第2話 逃走中
マルスは剣を握りしめ、窓の前に立った。そこには行く手を阻むかのように、立派な鉄格子が備えつけてある。
この鉄格子さえなければ窓から外に逃げ出すことができる。マルスは幾度となくそのことを考えていた。
フッと息を吐き、明鏡止水の境地に達すると剣を鞘から抜いた。そのままの勢いで鉄格子を切断する。
音もなく切れた鉄格子が小さな音を立てて寝具の上に落ちた。やった! と叫びたい心をしっかりと押さえ込んだマルス。
『急げ、マルス。ここからは時間との勝負だぞ』
「分かったよ。それで、これからどうするの?」
周囲を確認し、外へ飛び出したマルス。素早く窓を閉めると、近くの植え込みにその身を隠した。慎重に周囲を見渡して、だれもいないことを確認する。その位置から見える屋敷の窓はどれも閉まっていた。これで不審に思われることはないだろう。前に窓を開け放っていたら警備兵が飛んで来たことがあったのだ。
『えっと、そうだな、プランBでいこう』
「プランB?」
『そうだ。プランBだ。マルス、プランBを提示してくれ?』
「……」
残念な物を見るかのような目でエクスを見つめるマルス。エクスの考えに期待した自分がバカだったことにすぐに気がついた。この剣は一体何者なのだろうか。自分をあの部屋から救い出してくれたのは確かだが、それ以外は何も分からない。
「このまま南に進めば森がある。その森を抜ければ、この国と中立関係にあるカーマンド王国へ行くことができるよ。まずはそこに向かおうと思う」
『良い考えだ。さすがは俺の相棒』
エクスの返事に苦笑いすると、マルスは植え込みに身を隠しながら屋敷から遠ざかった。いつ見つかるか分からない恐怖と戦いながらも、それでも全速力で南へと向かった。
「だれだ、そこにいるのは!」
後方から叫び声が聞こえた。だが、相手との距離は十分にある。屋敷を囲んでいた植え込みを越えて草原地帯に出たところで、身を隠す場所がほとんどなくなってしまっていたのだ。
『まずい、見つかったぞ』
「さすがに隠れる場所がないと無理だね」
マルスは走り出した。追いつかれるのは時間の問題だろう。いつの日か逃げ出すことを夢見て日頃から鍛錬を積んできた。だがしかし、それでも馬の足の速さにかなわないことは間違いなかった。
捕まる恐怖におびえながらも後ろを振り返ると、二頭の馬に乗った人物が追いかけてきていた。
「このままじゃ捕まっちゃう!」
『マルス、クイックだ。クイックの魔法を使え!』
「だから魔法は使えないって」
『大丈夫だ。マルスなら使える。ここには魔法を封じるものは何もない。俺を信じろ。こんな魔法だ!』
エクスはマルスに”動画を倍速にして見ている映像”を見せた。動画に映し出された人たちが、二倍、四倍、八倍の速度で動いている。その映像を見てマルスは舌を巻いた。
速いという次元ではない。速すぎて、どこか奇妙だ。だが、今の自分には必要な魔法であることを瞬時に理解した。
「クイック!」
風のような速さになったマルスがあっという間にその場から消えた。草原には風の通り道ができている。
あっけにとられる追跡者たち。マルスを見失った追っ手は慌てて屋敷へと引き返していった。
マルスは息も絶え絶えに森の外縁部へと到着した。近くの木にもたれかかり、呼吸を整える。森の中から吹きつけてくる冷たい風が心地良かった。
落ち着いて来たところで改めて草原を振り返る。そこには草木がどこか寂しそうに風になびいているだけだった。
「どうにか振り切れたみたいだね」
『そうだな。まだ日が暮れるまでには時間があるし、森に入った方が安全かも知れないな』
「そうかも知れないね。近くに泉か川があればいいんだけど。もう喉がカラカラだよ」
マルスの心にようやく余裕ができたところで、さっきまで何ともなかった喉が渇きを訴えてきた。それに無我夢中で走って来たので足に痛みがある。この辺りで休まなければ体が保たないだろう。前に地図で見たこの森には、間違いなく泉や川が描かれていた。
『水か。確かに水は大事だな。マルス、魔力に余裕はあるな?』
「え? うん、たぶん大丈夫だと思うけど」
エクスが魔力の心配をしてきたことでマルスは察した。きっと水を生み出す魔法を教えてくれるのだろう。エクスは魔法の達人だ。もしかしたら、かつて賢者だったのかも知れない。それがなぜか今は剣になっている。
『マルスに水を出す魔法を教えてやるよ。それがあれば、いつでも水が飲めるし、お風呂にも入れるからな』
「それはありがたい話だね。どうやって使うの?」
『こうするんだよ』
マルスに”水道から水が出る映像”を見せる。手をひねると金属の先端から水が勢い良く出ていた。すごい。こんな魔法、初めて見た。そしてどうやら、念じることでお湯も出せるみたいである。同時に白い湯気も上がっていた。マルスは感心しつつも、喉の渇きを潤すために魔法を使う。
「ウォーター」
鞘ごと剣を突き出して手をひねると、柄の部分から勢い良く水が出て来た。これで水が好きなだけ飲めるぞ、と喜びの表情になるマルス。その一方で、その光景を見たエクスがあせる。
『マルス、何考えてんだ! 水の勢いが強いのはあとで何とかするとして、どうして剣の柄から水が出てるんだよ』
「だって、こんな感じで水が出てたよ?」
『水が出るのはどこからでもいいんだよ。空中から水が出るように想像するんだ。そうでないと、両手が使えないだろう?』
エクスが指摘したように、この状態だと片手が塞がってしまっていることに気がついたマルス。さすがはエクス。まずは水を出せるようにして、それからどこからでも水を出せるようにする。そうやって段階を踏んで教えてくれているのだとマルスは理解した。
しかしエクスの内心は違った。自分が見せた映像でマルスが想定外の魔法の使い方をしている。このまま訂正しなければ、マルスがだれかに笑われてしまうことになるのではないか。そうなると恥ずかしい思いをするのはマルスである。たぶん男の子であるマルスがそんな目に遭うのは避けた方が良いだろう。
「ウォーター」
今度はエクスの指示通りに空中から水が出た。それを両手ですくっておいしそうに飲むマルス。その様子を見て、エクスは本当に男の子だよな? と自問自答していた。
稲穂のように美しい黄金色の髪。その黄金色の髪を少しだけ暗く染め上げた黄金の瞳。肌の色は白く、そして細く頼りなかった。
人心地がついたところで森の中へと入っていく。ヒンヤリとした風は森の奥からとめどなく吹きつけている。ちょっと湿った風だった。森は奥へ行くほど影が落ち、薄暗くなっている。もちろん道など存在しない。
『それにしても、良くこの場所に森があることを知ってたな。この森のおかげで身を隠せるし、逃げやすくなったぜ』
「世界地図を見たことがあるんだ。それでどこに何があるか覚えていたんだよ。もしあそこから逃げることができたなら、この順路で国まで帰ろうと思ってさ」
『それじゃ最初から脱走計画があったというわけか。さすがはマルス。もしかしてお前、天才か?』
いやぁ、それほどでも、と照れるマルス。しかし逃げ出す機会がなければただの絵に描いた餅である。こうして実行に移せたのはエクスの力があってのことだった。そのことをマルスは良く知っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。