けに倒れた。

「大丈夫でしたか? アリステア様」

「うぅ……手が痺れるよ……これはもっと腕に筋肉つけないと」

 女性の格好をするために鍛錬も控えていたから、剣を振ることができてもそれを持続することができない。今後の計画を頭に描きつつ持っていた剣をディーンに渡して馬車に戻る。もう少しでドアを開けそうだったな、と覗き込んでみたら涙目の彼女が飛び込んできた。

「アリス様! む、胸がっ! い、い、急いで、て、手当てを……!」

「胸って、これのこと?」

 ペラッと剣で切られた布を持ち上げる。

「そうです! 胸、を……?」

「胸にたくさん詰めていたから薄皮一枚程度しか切れてないよ」

 ほら、と切れた服からポロポロと詰め物が落ちていく。顕になった普通の胸板に彼女は固まり、そして凝視している。

「……ア、アリス様は、その、あ、あまり……膨よかでらっしゃらない……?」

「元からそうだね。下はあるけど。確認してみる?」

 チラッとスカートの裾をめくってみると、彼女は両目を手で塞いでからバッと思いきり顔を背けた。でもすぐにそろっと顔を戻してきて、指の隙間から目がこっちを向いているのが私から見えている。

「アリステア様、後片付けをする者が後からやってくるので我々は先に行ってしまいましょう」

「そうだね。向こうに着くの遅くなっちゃうし……寄り道しなきゃいけなくなったしね」

 唖然としているハンナさんに苦笑しつつ、早速自分たちの馬に戻っている騎士たちと同様私ももう一度馬車に乗り込んだ。ハンナさんも一緒に中に押し込めつつ。

 対面する形で腰を下ろしたけれど彼女は未だに半ば放心状態で、苦笑を漏らしていると馬車は走り始めた。恐らく後片付けをやる部隊の姿が見えたのだろう。

「ハンナさん。私はまず貴女に謝らなければならない」

「え、えっ……?」

「私は貴女に『婚約者』を押し付けた。理由は『これ』さ」

 胸辺りの布をめくれば彼女はちょっと顔を赤くしつつも、真剣な表情で話を聞いてくれている。

「……男性、だったんですか……?」

「うん、そうだね、話すと長くなるんだけど……彼と初めて会った時、私は家のしきたりで女の子の格好をしていたんだ。そしてなんだかんだあってそのまま『婚約者』となってしまったということなんだけど」

 苦笑を漏らしつつ頬杖をつくと、さらりと髪が重力に逆らわずに流れる。本当ならばここまで伸ばす必要のなかった髪だ。

「このままだと私は罰せられるし家にも迷惑がかかる」

 こうなった原因がその家の当主である姉上のせいでもあるけれど。

「だからといってこちらから婚約破棄もできない。どうにかして向こうから破棄されないかどうか悩んでいたところ、貴女が現れたんだ。私にとって貴女はまさに女神だったよ」

 向こうは彼女と仲睦まじくやっているようだったし、本当によく出会ってくれたものだと感謝してもしきれなかった。まぁ、彼女としては婚約者のいる男性と仲良くなってしまい、しかも婚約破棄をした原因が自分にあるかもしれないととても心苦しくはあっただろうけれど。

 そんな心優しい彼女を騙す形になってしまって、自分のためとはいえ申し訳なく思う。だからこそ再び彼女に深々と頭を下げた。

「本当に申し訳ないことをした。私のことで心苦しく思うことなんか何一つない、自分の幸せのために生きてほしい。自分勝手の願いだとわかってはいるけれど」

「あ、頭を上げてください! アリス様にも事情があることはわかりました……それに、周りの人たちはアリス様がわたしのことをいじめていたという風に言っていましたけど、わたしアリス様にいじめられたことなんて一度もないと思っているんです」

「え?」

「だってアリス様が口にしていたことは、すべて令嬢として必要な作法ということはわかっていました。わたしは社交界に不慣れで、至らないところばかりだと思っていたので……しっかりと注意してくれるアリス様に、寧ろずっとお礼を言いたかったんです。言うタイミングが中々なかったんですけど……」

「……ハンナさんが優しすぎて、私心配だよ」

 そりゃもうずっと優しい女性だとは思っていたけれど。私の身勝手な事情で当人が知らぬ間に色々と振り回してしまったというのに。

 馬車の中が小さく揺れて、道が若干マシになってきたのがわかった。ひと気も徐々に見えてきて街の端に来たようだ。まぁさっきまで森の中を敢えて走っていたわけだけど。

「あの、アリス様――」

「ハンナさん、本当に身勝手で悪いと思ってる。でも貴女に私の秘密を知られてしまった」

「えっ……?」

 徐々に減速していく中、目を丸めている彼女ににこりと笑みを向ける。

「君を助けたお礼に、今回のことは他言無用でお願いするよ」

「も、もちろんです! 誰にも言いません! きゃっ?!」

「ああよかった、貴女がそう言うということはきっと誰にも言わないでいてくれるね」

 馬車が止まり、ポーイとハンナさんの身体を軽く外に放り投げた。目を丸くして地面に降りて振り返った彼女の後ろは、彼女の家だ。

「よろしく頼むよ。私はやっと男として生きていけるんだ。この幸せを謳歌させてほしい」

「ア、アリス様! ちょっと待ってください! まだ言わなきゃいけないことがっ」

「達者でね、ハンナさん!」

 パタン、とドアを閉じて馬車は反転すると森のほうへと戻っていく。彼女はまだ何か言いたげだったけれど、このままだと予定していた時間内に向こうの屋敷に辿り着けなくなってしまう。

 慌ただしくなって申し訳ないと思いつつ、ある意味ハンナさんに私が男だとバレてよかったのかもしれないと肩の荷が下りてしまった。婚約破棄になったのは私が望んだからで、僻地に行くのも私の要望だった。だからハンナさんが気にすることなんて何一つないのだと言いたかった。

 それに彼女はとても口が固い人だから私が男だと周りに言いふらすこともないだろう。これで一段落かな、とまたガタガタとお尻が痛くなるぐらい揺らされている馬車の中でそっと息を吐き出した。

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