4.行ってきます
「はぁ……これが最後とはいえ、やっぱり女性の支度は大変だ……」
「あとこの一回ではありませんか。なんなら気合入れましょうか?」
「いいよ、いつもどおりで……」
出発前、『アリス』が領地の隅へ追いやられるため私は今日も女性の格好をしていた。まぁいざ馬車を興味本位で覗き込んでみたら男が乗っていたらそれはそれでまた問題になってしまうため、仕方がないといえば仕方がないだろうけれど。
婚約破棄を言い渡されたあの日でこの格好も最後だなと思っていたから、まだちょっと残念感があった。ドレスを脱ぐのも、髪を切るのも、村に行ってからになる。
「そういえばノラはついてきてくれるんだって?」
「そうですね、一応お付きとしてアリステア様と共に参ります」
「本当は?」
「監視です」
「だろうね」
幼い頃からずっと傍で仕えてくれているメイドのノラは、それはもう姉上に忠誠を誓っている。姉上のためならなんだってやる優秀なメイドのため、まぁ、私のためを思ってついてきてくれる……とは思わなかったし私は別にそれでも構わない。
きっと私がサボらないように監視するつもりなんだろうなぁ、ということはわかっていたから。
それにノラは毎日こうして私が女性の姿をする時にいつも手伝ってくれて、髪型までやってくれていたから別に文句もなかった。こんな、どんどん大きくなっていく身体に合うようにドレスを見繕うのも大変だっただろうなと、寧ろ苦労をさせてしまって申し訳ないぐらいだ。
支度を終え鏡を見てみるとそこにいるのは『アリス』だ。本当、顔ばかり母上に似てしまったため悲しいことに女性の格好をしたところで違和感がない。ノラの手腕のおかげもあるけれど。
「荷物は本当にこれだけですか?」
「うん。もう着飾る必要もなくなるだろうし、なるべく身軽で行きたいんだ」
「確かにドレスとか装飾などはもう荷物でしかありませんからね」
「それを毎日身に纏うんだ。本当に世の女性たちを尊敬するよ。彼女たちは毎日鎧を纏って戦っているようなものなんだから」
まったく、社交パーティーに出席するだけで一体どれほどの労力が必要なのか。ドレスやメイクにも流行があって逐一チェックをしなければならないし、ドレスに合うような体型もキープしなければならない。だからといってパーティー会場では毅然とした立ち振舞をするのだから、その日々の努力には頭が下がる。
必要最低限の物だけが入っているトランクを持って、自室から出る。すでに馬車はもう待っているだろう。急いで門へ向かえば御者と護衛の騎士、そして見送りの姉上が待っていた。
「他に必要なものはすでに積んであるからな」
「ありがとうございます! 姉上、行ってきますね」
「ああ、行っておいで」
中々に辛辣でド畜生な姉上だけれど、でも愛情がまったくない、という人ではない。寧ろその逆だ。本来ならさっさと見捨てることだってできたはずなのに、ヒントをあげてこうして準備までしてくれた。そんな姉上を心から嫌うことなんて決してない。
馬車に乗り込み、小窓から顔を出す。目が合った姉上に手を振れば小さく笑みを浮かべて手を振り返してくれた。
馬車は走り出し、小さくなる屋敷と姉上たちの姿を私は見えなくなるまで見続けた。
***
「静かになりますね」
「ゆっくり過ごせていいではないか」
アリステア様の馬車を見送り、オリヴィア様はいつものように執務室に戻られた。旦那様と奥様がいらっしゃらないこの屋敷は使用人と、そしてお二人の姉弟のみ。しかしそのお一人もとうとう出ていってしまい、いつも以上に静寂を感じ取ってしまう。
オリヴィア様が執務室の窓から外を眺める。ここからだと門が見え、来客などもよく見える。そして、去っていく馬車の姿も。
いつも涙目になりながら訴えてくる弟に、それをあしらう姉。という構図ではあったものの、たったそれだけの仲ではないことをこの屋敷の者ならば誰もが知っている。オリヴィア様は少々、素直になれないお方なのだ。
別にお二人が幼い頃はこうまでなかったのだけれど、徐々に変わりつつあったのは旦那様が跡継ぎをアリステア様へと正式に決定しようとした時。
オリヴィア様は幼い頃よりもその才が秀でていた。しかし普段倹約家を毛嫌いし、この屋敷に寄らない血縁の者がやってくる度に「男子であればどれほどよかったことか」と口にする。賢いオリヴィア様はその言葉の真意に気付かないわけがない。
しかし彼女は長子なのだからと、周りになんと言われようとも己の才に溺れることなく必死に勉学に励んだ。性別など関係なしに父は判断してくれる、彼女はそう信じていた。
けれど旦那様が出した答えに、彼女はどれほど打ちのめされたことか。
「あねうえ!」
自分がいくら努力をしようとも手の届かないもどかしさ、しかし何もせずとも手にすることができる弟は無邪気に自分に話しかけてくる。当時のオリヴィア様の心の葛藤は誰にも計り知れない。
恨んだことなどない、とは言い切れないだろう。別に弟が悪いというわけではないと、わかっているけれど。それでも当時の常識が彼女を苦しめ追い詰め、次第に姉弟仲は徐々に疎遠になりつつあった。
しかしそこで終わらせなかったのは、当時姉をひたすら慕っていた弟だった。
