第3話 迷いの森

 一方その頃、マルスたちを追いかけていた追跡者は屋敷へと大急ぎで戻っていた。屋敷の中でも一番日当たりの良いサロンに駆け込むと、そこでは恰幅の良い初老の男性が、若い女性を相手に紅茶を飲んでいた。


「騒々しいな。私がここにいるときは静かにしろといつも言っているだろう」

「ほ、報告します! 客室のお客様らしき人物を外で見かけました」

「何だと? 捕まえたのか!」

「い、いえ、それが、まるで風のようにあっという間に消えてしまって……」


 ガシャン、と手に持っていたカップを床にたたきつけた。一緒にお茶を飲んでいた女性たちがビクリと肩を震わせる。良くあることである。彼女たちは自分たちに火の粉が降りかかる前にすぐさま部屋から出て行った。


「詳しく話せ。いや、その前に、だれかあいつの部屋を確認しろ!」


 屋敷の中が騒がしくなる。そして次々と報告が上がってきた。

 部屋の鉄格子が切断されている。部屋にはだれもいない。


「くそっ! 一体どうやって鉄格子を切ったんだ。まさか魔法か? だが魔法は使えないという話だったぞ。それに魔法を封じる魔道具も近くに設置してあったはずだ。どうしてこんなことに……」

「旦那様、それよりも早く捕まえなければなりません!」


 執事長が叫び声を上げる。この失態が国に知られればどうなるか。我に返った辺境伯も顔が真っ青になる。サロンの空気が一気に重たくなった。報告を上げた警備兵も顔色を無くしていた。


「南に向かったと言っていたな?」

「はい。間違いなく、草原を南に進んでいました」

「……まさか南の森に入るつもりか! 動ける者をすぐにかき集めろ。全員だ。集まったら南の森を調べさせろ。草の根をかき分けてでもあいつを探し出せ!」

「そんな無茶な! あそこは『入った者は二度と出てこられない』と言われている迷いの森ですよ。あの森に入ろうとする人はだれもいません」


 警備兵が悲鳴を上げた。それを聞いた辺境伯が両腕でドンとテーブルをたたきつけて立ち上がった。テーブルの上に整列していたティーポットや、お菓子をのせたお皿がわずかにその隊列を乱した。そのあまりに激しいけんまくに思わず警備兵が後ずさる。その部屋にいた人たちが一人残らず主に注目した。


「死にたくなければ今すぐ動け。全員だ、全員。もちろん私も行く」


 迷いの森に向かう者、逃げ出す者たちの移動によって、屋敷はあっという間にもぬけの殻になった。

 逃げ出した者たちが今は遠くなった屋敷を見ながらお互いにささやき合う。


「迷いの森に行くだって? 冗談じゃない。あそこには魔物が住み着いているんだぞ。死にに行くようなものだ。あの森があるおかげで、俺たちはこうしてカーマンド王国から攻められずに暮らしていられるというのに」

「あの森は年中、霧に覆われているらしいからな。道もなければ光も届かない。そんなところに行くやつはいない」

「おい、聞いたか? 最近あの森に強い魔物が住み着いたって話だぜ? 森から魔物が逃げ出してきて、近くの村がいくつも無くなったって話を聞いたことがある」


 一体何があそこまで辺境伯を駆り立てるのか。事情を知らない人たちは事の重大さを何一つ理解していなかった。当然のことながら、かつてあの屋敷にアレクシア王国の第二王子が監禁されていたことなど知る由もなかった。




 森の中を進むに連れて、だんだんと霧が濃くなっていた。周囲からは木の葉が風で擦れるような音が絶え間なく聞こえており、遠くからは獣が鳴くような声が聞こえた気がした。

 その声がだんだん近くなっているような気がして、マルスは気が気でなかった。


「ねえ、大丈夫だよね?」

『南に歩いているんだろう? それなら大丈夫だよ』

「何だか同じようなところを歩いている気がするんだけど……」

『似たような景色が続いているからな。そんな気持ちにもなるさ』


 楽観的なエクスに対して、そこまでの境地にはなれないマルス。日も暮れたようで辺りがより一層、薄暗くなってきた。おなかもすいている。水はいくらでも飲むことができるが、それで腹を満たしても一時しのぎにしかならなかった。それでも文句は言わなかった。


『今日はここまでだな』

「もうヘトヘトだよ」


 倒木を見つけて座り込むマルス。そこで初めて、エクスはマルスが疲弊していることに気がついた。剣の自分は疲れない。だからこそ、そのことを失念していた。

 しまったと思ったがもう遅い。今からでも何とかせねば。


『マルス、腹が減っているんじゃないか? 気がつかなくてすまない』

「そんなことないよ。これだけ動いたのは久しぶりだから、ちょっと疲れただけさ。それに初めて魔法を使ったからね」


 興奮気味にそう話したが、エクスはマルスがウソをついていることにすぐに気がついた。自分を責めないために。

 エクスは”あああ!”と叫んで頭をかきむしりたい衝動に駆られたが、残念なことに手がなかった。食べ物を出す魔法、そんなものがこの世界に存在するのか。さすがにそれは無理だとエクスは判断した。


『マルスに鼻が良く利くようになる魔法を教える。それを使えば果物を見つけることができるかも知れない』

「そんな魔法があるの? って、何これー!」


 マルスは頭の中に、デフォルメされた動物たちが、何かの匂いに誘われて食べ物にありつく映像を見た。二足歩行しているが人ではない。その奇妙な様子に、エクスにはこれが普通なんだとマルスは理解した。


『できそうか?』

「やってみるよ。エレファントノーズ」


 魔法を使った瞬間、色とりどりの匂いがマルスの視界に広がった。先ほどの映像と見比べてみると、このピンク色が甘い匂いなのだろう。引き寄せられるようにして匂いを嗅ぐと、果物の甘い匂いがした。


「こっちに果物があるね」

『よし、すぐに向かおうぜ。まだ動けるか?』

「もちろんだよ。もうおなかがペコペコで……」


 そこまで言ったところでマルスは自分の口を塞いだ。そして自分のうかつさに顔が赤くなった。だが、エクスは何も言わなかった。エクスはただ、それに気がつくのに遅れた自分を”バカバカ、俺のバカ”と恥じていた。

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