「なぜですか父上!」
オリヴィア様が旦那様の執務室の前を通り過ぎようとした時と、私がお茶をお持ちしたのはほぼ同時。そしてその時執務室の中からそのような声が聞こえ、互いに自然と動きを止めた。
「なぜ姉上を跡継ぎになさらないですか!」
「アリステア……私も心苦しいんだよ。けれどわかっているだろう? あの子は女の子だ」
「それがなんだと言うんですか?! 姉上が誰よりも優秀だということは父上だってわかっているでしょう?! 男とか女とか、たったそれだけのために姉上を蔑ろにするおつもりですかッ!」
私はこの時初めて息を呑んだ。何よりも、アリステア様がこうして声を荒げるのを初めて聞いたのだ。それはきっと私だけではない。少しだけ視線を向けてみるとオリヴィア様も同様に息を呑み瞠目していた。
「私は姉上がずっと、ずっと努力してきたことを知っています! それもこれもこのクレヴァー家のためでしょう?! 私は賢くもなければ姉上のように物事を正しく見極める目だって持っていません。この家の跡継ぎに相応しいのは私よりも姉上ではありませんかッ!」
「ア、アリステア……落ち着いて……」
「私なんか未だに女性の格好させられて、しかもこのまま結婚してしまうんですよ?! 結婚したあとに男だったことがバレて下手したら処刑されます! 寧ろそんな男を跡継ぎなんて正気ですか?! こうなったのもあの時姉上に強く反対しなかった父上の責任ではありませんか?!」
「うっ……!」
「父上ッ!」
まさか、旦那様がアリステア様に口で負けるとは。そもそも心優しいアリステア様は衝突を嫌っているため、こうして口を荒げることもなければ口論になったこともない。旦那様ももちろんそれを知っているため、まさかこうまで強く言い返してくるとは思いもしなかったのだろう。
後日、クレヴァー家の正式な跡継ぎはオリヴィア様に決まった。旦那様の中にも様々な葛藤があっただろう。しかしオリヴィア様は喜びを噛み締めながらそれを承り、アリステア様は心から喜んでいた。
オリヴィア様がこうして当主になることができたのは、アリステア様の口添えがあったからこそ。そしてオリヴィア様はそのことを誰よりもわかっている。
オリヴィア様はアリステア様が男として生きていきたいと願っていたことも知っていた。だからこそそうなるために裏から様々な手を回していたのだ。正直婚約者の相手については何も思っていないに違いない。彼女にとっての優先事項は弟であり、その他は二の次なのだ。
当時はお相手のバシレウス家の力添えが欲しかったが故に、婚約は受け入れざるを得ない話だったのだが。お相手がまさかアリステア様を選んだことによって彼女の頭の中は高速に動き出し、そして最も最善の方法を叩き出した。恐らくこうなることも予想していたはず。
「しかし領地の端に追いやる必要はあったのでしょうか?」
机に戻るオリヴィア様にそう口を挟んでみる。彼女はペンを手に取り書類に目を落として、そして小さく口角を上げた。
「あの子は元より貴族たちが蔓延る場所に向いていない。田舎でのんびりするほうが性に合っているだろう」
駆け引きなどド下手くそだろう、と楽しげにクツクツと喉を鳴らすオリヴィア様にこちらも思わず笑みが漏れる。
「村の管理が行き届いていないことも気になっていたしな。丁度いいだろう。あの子の性格ならば簡単に村人たちに溶け込むことができるはずだ」
「本当に、アリステア様のことが可愛くて仕方がないのですね」
微笑ましくなりそう言葉にしてみれば、彼女は一瞬だけ渋い表情をしすぐに勝ち気な笑みへと変える。素直でないのは相変わらずだと内心苦笑を漏らした。
「あの子もアホだな。後継ぎになっていれば婚約破棄などもっと簡単に済んだだろうに」
「そこがまた可愛らしいのでしょう?」
「……グレイソン。私で楽しもうなんざいい趣味をしているようだな?」
「ホッホッ、滅相もございません」
「優秀な執事がいて私も仕事が捗るよ」
確かにこうして会話をしている最中にも彼女の手は止まることなくひたすら動いている。クレヴァー家当主の仕事量はどこよりも多い。本当ならば弟に手伝ってもらってもいいぐらいだろう。しかし、それをオリヴィア様がアリステア様に告げることはない。
そんな彼女がふと手を止める。何かを思い出すかのように視点を一点に留め、そして目を伏せ小さく笑う。
「変わるものもあれば変わらないものもあるが……あの子は人の心がそう変わることもないということを知らないようだな」
その言葉に心当たりがあり、私もつい「ああ……」と苦笑を漏らしてしまった。無事婚約破棄が成立し自由の身になったと喜んでいるアリステア様なのだろうけれど、世の中にはイレギュラーというものが発生する。
恐らく彼はそのイレギュラーに遭遇することになる。しかしオリヴィア様はわざとそれを口にしなかったし、恐らく今後彼が苦労することを楽しんでいるのだろう。
「だからいつもアリステア様に泣かれるのですよ」
「あの子が泣き虫なだけだろう?」
アリステア様からの報告書が涙だらけになりそうだと、思わず同情心を抱いてしまった。
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